○楽しいことなんて、それほどないんだよ、でもね・・・
人間、絶好調なんていう時期は、限りなく短くて、また、それはたまにしか巡って来なくて、いや、歳とともに、「たまに」が「殆どない」という具合に変化しても来る。それに、若き頃の、調子に乗っていた時期の、たぶんかなりな錯覚だったと思われる<絶好調>な気分の内実も、客観的な状況が視えないからこそ、あまり根拠のないハイテンションを抱きつつ生き抜けた、といまにして思う。根拠なきハイテンションこそが楽しい、と言ってしまえばそれまでだが、気分の上下動は、確実に自分に襲い来るものなので、ふと、冷静に立ちもどってしまうと、ハイな楽しさなんて、ぞっとするほど無意味で無価値なものだったと落胆する。落胆して、落ち込んで、もうこの先生きていくのも億劫になることだって、しばしばなんだ。それをたとえて云えば、喉がカラカラに渇いて、雨水が地面に溜まって、そのドロ水をすくって飲んでいるかのような感覚か。まあ、人間、結構長くやっていて、失敗も多くなると、こういうやけっぱちな気分で自分の最期を迎えてもやろうじゃあないか、ということになってしまう。
特に人が人として、生き生きと自分の生を充溢した気分で乗り切れるかどうかは、やはり人との関係においてだろうね。昨今は人間関係がうまくいかない、という訴えをよく耳にするけれど、こういうことは、人が定住生活をして以来、定住したがゆえに、他者を排除しなければ生き残れない、という心的構造が出来あがってきたことがそもそもの要因だ。と、少なくとも僕はそう思っている。
「人間関係がうまくいかない」とは、人間関係は円滑かつ円満に成立しなければならないものだ、という近現代の教育の中心的な課題が裏返ったものだ、と僕は思う。しかし、よく考えなければならないことは、このような人間関係論は、決して全人類史的な観点ではなく、狭めて云えば、縄張り意識、もっと広めて見れば、国家レベルの体制的集合意識とでも定義した方が妥当なものだろう。だからこそ、国家的防衛と同時に、侵略もこの世界から消え果てることはない。明らかな軍事的侵略でなくても、経済的恫喝というのもあるだろう。かつての、夢想的インターナショナルだって、あくまで、「万国の」という意味から自由ではなかったはずだ。インターナショナリズムをさらに突き詰めたコスモポリタリズムという概念もあるけれど、これなどは、少なくとも現代の人間のリアリズムのありようでは、実現不能な夢物語だろう。おとぎ話と言っても言い過ぎではないほどに、人の精神性に対する限界を感じてしまう今日この頃。
生きていて、楽しいことなんてそれほどないね。そういう結論に行き着いてしまう。生きることにおける取り返しのつかなさも、嫌と云うほど味わったし、この先、明るい未来など開けてこようなどとは決して思ってもいない。僕を支えている感情は、ここまで生き延びてしまった、というある種の驚愕に近い観想。そうであるなら、自分の最期を見とどけてやる、という、意地みたいな感覚かな。そんな気分で、いまを生きているんです。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人間、絶好調なんていう時期は、限りなく短くて、また、それはたまにしか巡って来なくて、いや、歳とともに、「たまに」が「殆どない」という具合に変化しても来る。それに、若き頃の、調子に乗っていた時期の、たぶんかなりな錯覚だったと思われる<絶好調>な気分の内実も、客観的な状況が視えないからこそ、あまり根拠のないハイテンションを抱きつつ生き抜けた、といまにして思う。根拠なきハイテンションこそが楽しい、と言ってしまえばそれまでだが、気分の上下動は、確実に自分に襲い来るものなので、ふと、冷静に立ちもどってしまうと、ハイな楽しさなんて、ぞっとするほど無意味で無価値なものだったと落胆する。落胆して、落ち込んで、もうこの先生きていくのも億劫になることだって、しばしばなんだ。それをたとえて云えば、喉がカラカラに渇いて、雨水が地面に溜まって、そのドロ水をすくって飲んでいるかのような感覚か。まあ、人間、結構長くやっていて、失敗も多くなると、こういうやけっぱちな気分で自分の最期を迎えてもやろうじゃあないか、ということになってしまう。
特に人が人として、生き生きと自分の生を充溢した気分で乗り切れるかどうかは、やはり人との関係においてだろうね。昨今は人間関係がうまくいかない、という訴えをよく耳にするけれど、こういうことは、人が定住生活をして以来、定住したがゆえに、他者を排除しなければ生き残れない、という心的構造が出来あがってきたことがそもそもの要因だ。と、少なくとも僕はそう思っている。
「人間関係がうまくいかない」とは、人間関係は円滑かつ円満に成立しなければならないものだ、という近現代の教育の中心的な課題が裏返ったものだ、と僕は思う。しかし、よく考えなければならないことは、このような人間関係論は、決して全人類史的な観点ではなく、狭めて云えば、縄張り意識、もっと広めて見れば、国家レベルの体制的集合意識とでも定義した方が妥当なものだろう。だからこそ、国家的防衛と同時に、侵略もこの世界から消え果てることはない。明らかな軍事的侵略でなくても、経済的恫喝というのもあるだろう。かつての、夢想的インターナショナルだって、あくまで、「万国の」という意味から自由ではなかったはずだ。インターナショナリズムをさらに突き詰めたコスモポリタリズムという概念もあるけれど、これなどは、少なくとも現代の人間のリアリズムのありようでは、実現不能な夢物語だろう。おとぎ話と言っても言い過ぎではないほどに、人の精神性に対する限界を感じてしまう今日この頃。
生きていて、楽しいことなんてそれほどないね。そういう結論に行き着いてしまう。生きることにおける取り返しのつかなさも、嫌と云うほど味わったし、この先、明るい未来など開けてこようなどとは決して思ってもいない。僕を支えている感情は、ここまで生き延びてしまった、というある種の驚愕に近い観想。そうであるなら、自分の最期を見とどけてやる、という、意地みたいな感覚かな。そんな気分で、いまを生きているんです。
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長野安晃
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