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中野信子著“努力不要論”を読んで

ある時、本の検索をしていたら刺激的標題が目に飛び込んできて、一瞬目を疑った。それが“努力不要論”であった。ついに、こういう議論が表に出て来たのかと驚き、先ず一体誰が書いたのかと気になった。そして副題が“脳科学が解く!「がんばってるのに報われない」と思ったら読む本”とある。脳科学者が言っているコトなら、変なオカルト的要素も少なく、まぁ安心して読める本ではないか、と思って書店に赴き手に取ってみることにした。本にはある種の趣がありそれを大切にするべきだと言う識者の見解を私は尊重するべきと思っているので、それはネットでは分からないので私はそれを書店の店頭で確かめてから買うなど読むための行動をとることにしている。
実際に、手に取ってみると若い女性の著者のようであり、東大工学部出身でありながら、結局のところ脳科学へ転進し、フランス国立サクレー研究所で仕事をしたという横浜市立大学准教授とのことで、相当な頭脳の持ち主と見受けられた。また、単行本で行間も広いので気楽に読めそうな雰囲気があったので、買って読むことにした。
先ずは、脳科学が「がんばってるのに報われない」と思ってしまう状態をどのように客観的に解明しているのかが、知りたかった。また、かねてより“努力”の哲学的意味、人生における意義をかみしめるための手懸りが欲しいと思っていたことへの一つの解答も得られるのではないかと思ったのだ。何せ、多くの人々が報われない努力に身を投じている実態をどう考えるべきか、それを無駄な事と一笑に付してしまうことは、やはり人として不謹慎であると考えるべきか、そういうことへの回答にもなるのではないかと。だが読後、改めてこの副題を見ると、理解の補助として読んだ同じ著者の“脳はどこまでコントロールできるか”によれば、上手く“バーナム効果”を使って本をPRしているとも言え、私もハメられたのだとようやく気付いたのだ。つまり、自分の努力は報われていないと誰もが大小に抱いている不満だからだ。だが、この分野の私の知識は非常に乏しいので、読んだ意義は大いにあったと思っている。

前置きが思わず長くなってしまった。現代は、それだけ問題が多い。騙されないために、どうするべきか。それこそ、無駄な本を読んで無駄な時間を過ごすことをさけるために、一応私はこういうことを考えながら“努力”しているつもりだ。また、長くなった、申し訳けない。

この本の冒頭は、現代の若者は、お金がないのは“自分の「努力」が足りないせいだ”と思い込まされていて、もっと「努力」すればそういう境遇から抜け出せるハズだができず、仕方ないコトという思いに乗じて、ブラック企業は洗脳して利用している、という意味の指摘から始まっている。そして、著者は脳科学を修める内に“努力というものの本質が持つ、心理的な罠について気付くことができ”た、と言っている。だから、“見返りを期待して、楽しくないものに苦痛を伴う努力を重ね、恨みをため込むくらいなら、やめたほうがいい―。”最近の主張としては、あまりお目にかからなかったし、斬新で面白い印象を持って内容に入って行った。

“優秀な資質を持っていて、努力をしているにもかかわらず、それが報われない”場合は、努力が単なる思い込みで実際にはしていない、或いは、努力の方向が間違っていて無駄なことをしていることが、考えられる。“ポテンシャルがあって、努力もしているのに結果が出ないときは、そういう間違った努力”の可能性がある。正しい努力をすること、“まず自分が何をしたいのか、そのためにはどうすればいいのか。それを知るための努力が、本当に必要な努力”だ、という。

また、“がんばる”こと自体が“自分を冷静に見つめる目を失わせる”ことになり、“努力することが楽しく”なってしまうという。“ストレスがたまるとか、睡眠不足、空腹である(血糖値が低い)”と思考力が低下してしまうのだ。“努力すること”は、ブラック企業が使うレトリックであり、そのように洗脳されたくない人はきちんと“睡眠をとり、しっかり食べて、ストレスはためない”で“広義の努力―適切に目的を設定し、戦略をたて、実行すること”が肝要だと言っている。努力の「努」は奴隷に通じるところがあり、“他者の思考を強制され、自らの思考を放棄する”のにつながっているという話も紹介している。
先の戦争でも、日本の生産拠点では“東条首相の算術/2+2=80”というポスターであふれ、リスキーシフトした過激な極論が横行し、論理的で冷静な議論を排除した精神論が、幅を利かしていた。“死ぬ限界までやれば人ならざる何かが感応して助けてくれる。カルト教団に見られる信仰心に似た信念が、一人ひとりの戦いを支えていた”。その一方、米国は“勝つという目的のために物量、補給線、戦力の配分など、徹底した計算”の下に勝利した事実があった。
ところが現在の日本にも、その精神性は厳然と生きていて、“甘美な「ポエム」で人を鼓舞し、人を使い捨てにする企業”が未だあるのだ。

そんな日本、江戸時代は“時代全体が、むしろ「遊ぶ」ということを尊び”、それをプラスにとらえ、“教養のある人や余裕のある人にしかできない、高尚で粋なものだった”、という。本居宣長の大和魂も、“当面の生活にはとくに役立つわけではないけれども、面白かったり、楽しかったり、美しかったり……ありのままに感じるものを大切にすること”であり、“人間の持つ余裕や、優雅さや、豊かさや、風格というのはここから発するもの”だと言っている。
こういう気風は明治維新で変わってしまった。“こうした変化は薩摩、長州出身のエスタブリッシュメントたちの考え方が支配的になったことで現われた”と言っている。“日清戦争や日露戦争という、自分たちの実力以上の勝利を収めてしまった。・・・このとき、盲目的に努力すると言う行為が美化されてしまった”と考えているという。こういう主張の歴史学的な論証がどこまで正確かは知らないが、明治維新の負の側面をこのように指摘するのを見たのは、初めてである。
さらに、“「生きていくために必要なことしかしない」というのは、じつに貧困なこと”である。“努力というのは生きていくために必要なもの”だが、その“必要な部分以外にもリソースを割けるということが、豊かさであり、洗練されている証拠”だ。

最近の“ゆとり、さとり”を言う若者の登場は、“努力信仰に洗脳されることなく、豊かな精神性を持つことができるようになったことを示す傾向で、望ましい健全な変化だ”とも言っている。“ニートや引きこもりが、日本のリソースなのではないかと考える”ことがあるという。例えば「クールジャパン」は、社会のメインストリームではないニートや引きこもりのサブ・カルチャーだったのが世界の注目を集めたので、知財化して収益を挙げようとしているではないか。
現在の日本では、「電車の中で泣きわめく赤ちゃん」、「妊婦」、「子連れの母」、「育休を取る父親」も「役に立たない人」にカテゴライズされていて、不景気の中で排除される傾向が強くなっているように感じるという。少子化を懸念するならば尊重されるべき人達にもかかわらず、そんな社会意識が容認されたままで良いのだろうか。(これは、母親の幸せそうな様子や一種の「ぜいたく」に対する妬みのような心情であると後で指摘している。)

欧米には努力中毒は居ないというが、それを著者は脳内のセロトニンという物質の多寡で説明している。セロトニンは「幸せホルモン」と呼ばれ、欧米人は多く日本人はその分泌が少ないのだという。多いと幸福感で満たされるが、少ないため少々のことで不安になってしまう傾向にある、つまり他人の言動、評価に左右されやすい。また、セロトニンには戦う・喧嘩する・逃げるための物質であるノルアドレナリンの分泌を抑える働きもあるので、セロトニンが少ないとそのノルアドレナリンの分泌が多くなり、日本人は“慎重で人の言うことをよく聞き、空気を読むけれども、我慢して我慢してキレてしまう”国民性なのだという。
だから、日本人は何か発明しても批判されると引っ込めてしまうし、逆に心配性の影響で既にあるものの弱点を見つることが得意であり、その改良・改善を極限にまでしてしまうことができる。オリジナリティ欠如の問題ではないのだ。

自分が報われないのは、成功を独占している者がいるせいではないか。そして才能を活かして活躍する人を見て「ずるい」ことをしているはずと思ってしまう。頭の良さは、身体的能力と違って外観からは容易に客観評価できない。そこに、「オレだってできるのに、なんであいつだけ評価されるのか?」という不条理を感じてしまう。それが“妬み”である。
この“妬み”が、組織から逸材を追い払うまたは、潰し去るベクトルが働くのだと言う。例えば、優秀な人が才能を買われ、また組織への貢献から高い報酬を得る、或いは他の全員がするべき義務を免除されたりする。するとその逸材だけがみんなの協力構造に“タダ乗り”しているように見えてしまう。そうなると、相互の協力が得られなくなるという動きが生じるという説明。
また、セロトニンの少ない人々は、誠実である一方で、不公平感を感じやすいデータがあるという。つまり、“「真面目にやっているのに報われない……」と、世界で一番感じやすいのが日本人”であるとのこと。

自分の“才能”の認識について、“自分が持っている適性を知って、自分の評価軸を確立できているかどうかということに尽きる”とし、“その意味では、才能のない人はこの世に存在しない”、と言い切っている。だから、目標の本質の見極め、最終ゴールを的確に設定して、自分にとって困難なプロセスがあれば迂回すること、例えば学歴が障害ならば大学院を狙うような“学歴ロンダリング”を考えるのも良い。偏差値は世の中の役に立つための絶対的評価軸ではないので、なおさらである。
また、“短所=才能”であるとも例を挙げて言っている。これは、良く言われることだが、自分の問題となるとなかなか難しいので、信頼できる他人に教えてもらうのが良い。

必要なのは“努力する才”ではなく、“意志力”である。夢、目標を叶えるためには計画を立て、それに沿って欲求を自制し行動をコントロールする力が必要で、それが意志の力である。そして、その意志力は前頭前野の機能によって左右されるので、特に子供時代の愛情は重要であり、大人になってからも効果は小さいがその育成は可能だと言う。

自分にできること、できないことを見分けて、できないことについては、できる人に任せるのは重要な戦略だ。特に、“後継者を育成するという点においては、自分1人で何でもやるというのは、無駄な努力、間違った努力”だとも。その例として“水滸伝”の主人公宋江には突出した能力はないが、“人の能力を見抜く才能”があり、リーダーとなった。そのために、“人を褒めてその心を開かせる”ことが肝要で、その人への理解を示すことだと言う。

私は人生の勝利者に近付くには長生きすることだと思っていて、戦国の世の最終勝利者が徳川家康の例を思い浮かべる。著者も徳川家康より長寿だった戦国武将の例を引いて、“長寿の秘訣は、戦わないこと、無駄な努力をしないこと”だと言っている。また、多くの人の最期を看取った経験者によると、人生の最後の言葉として多いのは、“あんなに一生懸命働かなくてよかった”が1番、“もっと自分の気持を表す勇気を持てばよかった”、“自分をもっと幸せにしてあげればよかった”がベスト5に入ると言う。で、“自分の気持に反して努力を続けようと思うでしょうか?”でこの本は終わっている。

結局のところ、人生のハウ・ツゥ本であると、読み終えてようやく理解したのである。考えて見れば当然のことか。

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