今回は私が今までに聞いたり調べたりした戦時中のお話しを致します。
私が今住んでいる家の近くに住んでいた数年前に亡くなった親戚のおじさんから聞いた話ですが、JR木幡駅からJR六地蔵駅に向かってくるときに左のほうに引き込み線跡があります。それは土で盛り上げた土手となりその上を通って現在のパナソニック木幡工場の裏側を通りその先にあった火薬製造所へと続いていたのです。現在は線路ははずされ土手だけが残っており、その境界石には『陸軍用地』と刻まれています。今の桃山南団地付近に分工場がありこの辺りまで線路がひかれていたと思われます。その引き込み線の土手は第二次世界大戦中に朝鮮人の強制労働者を使い東御蔵山からトロッコ線を引いて土を運んだそうです。また戦時中で報道規制がひかれているため知らない人も多いと思いますがこのトロッコと国鉄が衝突する事故もあったそうです。また昭和12年8月に宇治火薬製造所で大爆発事故が起こり8名が死亡18名が負傷と駐屯地の資料には書いてありましたが、私がおじさんから聞いた話では8月16日のお盆で大文字の送り火の日で六地蔵地域の人も醍醐方面へ避難指示が出たそうです。
その宇治火薬製造所がこれです。この地図のどこまでかわわかりませんが現在の桃山南小学校あたりまでは線路があったようです。

これが山本五十六書の日本海軍96式陸上攻撃機のプロペラの篆刻です。

そしてもう一つ戦時中のお話しを・・・
これは私の母や地元の人に聞いた話ですが、京都は空襲がないと思われている方も多いと思いますが。実は数回ありその中でも、私が生まれた時から住んでいた東山区の馬町で空襲があり多くの人が亡くなりました。
京都新聞によると馬町空襲 1945年1月16日午後11時20分ごろ、1機のB29が京都市上空に飛来、京都市東山区馬町付近に爆弾を投下した。府の記録によると、死者34人、負傷者56人、全焼・全壊31戸、半壊112戸。修道国民学校(修道小→東山小)や京都女子専門学校(現・京都女子大)などが大きな被害を受けた。
この修道小学校は私の母校で学校年表にはこのことが書かれていたのを覚えています。多くの死傷者が当時あった講堂に運ばれたそうです。
生徒も何人か犠牲者がいたようです。当時小学生の私の母親は泉涌寺の近くに住んでいて、大きな爆音と地響きがしたそうです。
戦争に関する話は絶対に風化してはいけません。皆さんもできるだけ関心を持ち子供たちに戦争の怖さ愚かさを伝えていきましょう。











引込み線の話よくわかりました。ありがとうございます。
もしやと思い、国土情報ウェブマッピングシステムのカラー空中写真で見たところ、木幡駅付近の40年代の写真にも、引込み線と思われる線が写っていますね。http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-15/c15/ckk-74-15_c15_18.jpg
地元なのに知らないことばかりです。(笑)
それと、近所のお年寄りに聞いた話を思い出しました、時代がわかりませんが、宇治川の西側にも製造所の飛び地があって、爆発事故があったとか。でも、現在は自衛隊も無いですし、国有地も川の西側には無いと思います。御存知だったらまた教えていただければ幸いです。
↑で書いた写真ですが、木幡駅と思ってたのが黄檗駅で、引込み線と思い込んだのは、現在も同じですが黄檗以北でJRと京阪が別れてるだけでした。(思い込みと地図の読解力の無さに涙)
すみませんでした。
http://nlftp.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-15/c14/ckk-74-15_c14_18.jpg
国鉄木幡駅付近から左へ行き松下の裏を抜けている土手が見えますよね〜。これが火薬工場へ行っていた引き込み線です。わかりにくいですがこの写真ではすでに線路は取り払われているように見えますね。
しかし、現在の桃山南小学校あたりをよく見ると線路、分岐器(ポイント)、ホームの屋根、倉庫のような建物が見えますね〜。おそらくここが終点で火薬製造所の建物ではないでしょうか!?
これは貴重な写真ですね!
それと、私も親戚のおじさんから爆発事故は1回だけでなく何回かあったが報道規制で知らない人が多いと聞いています。宇治川の西側にも工場があったかはわかりませんが下請けの町工場でもあったかもしれませんね。