産業革命の時代から企業において「効率化」とは、収益を増幅させる手段としてはもちろん同業他社との競争に勝つために欠かすことのできない活動であったことは確かなようです。
去年(2008年)、アメリカから広がりはじめた世界経済破綻をきっかけに私の勤めている会社でも連日のように「効率化!効率化!」を謳っています。無駄な仕事を削り、同じ作業においても時間を短縮する方法を探ったりするなど、効率化には手段と方法を選ばないようにと言われているのです。
その中には、必要性のない人の削減も入っていたようで今年は数多くの人が会社を後にしなければならなくなりました。皮肉なことに、その人たちもかつては企業の効率化に少なからず貢献したことには間違いないということです。このような状況は、既にあらゆるマスコミで知られているように、私の会社だけのことではないと思います。
私は、普段から「効率化」という言葉のもつ意味についてよく考えています。
●企業の行っている「効率化」が究極的に追求しようとしている到達目標はいったいどこなんだろうか?
●企業は、まるで「効率化」= 善 のように叫んではいるが、その活動の末には果たしてみんなが幸せになるのか?
●「効率化」は、誰のための活動なのか?
●「効率化」で一番利益を得るのは誰なのか?
などなど、沸いてくる疑問は数えることができません。
短期的に考えてみれば、効率化することで同じ作業においてもその実働が減ったり作業が楽になったりし、その分だけより多くのものを生産することができるので会社における収益があがることは当然のように感じます。そして、社員たちも効率化による実績に対する報酬がもらえるし場合によっては早めに昇進することができるかもしれません。
しかしながら、人類の歴史の規模で考えれば、1.5万分の1にも及ばない間、人類の数(人口)は58億人も増加し(下記統計資料参照)、それとちょうど半比例するように地球上のすべての生き物が享受すべき資源は減少していることが分かります。

(国連資料)http://www.unfpa.or.jp/p_graph/pgraph.html
一見、これは「効率化」とは何のかかわりがないように思われるかもしれません。
わかりやすく説明するために一つ例をあげて見ましょう。
小説「モモ」で著名なミヒャエル・エンデは、晩年とあるインタビューで、下のような例を挙げながら世界経済と自然環境との関係についてこう警告しました。
「ロシアのバイカル湖の人々は紙幣がその地方に導入されるまではよい生活を送っていたといいます。日により漁の成果は異なるものの、自分たちが食べて近所の人々とともにする分は常に得ることができました。しかし、今日のバイカル湖にはたっだの一匹の魚も採ることができません。一体なにが起こったのでしょう。
バイカル湖の魚がなくなり始めたのは、紙幣が導入された時期と見事に一致しています。
紙幣の導入と一緒に銀行のローンもやってきて、漁師たちは、むろんローンでもっと大きな船を買い、さらに効率の高い漁法を採用しました。冷凍倉庫が建てられ、採った魚はもっと遠くまで運搬できるようになりました。そのために対岸の漁師たちも競って、さらに大きな船を買い、さらに効率の高い漁法を使い、魚を早く、たくさん採ることに努めたのです。ローンを利子つきで返すためだけでも、そうせざるを得ませんでした。それが、今日のバイカル湖に魚がいなくなった理由です。」
産業活動により経済は膨らみ続け、今や企業は一歩間違えるだけで生と死が分かれてしまいそうなぎりぎりなボーダーラインでの投資を続けるようになりました。今になって、「効率化」とは、ちょっと昔の状況と違い、競合他社との競争に負けて存続するか否かを切り分けるほど切実なものになっています。
それは、全体的においてはもちろん、個々人においても同じことが言えます。
果てしない効率化活動により、元々人が得られるはずだった「心と時間の余裕」は、今やどんどん忙しくなるばかりの悪循環として返ってきました。
医学技術の発達により、人間の寿命は二倍ほど伸びましたが、皮肉なことに元々人間が使えたはずの余裕は逆に半減しています。また、今でも、効率化へのスピードは富国と貧国の格差を同じ速度で広げており、同国内でも富裕層と貧困層のスピードや格差を広げ続けています。
かつて効率化を図った人たちが、その効率化により必要なくなってしまうケースが増えたのもそれとまったく無関係とは言えないでしょう。
もしかしたら先進国とよばれる国々で暮らしている私たちには「善」のように感じられるかもしれません。マスコミで毎年だしている国民生活水準の向上に関する報道や記事などがそれを証明しているように思えます。もしかすると、その記事はただの騙しに過ぎないかもしれませんが、そこまではここで深く議論しないようにします。
では、「効率化」は何が問題なんでしょうか。
それは、経済成長と同じように、効率化にははっきりとした到達目標がないことにあると私は考えています。
効率化によって稼いだ時間や利益は、そのために犠牲にならざるを得なかった自然環境や資源(これらははっきりとした持ち主がいないにもかかわらず人が勝手に掘り出して売り買いしているものですが。実を言うとこれらの持ち主は”私たちの子孫”であると私は考えています)、そしてそれを実現させた人員に平等に還元されず、どんどんさらなる拡張へと投資されてしまいます。
それらの活動は、またさらなる犠牲を生み出し、いつの間にか予想もしなかったところで大きな弊害をもたらすかもしれません。
300年の産業化・効率化という実験台としての期間に私たちは何を成し遂げて、その代わりに何を失ったのかをそろそろ直視すべき時期になってきていると思います。
私たち人類を含め、全世界に存在する企業の人々は人の欲望と同じように、到達地点の定まらない経済成長や効率化の進行には、自分の住処(地球)の多大なる犠牲を踏み台にしていることに早く気づかなければなりません。
なぜなら、それを考える作業は、これからこの地球上で生きていく私たち自身の子供達のためでもあるからです。