ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

どの様な治療でクライアントの皆様が回復していくか。私の読書便り、日常の出来事などエッセイ風に書いていきます。

○楽しいことなんて、それほどないんだよ、でもね・・・

2012-04-24 09:34:37 | 観想
○楽しいことなんて、それほどないんだよ、でもね・・・

人間、絶好調なんていう時期は、限りなく短くて、また、それはたまにしか巡って来なくて、いや、歳とともに、「たまに」が「殆どない」という具合に変化しても来る。それに、若き頃の、調子に乗っていた時期の、たぶんかなりな錯覚だったと思われる<絶好調>な気分の内実も、客観的な状況が視えないからこそ、あまり根拠のないハイテンションを抱きつつ生き抜けた、といまにして思う。根拠なきハイテンションこそが楽しい、と言ってしまえばそれまでだが、気分の上下動は、確実に自分に襲い来るものなので、ふと、冷静に立ちもどってしまうと、ハイな楽しさなんて、ぞっとするほど無意味で無価値なものだったと落胆する。落胆して、落ち込んで、もうこの先生きていくのも億劫になることだって、しばしばなんだ。それをたとえて云えば、喉がカラカラに渇いて、雨水が地面に溜まって、そのドロ水をすくって飲んでいるかのような感覚か。まあ、人間、結構長くやっていて、失敗も多くなると、こういうやけっぱちな気分で自分の最期を迎えてもやろうじゃあないか、ということになってしまう。

特に人が人として、生き生きと自分の生を充溢した気分で乗り切れるかどうかは、やはり人との関係においてだろうね。昨今は人間関係がうまくいかない、という訴えをよく耳にするけれど、こういうことは、人が定住生活をして以来、定住したがゆえに、他者を排除しなければ生き残れない、という心的構造が出来あがってきたことがそもそもの要因だ。と、少なくとも僕はそう思っている。

「人間関係がうまくいかない」とは、人間関係は円滑かつ円満に成立しなければならないものだ、という近現代の教育の中心的な課題が裏返ったものだ、と僕は思う。しかし、よく考えなければならないことは、このような人間関係論は、決して全人類史的な観点ではなく、狭めて云えば、縄張り意識、もっと広めて見れば、国家レベルの体制的集合意識とでも定義した方が妥当なものだろう。だからこそ、国家的防衛と同時に、侵略もこの世界から消え果てることはない。明らかな軍事的侵略でなくても、経済的恫喝というのもあるだろう。かつての、夢想的インターナショナルだって、あくまで、「万国の」という意味から自由ではなかったはずだ。インターナショナリズムをさらに突き詰めたコスモポリタリズムという概念もあるけれど、これなどは、少なくとも現代の人間のリアリズムのありようでは、実現不能な夢物語だろう。おとぎ話と言っても言い過ぎではないほどに、人の精神性に対する限界を感じてしまう今日この頃。

生きていて、楽しいことなんてそれほどないね。そういう結論に行き着いてしまう。生きることにおける取り返しのつかなさも、嫌と云うほど味わったし、この先、明るい未来など開けてこようなどとは決して思ってもいない。僕を支えている感情は、ここまで生き延びてしまった、というある種の驚愕に近い観想。そうであるなら、自分の最期を見とどけてやる、という、意地みたいな感覚かな。そんな気分で、いまを生きているんです。

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○哀れな末路なんて、よく言うけれどね。

2012-04-22 12:00:36 | 観想
○哀れな末路なんて、よく言うけれどね。

哀れという言葉は、人の哀れを誘うという表現があるくらいだから、たとえば、哀れな末路などと言うと、そこには、死にゆく人、あるいは死した人に対する一般的・常識的な価値観を介した、どちらかと云えば、負の評価になっているのだろう、と思う。

しかし、他方で日本人には、おそらくはかなり少数の、知識層に属する人々にだけ理解できる価値意識としての「もののあはれ」という言葉もある。本居宣長が、「もののあはれ」と語るとき、それは、「もの」すなわち対象客観と、「あはれ」、すなわち感情主観の一致するところに生じる調和的情趣の世界。優美・繊細・沈静・観照的の理念(広辞苑から)を意味することになる。

そうであれば、日常語としての「哀れ」は、時代の荒波の中で変質してきたにしても、そこには、人生の敗残者の最期に対する同情と蔑視の入り混じった感情が支配的だと考えて差し支えないだろう。そして、その言葉に込められた、哀れと称する側にいる自分もまた敗残者ともなり、哀れな末路を迎える可能性があるとの認識ー「もののあわれ」が時間とともに最小限に変節した生に対する危惧感ーが言葉の底に埋もれていると、僕は思うのである。だからこそ、哀れという概念は、幽玄の美的な観念論から、日常的次元における心の浮き沈みへと転落したと考えるのが妥当な解釈ではないのだろうか?

さて、上記のような考え方を自分なりに解釈し、「もののあわれ」から現代的な哀れに変質してしまった、たぶん、変節どおりに哀れな最期を迎えるだろう僕自身の、残りの生に対する構えとはいったい何か?おそらく、それは観念的に湧き出してくる死のイメージを極力排除すべきなのではないか、と推察する。僕は自分の死を死するがままに死ねばいいのであって、ここに如何なる抗いの念を差し挟む余地はないものと思う。世が不条理だとも不合理だとも言い続ける。が、不条理・不合理の極みとも言うべき、唐突な己れの死は、不条理そのものを受け入れる、最期の場面だろう。いいだろう。そういう覚悟でいまひと息、生き抜く。自死はしない。それは、不条理性を、たぶんこの世界に生きるということについてまわる、死の原理を避けるのはまっぴらだ、と僕は認識し始めたからだ。圧倒的な思想的敗北。これをわが身に受け止めなくてどうするというの?僕はがんばりますよ。それがどういうものか、舌舐めずりして出迎えますよ。

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○気が短い、気が長い。

2012-04-19 13:40:19 | 観想
○気が短い、気が長い。

短気な人もいれば、ものごとに対して鷹揚な人もいる。多くの人は、なぜこういう性格のタイプの違いが生じるのか?という問いに対して、個性的な問題だろう、と答えるだろう。あるいは、もう少し敷衍して、個性は、育った環境によって大概決まるものだから、個性そのものが、人の成育歴と深く関係しているだろう、とも答えるのだろうか?

上記のことは、大いに認める。このような要素抜きにして人のことを語れると思うのは、逆に、かなり無責任な印象批評論者ではないか、と僕は思う。

しかし、僕は、また違う角度から、ある人が短気であること、また、その逆に、気が長いということについて、考えることがある。それはこういうことだ。

時間についての概念性の違い。一日は24時間で、閏年を除けば、一年は365日だということに疑いを差し挟む人はいない。また、僕たちの日々の生活は、この時間の取り決めに従って成立している。しかし、どうなんだろうか?人間が根拠にしている時間の流れは、人間の拙い宇宙科学的知識からわり出した、地球の一回転に要する時間、もっと具象的に云えば、日が昇り、日が沈むという現象を一区切りにすることに、合理性を感じているだけなのではないか?よく僕たちが感得している体内時計という生理機能的な現れも、一日を24時間という区切りで生きてきた、長きに渡る慣性が常態化したものではなかろうか?誤解なく。太陽暦、太陰歴の異なりなどという細かなことはこの拙論のファクターにはない。

このような前提を置いて、僕が言いたきことはこうだ。短気、イラチ、気が長い、物事に対して鷹揚だ、という相反する人の個性は、そもそも個性という言葉が最も当てはまらない概念性ではないか、ということだ。時間の流れ、時間の長短、などは、本来、個としての人間の感性という視点で考えれば、かなりなバラつきがあって当然なのではないか、ということである。つまりは、科学的合理性?などでは説明し切れない「時間」というものが、個の数だけ存在し得るということではないか、と僕は思うのである。その結果、現れ出た人の性格という側面で捉え返すと、人に対するこれまでとは異なった評価の座標軸が現出する。気が短い、気が長いというのは、一つの例であって、このような時間の個別的な流れという概念を、僕たちの個性に差し挟むことによって、他者の評価が激変することだってあるだろう。

横道に逸れるが、時間の概念以外にも、僕たちの日常的、常識的価値観というものがあるために、正常と異常あるいは異形という対立概念が生まれているような気もする。ここに踏み入るのは、もう少し先にすることにしようとは思うが。とりあえず、今日の観想として締め括る。

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お知らせです。

2012-04-17 18:34:22 | お知らせです。
お知らせです。

これまで、ブログの下に、京都カウンセリングルーム(http://www.counselor-nagano.jp/)、アラカルト京都カウンセリングルーム(http://www.sodan119.jp/)の二つのURLとリンク出来るように書いて来ましたが、この度この二つのホームページを京都カウンセリングルーム(http://www.counselor-nagano.jp/)に統合することにしました。4月20日以降の、ある半日間、ホームページが見れなくなると思いますが、それは、作業上の問題です。京都カウンセリングルーム(http://www.counselor-nagano.jp/)は、今後とも、続けていきますので、みなさん、どうぞよろしくお願いします。なお、ここにアップするブログに関しては、これまでどおりのペースで書き綴っていきます。こちらの方もどうぞよろしく。

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○客観性って、信じ得るものなのか?

2012-04-17 12:14:26 | 政治
○客観性って、信じ得るものなのか?

今日は敢えてご批判を受けるつもりで、それでも書くべきことだと感じていたことを、いまの僕の拙い論理で書き綴る。それは、客観性、客観的という概念のこと。そもそも人間が社会という枠組みの中で生きていくかぎり、客観的な?価値基準がなければ、人の個性なんて、ピンキリだから収拾がつかなくなるだろう。声の大きい者、腕力の強いもの、権力を握った者の好き放題な社会になること請け合いだ。いまだにどこそこの独裁国家なんて、客観性を装った約束事にもとづいて、独裁者と、その取り巻きの好き放題がまかり通る、コワ−イ世界となり果てる。えげつない独裁国家では、非常に分かりやすい例で、一般的には、この種の独裁を許さないための装い、つまりは、政治的客観性、普遍性というものが喧伝されることになる。で、逆に、民主主義国家という名の帝国主義を信奉している国々は、ベンサム流の「最大多数の、最大幸福の追求」という大義名分のもと、目に余る、あるいは自分たちの利益に反する独裁国を潰しにかかるというわけである。国家の利権なんて、海千山千の世界だから、極端に言えば、今日の仲間は明日の敵だ。そういう心構えでないと、本来政治なんて世界に飛び込んではならないと思う。民主主義であれ、社会主義、共産主義、etc.どのような社会形態であれ、その世界を牛耳るには、相当にえげつないことにも耐えられる神経が必要だ。日本の政治がダメだとよく国内外から批判を受けるのは、たぶん、単なる無能さゆえではなくて、政治家の中にえげつなさに耐えられる人々が相対的に少ないからだろう。政治的手腕なんて、こういう単純な要素によって、評価されもするし、無意味であるとの誹りも受ける。そう、客観性を装った個性主義、もっと生々しく云うならば、主観主義的な経済追求の小競り合い、これが今日の政治の姿なのではなかろうか。

若者の二人に一人が失業者だというギリシャは、国家経済という意味ではすでに破綻している。このような経済破綻を創り出した、主観的で、欲得づくの政治家たちや、四人に一人が公務員だという政策を支持してきた多くのギリシャ国民の、奥深い欲動とそれを突き動かし続けた主観主義が、世界経済を揺るがしている。しかし、そもそも世界経済の成り立ちそのものが、金融工学(どこが工学なんだ?)という客観的な数字のごときを装ってはいるが、金融工学そのもの原質は、人間の欲望だ。世界経済をつき動かしている為替の変動とは、煎じるところ人間の欲動と規定しても何ら間違ってはいないだろうからだ。さまざまなデータ分析の数字にこそ思想がある。思想とは、主観主義的思考の蓄積である。その蓄積に過ぎないものを普遍性と呼びたければ呼べばよい。主観主義的思考の蓄積の総体を実証主義(pragmatism)と言い慣わしたければ、そうすればよい。

しかし、この世界に、動かし難き客観的指標などは、どこにも存在しない。もし、人間社会が少しでも明るい未来を創造出来るとしたら、それは、あくまで主観的思考が、歪曲した思想の軸を自己修正しようとするモーメントが働くときである。その意味で、いま世界は動いている。いや、動かなければならないと、僕の主観が脳髄の中で叫んでいるのである。くどいようだが書き添える。客観性といい、普遍性というものは、近現代が創り出した思想の迷盲である。客観的・普遍的・実証主義的という衣を被った、一部の人間の利権を覆すのは、生活臭漂う日常生活者の主観主義的情念が、一定期間継続し、それが政治的力学のモーメントを変えるだけの、瞬時の爆発的な運動論にまで高まったときである。無論、そこには、野心満々の指導者が必要だ。その後のなりゆきは、運動論を実践化し、成功に導いた指導者たちの主観主義的な野心が勝ち得た利権を、独占したいという欲動を、どれだけ宥めることが出来るかにかかっている。こういう道筋なしに、世界が「最大多数の、最大幸福のために」動くことはないだろう。決して悲観的に語っているつもりはない。むしろ、リアルな希望を語っているのだ、と自分では思っている。拙いが、今日の観想として書き遺す。

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○思い入れること。

2012-04-15 20:11:17 | 観想
○思い入れること。

思い入れる対象は何だってよいわけです。言葉を換えて言えば、まずは自分が最も関心を持っているもの、意外に自分がそのことに執着しているもの、そういったことを想起してみましょう。

一般的に言えることは、自分には思い入れていること、特に関心の深いものなどない、という人はまずこの世界に存在しない、ということではないのでしょうか?仮に、そんなものはない、と断言し、言葉どおりにあらゆることに思い入れがない人がいたとしたら、少なくともそのような人は、僕の人間関係の中から限りなく外れていくだろう、という予測は立ちます。理屈をつければ何とでも言えますが、その理由は、簡単な日常語で事足ります。そういう人と付き合っていてもちっともおもしろくもなんともないからです。限られた人生、とりわけ、人生の終盤気に入って来ましたから、いまは、積極的におもしろきことを探索しようとします。「おもしろい」の定義は、本来人様々ですが、前記したように、僕の場合は、はっきりとした思い入れの対象を持ち得ている人、及び、思い入れた対象物そのものが、僕の興味関心を惹きつけるもの、はたまた、知り得なかった領域に僕を誘ってくれるというように、言葉の定義を限定しておくことにします。

世の中には、青少年期を、とりわけ親ですが、彼らにかなり抑圧されて育ってしまった人たちがいます。よく使われる表現では、こういう人たちは自立出来ていないなどということになります。僕なりの解釈を加えれば、自立出来ないとは、不幸にも思い入れる対象を自分の力で探索する力を喪失させられてしまった人たちの、別の角度から見た現象です。こういう人たちはほぼ確実に人生のどこかの時点で、躓きます。そりゃあ、そうでしょう。自分で考え抜いた末の、思い入れなき人生なんて退屈に決まっていますから、周囲から見て安泰な生活も、当人にとっては耐え難いものかも知れないからです。また、このような確率はかなり高いと云うことが出来るでしょう。

人間関係がうまくいかないという訴えをよく耳にします。世間ではコミュニケーション能力のあるなしが問題の核心だ、というように喧伝されていますから、壊れかけた人間関係を修復、改善するために、いかにすれば、自分にコミュニケーション能力がつくのだろうか?という単純な結論に到達しまいがちです。そうであれば、その分析と解決法を模索することになりますけれど、残念ながら、まず、うまくいきません。何故なら、こういう人たちには、思い入れ、つまり、自分の力で、生を生き抜くための、不可欠なエナジーともなるはずの、思い入れが希薄だからです。自分の足でこの世界の中に屹立してはいないからです。世界と対峙する能力を育めずに成長してしまったからです。

じゃあ、どうすればいいの?ということですが、答えはあまりに簡単で、また、その逆に、実行することが、あまりに当人にとっては困難なのです。だからこそ、悩ましいわけです。

思い入れることを創ることです。しかし、そうするためには、自分の過去をガチガチに固められてしまった古き価値観を意図的に砕いていかなければなりません。難しく感じられますし、そんなことなど出来るか!という言葉が返ってきそうですが、そういう人たちには、それは、ちょっとした勇気の問題であって、既存の価値観にいつまでも縛られているようでは、過去の誰それの二の舞ですよ、と僕は言いたい。そんなつまらない人生を、僕には肯定することなど出来ません。つまらないことに関わり合っていると、つまらない人間になってしまいます。人は、残念だけれど、負のパワーに翻弄されやすい性向を持っているからです。

さて、みなさん、前を向きましょう!そのために必要ならば、大いに反抗も致しましょう!人生をおもしろくするための思い入れを創造しましょう がんばらないでどうします?

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○うまく騙されるのも人生の知恵ではないですか?

2012-04-12 12:30:18 | 観想
○うまく騙されるのも人生の知恵ではないですか?

数日前に、池井戸潤の「ルーズベルトゲーム」を読了。この人の作品は殆ど読んできたわけで、なんで何冊も読ませるほどに、池井戸は僕を含めてたくさんの読者を惹きつけるのだろうか?とずっと考えてきて、その理由がやっと分かった気がする。そのことについて、簡単に書きおくことにする。

池井戸潤の小説の主人公と主人公を支える人々のまっとうな考え(ここで云う「まっとうさ」とは、世間一般に流布しているそれだと考えていただければよい。人による多少の概念既定の違いは、別にどうということはない)は、常に哲学的概念というよりは、世知の範囲における功利主義によって惹き起される不条理・不公平・不平等という高い壁によって、挫かれる。主人公は、ストーリーの中で、常にギリギリの崖っぷちに立たされ、あたかもその崖から転落死でもするかのような窮地にいる。池井戸の見せどころ、読ませどころとは、その窮地からの這い上がりそのものが、彼の綴るストーリーの真髄である。

どん底からの這い上がりの過程における主人公と主人公を支える人々の、あまりにも見事なほどの善良さと、己れの信念に対する純朴・素朴な粘り腰が、現実世界の不合理さに折れそうになった読者に、なにほどかの清々しさを甦えらせる。池井戸の存在理由とは、こういうところにあるのではなかろうか。その上、まっとうな営み、正義は必ず報われるという、勧善懲悪の思想は、日本人の大好きな水戸黄門のような存在を是とするわけで、池井戸の描く小説世界は、現代社会の問題性を題材にした、ソフィスティケイテッド(sophisticated)された、現代版水戸黄門的世界と云えば、なるほどと納得してもらえるのではないか。つまらない、誰にでも当てはまるような啓発本や占い本の類でいっとき慰められるくらいならば、池井戸潤の小説世界のストーリー性の中に埋没している方が、より良い人間性の快復に役立つはずである。なぜなら、利権を貪って、不正を隠ぺいすべく、汚いことにも平気で手を染める悪玉をすら、池井戸は世界から葬り去ることはない。彼らにもどこかに逃げ道を残しておくだけの度量がある。だからこそ、読者は救われる。人間に対する不信や猜疑の情に支配されてしまったとき、水戸黄門のようなまったき勧善懲悪では、読者は自己の正当性を思い起こせるのかも知れないが、他者を受容出来るだけの余力はない。もし、自己に対するダメージが大き過ぎるときには、自己肯定は出来ても、人間のそのものの存在をどこかで否定するような心性から自由にはなれないだろう。

池井戸潤の持ち味は、人間を肯定する力学を取り戻させてくれることだ。そういう意味で、たぶん、彼の新作が出る度に、人の善性を信じるために、うまく騙される?ために読み続ける作家の一人なのである。少なくとも僕にとっては、彼はそういう存在である.

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○「人生下り坂万歳!」って、いいね。

2012-04-10 15:23:21 | 観想
○「人生下り坂万歳!」って、いいね。

火野正平が、視聴者の思い出の場所について書き綴った手紙を読み、その地を自転車で訪れるという番組なんだけど、僕はかなり気に入っている。「ぶらりひとり旅」。僕が火野正平という役者を認識したのは、もうずっと昔のこと。関西ローカル番組で、「部長刑事」という30分もののドラマがあった。これは、リハーサルなしのぶっつけ本番の刑事もの。観ている者に、得体の知れない緊張感を感じさせ、また、ぶっつけゆえの、おかしな間があったりもする。それでもなかなか人気のある長寿番組だったのである。これに、当時は髪もふさふさの若い火野正平が、犯人役で出演したのが妙に記憶に焼き付いている。人間の記憶なんてほんと、おかしなものである。その時の印象は、イヤな役者だなあ、と感じたか?何となく崩れた感じの、どこかギラギラした野心満々の、役者というよりもやさぐれた若者という印象だった。その後しばらくは姿を消していた。勿論、僕の視野に入って来なかっただけで、役者としての活動はしっかりやっていたのだろうけれど。よくは知らないが、NHKの大河ドラマにも抜擢されたこともあるらしいから、見る人が見れば、彼に才能があったというわけなんだろう。

人の外見をとやかく言うのは失礼だけど、役者さんだから、それも引き受けていると勝手に解釈して、さて、僕の火野正平の風貌の評価は、サル顔だし、とてもイケメンとは云えはしないし、ワイドショーなんかでは、有名歌手や女優と浮名を流しているけれど、もうその当時は、髪も殆どなくなっていて、なんでこの人がもてるの?という素朴な印象批評からの、かなり否定的なものだったと思う。昭和の色男なんていう呼び名は、たぶん、週刊誌が皮肉って、おもしろがって名付けたものだろう、なんてね。

ずっと忘れていた火野正平が、還暦を過ぎて、少々老けたサル顔で、枯れた雰囲気を漂わせ、自転車をこぎ、視聴者からの手紙を、これまたいい具合に枯れた声で読むと、妙に心が癒される。こういう老いかたはいいね、と僕は思う。老いに抗わない老い方は、清々しい。「人生下り坂万歳!」と言い放つ火野の精神性は、老いの意義深さを感じさせもする。そもそも人間は、生まれ、若い活動期、壮年の円熟期を過ぎて、やがて老いる。昨今は、老いに抗うことばかりが話題になるから、まるで人の人生から老いる意味を奪い取っているかのようだ。元気に老いる。それはいい。そのためのサプリも、健康保持食品もよい。適度なトレーニングもよい。でも、よろしくないのは、このような風潮の中で、老いという精神性そのものが、否定されているという現実である。老いを、醜悪であると決め込んで、若さを取り戻すための方法論が、いろんな切り口から語られる。商売としての市場性も、老人の人口比率が高い分、確実に見込めるのだろう。だから、余計に老いを否定的に喧伝しなければ儲からないというわけなんだろうか。

宗教もこの意味ではアブナイ。特に新興宗教における終末論。オウム真理教は現世的な革命にまで踏み込んだから、潰れた。人間、理屈があれば、人も殺せる。ポアする側にもそれなりの論理が必要だったのだろう。生き残っている終末論的新興宗教の中には、この世界はエホバとサタンの闘いの場なんだというのもある。やがて、白馬に乗ったキリストが天下って来て、サタンに支配されたこの現世を滅ぼすのだそうだ。そして、人は信仰の度合いによって、永遠の生命を得るし、すでに死した人もつぎつぎと甦ってきて、永遠の神の世界を創造し直すのだそうだ。ここに老いという思想はない。おかしなものだな、宗教なのに、人間が生きていく過程の最終段階の、熟成期の老いと死を否定するなんて。村上春樹の「1Q84」の青豆が、両親に強要された宗教のモデルはたぶん、これだな。

「人生下り坂万歳!」という言葉を聞いて、それを単に開き直りの技術論だと思ってもいけない。開き直って、また、がんばるぞー!と云っていたら、老いて、弱って、若い頃には経験しようもなかったいろいろな不具合、不調の数々をこやしにして、目前に迫った死すら、老いという精神的熟成のための不可欠なファクターなんだ!と思えないではないか。無謀ながんばりはいけないんだ。その意味で、「人生下り坂万歳!」と心の中で密やかにつぶやくことにする。

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○挫かれてもよいものーそれが<希望>だ、と思えるようになったね。

2012-04-09 17:30:36 | 哲学
○挫かれてもよいものーそれが<希望>だ、と思えるようになったね。

人は希望がなければ生きていけない、などとしばしば囁かれるけれど、人間の生存に対する欲動ほど強いものもないわけで、生き抜くためには、生きるための理屈が不可欠であることの証左である。これは、あくまで人の存在論的な次元の問題で、暮らしが豊かであるとか、仕事に恵まれているとか、社会的地位が高いと云った次元のものではない。もし、このような生活的・社会的・経済的要素が、人を生かしめているとするなら、誰もが羨むような人々が、自殺なんかするはずがないだろう。しかし、このようなことはしばしば起こることだ。

無責任に推察すれば、このように生を唐突に見切る人は、生の真実を見誤っているのである。誤解なきように。僕は決して、死した人々に鞭打つような心境で物語っているのではない。金があってもなくても、社会的に恵まれていようがいまいが、人がかけがえなきものとしての<希望>を、精一杯育んできたと思い込んでしまった<希望>を、なにかのきっかけで喪失したと思ってしまった瞬時、思い入れの強さと比例するかのように、自死と生との境目が現出することになる。無論、一般論的に不遇な生活環境に追い込まれた人々が、<希望>なきがゆえに自死するなどということもしばしば起こる現実でもある。

しかし、だ。人間にとって、希望とは、そもそも生きるための、その折々の生きるための、抽象的なイメージに過ぎない。それがあたかも具体的な目標物にすり換わるのは、具象化する方が精神的エナジーを自己の裡から引き出しやすいからに他ならない。

結論的に云うと、希望とは挫かれるために在るようなものである。僕たちは生きる過程で、その時々の希望を脳髄の中で紡ぎ出し、それを生のエネルギーに変換して、強く前を向く。が、その一方で、人の生き方ほど変質しやすきものはない、ということにも自覚的であるべきだ。同じような生活が淡々と続くように見えて、その内実には確実に変化が生じている。生活の激変(それが幸福なものであれ、不幸なものであれ)が起これば、否応なく生の変質を自覚せざるを得ないのだろう。こういうとき、頑なに己れの裡なる<希望>にしがみ付き、生の変質と希望の変化とを、絶望という概念と錯誤しないことだ。なぜなら、絶望とは、希望の反措定でもなく、安易な反意語でもないからである。

反芻する。希望とは、生きるための、変化し続けるべき抽象的な指標である。だからこそ、それは生のありようによって、変化すべきものだ。敢えて云うなら、希望とは、そもそも挫折すべき命運を背負った存在である。突っ込んで云っておくならば、絶望とは、生のリアリティに自覚的になり得た、高次元な気づきである。その意味では、人は絶望の極みに立ち至ったときの方が、生への希求が強靭になりやすいとも云える。執拗に繰り返す。希望は挫かれる。そういう覚悟で、この世界を生き抜こう!少なくとも自己に許された命の長さを、この種の気づきを抱きつつ、生き抜こう!今日の観想として書き遺す。

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○気づきその10

2012-04-08 11:08:21 | 哲学
○気づきその10

猛省すべきことー自分が何ごとにおいても力業を根拠にした発想と行動を好むこと。こういう心境でいると、世の中あまりにも不条理なこと多きゆえに、妄想の中においては、常に革命劇の果て、体制としての世界を転覆させてもいる。確信犯的な暴力主義者であり続けて、この歳になった。が、いまは、この種の妄想がいかに自分自身を腐らせ、それだけでなく、人間関係を必要以上に狭めることになり、世の中の出来事に対して、概ね皮相的になり、結果的に世界と切り離されたところで自分が孤立していることに気づく。よいことなど一つたりともない。

政治的な事柄に対して強引、かつオ―ケストレイテッド(orchestrated)になり得るが、その実、実質的な現れとしては、世に云う、政治的無関心層の人々と何ら変わるところがない。これを世界に対する絶望の果て、などと云う格好のつけ方で逃げるつもりはない。要するにダメな人間になり果てているのである。僕がアルベール・カミュの「シ―シュポスの神話」を座右の書としているのは、自己弁護というよりは、自己叱責のための、思想的道具として位置づけているからである。あるいは、硬質で、折れることなき小田実を尊敬の対象にしているのも、彼が市民などというヘナちょこ連中(失礼、これは表現上の分かりやすさゆえにもちいた言辞です。市民運動家のみなさん、お許しあれ!)相手に、生涯市民運動に根ざした思想家であり続けた小田の粘り強さに憧れるからである。直截的な権力を持ち得ない立場を敢えて選びとった人ゆえに、政治的勝利などとは殆ど無縁の人だったと思うし、また、そのことがますます小田の思想を強靭にしていったことを考えると、もう降参するしかない。

ネルソン・マンデラもアウンサン・スゥ・チーも金大中も、それぞれが旧体制に酷薄な弾圧を受けても立ちあがり、自分の地位を確立したという意味で、尊敬に値する政治家たちだが、しかし、彼らの天才的な才能と気力は、反権力、権力奪取という執念があってこそ花開いたではないか。しかし、小田の思想、実践力は、まさにシ―シュポスのごとくに、絶えまない敗北の中から醸成された強靭さだ。爪の垢を煎じて飲むとしたら、やはり、小田のような生き方、死に方からだ。無論、僕は市民運動などまったく信じてはいないから、あくまで表層的な真似ごとであって、爪の垢も空中に飛散してしまった後に、結局誰のものとも知れぬそれを拾い集めるがごとし、だろう。まあ、僕の生き方など、これくらいの代物でしかない。決して自嘲的に開き直っているのではない。むしろ、これが、僕という人間の等身大の姿ではないか、と昨今思うのである。

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○気づきその9

2012-04-07 01:28:45 | 観想
○気づきその9

京都の今日は曇天である。天候が人の気分、感情に多いに影響を与えるということは、一般論として認識はしていたし、確かにそういう経験は多々ある。しかし、もっと切実な問題があることに気づいた次第。人間関係とはそもそもある意味、幻想的な要素がなくもないにしても、信頼関係の上に築かれているという了解事項で、人は何とか精神の平衡感覚を保っているものだろう。僕はこの場で何度も、人の言語回路とは、他者に対する信頼関係がなければならないし、そのためには自己の心は全方位に開かれているべきなのである、という主旨で人間の関係性について書いてきた、と思う。

しかし、実はそういうことではないな、ということに昨今つくづく思い至る。同じ言語、同じ概念を語り合っていても、まるで通じ合えないこともある。残念だけれども、どうもそれがリアルな人間の関係性の捉え方であるようだ。人が、そして僕自身が幸福になろうとするなら、この通じ合えなさ、という生のリアリティを感受するべきなのだ。これまでの僕は、本来のリアリティに、自分が勝手に創った幻像の関係性のフィルターをかけて、叶わぬ幻想をずっと追い求めてきたのである。他者との深き関係性を求め、あるときは他者の精神性に踏み込み過ぎて、忌避されるなどということは、起こり得るべくして起こったものと、いまはわかる。これからは、傍にいる心優しき人たちには、誠心誠意まともに向き合っていこう。しかし、去る者は追わず、だ。たとえ、僕から去ることによって、当人が今後被るであろう不幸を予測できたとしても、それはすでに僕の立ち入るべき領域ではないし、そう思うこと自体が傲岸な思想の現われだろう。ジャンポール・ベルモントの「勝手にしやがれ!」という大ヒットしたずっと昔の映画の、本質的な意味が今頃分かった気がするのである。果たして、人間の気づきとは、こういうものなのだろうか?

もう一つ、ねじ伏せるべき要素がある。自分の中にいまだに在る野心、かつて、クラーク博士が、学生たちにむかって言い放った、Boys, be ambitious! という意味における野心も、もはや、この歳にしては、野心をいかになだめるかという心のベクトルを据え直さないといけない、と心底思う。自分を幸福にするためのファクターなんて、整理し尽してしまえば、まあ、こんなところなのではなかろうか?野心は、時として、世界を変革するエネルギーを紡ぎ得る。が、果たしてそれが多くの人々の幸福にとって、普遍的な価値観として存続出来るのだろうか?自分のまわりを、世界の動きを先入観なしに眺めてみればよい。野心とは、あくまで人の社会をいっとき爆発的に変革するためのエネルギーではあるけれども、どこかの時点で、野心は昇華され、他者を含み込むような優しさに変化するべきものだ。暴走した野心が、独裁を生み、独裁とは、ごく、ごく、一部の人間たちの利益にしか貢献しない代物である。僕たちはいまこそ、優しさを具現化すべき時代性の中に生きているのである。適度な距離感は認めようではないか。もし、何がしかの齟齬が生じて去り行く人がいれば、それはそれ。去ればよろしい。なすべきことがたくさんある。既成のものの考え方、それに引きずられた人との関係性などは、積極的に唾棄する。それでいいではないか。言葉の強さで判断しないでほしい。僕の求めているのは、自他の優しさだ。これから生きていくのに、最も意味ある価値意識である。今日の観想として、書き遺す。

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○気づきその8

2012-04-05 13:49:40 | 観想
○気づきその8

自分はかなり強い精神性を持っている人間だと思っていた。次元の低いことなどでは、心乱されてなるものか、という強い覚悟のある人間のはずだった。しかし、冷静にこれまでの自分の人生を振り返ってみると、どうして、なんともか弱き精神の持ち主、まず包容力などという概念の理解出来ぬ小さき人間だった、などと今さらながらの気づきである。強靭さを装った脆弱な精神ほど始末に悪いものはないのである。過去の自己の総体は、否定しようもなく、脆弱そのものだった、と感じるのである。お恥ずかしい限り。

脆弱な人間は、言うまでもなく、敗北を怖れる。どのような意味においても。敗北によって、現れ出た、折れた自分の姿に耐えられないのである。こういう敗北を避け得る最も有効な手段とは何か?簡単である。虚勢を張ること。根拠なき強靭さを装うこと。しかし、これら一切の無意味・無価値な抗いこそが、人を不幸にする元凶である。いまなら分かる。そして、そのような不幸の只中に居た自分の目から見た世界は、生の暗部でしかなかったのである。いかなる意味においても明るい、希望に満ちた、軽やかな未来像などというものが感受出来ないほどに、心が腐れ果てている。これは、人生における悲劇であり、また同時に、喜劇でもある。

僕にとっての、生への抗い、反抗の論理の定義の再構築。これが最優先課題である。なぜか?勿論、生き抜くために。中途半端な虚勢は、脆弱さゆえに、関わるべき価値なきものにまで時として思い入れ、当然の結末だが、裏切られもする。それで済ませられないのが、生半可な虚勢の哀しき性であって、まるで、安っぽいテレビドラマのごとき復讐劇にありがちな、憎悪の念がムクムクと自分の脳髄は云うに及ばず、体内を駆け巡るがごとく、存在と憎悪とが同次元のものになり果てる。卑しき精神性である。反吐が出る。

人は生きている限り、否応なく醜悪なる事象、唾棄したくなるほどの人間性に遭遇する。少なくともそのような可能性は否定出来ない。不幸にして、このようなものに直面したら、前記したごときの、根拠なき虚勢による強靭さで対抗などするべきではない。そうであれば、自己と唾棄すべきものたちとは、同一次元に留め置かれてしまう。そんなことは避けるに越したことはない。日常生活上、いっときの損失を被るかも知れないが、アホウが欲しがるものはくれてやれ!つまらぬこだわりから自由になれば、心は全方向に解放されるのである。幸福になれないはずがないではないか!つまらぬスピリチャルな世界に嵌ることなく、あくまでリアルな物の見方に鋭敏になって、もしそこに無価値なものがあるなら、それをさっさと棄て、新しき、価値あるものを採り入れ、自己の精神性の再構築にとりかかるのである。これの繰り返しが、人生である。生きる意味である。それ以外の全ての要素は、生のフリンジ。フリンジには振り回される価値はなし。さて、みなさん、明るいいまを、明日を、未来を生きましょう!

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○気づきその7

2012-04-03 18:06:52 | 観想
○気づきその7

不幸な病にでもおかされなければ、58歳という年齢は、現代ではまだ若い、という評価で済まされる社会通念ではなかろうか?

とはいえ、自身の感性から率直に言うと、長く生き過ぎた、と正直思う。私生活上、仕事上、あまりに失敗多き人生ゆえに、なにをどのように言い繕っても、生き恥を晒している、という想いから自由にはなれないのである。生きた時代が違えば、何か死するに値する理由を見つけ出して、切腹、すでにこの歳にして、この世にはいないのだろう。こんなことをつらつらと考えていて、三人の鋭角的な思想の持ち主のことを想起することになった。先日亡くなった吉本隆明、もう亡くなって何年か経過するが、小田実、ずっと前に自死した三島由紀夫のこと。3人の簡単な印象を書けば、吉本は、尊敬に値する思想家だが、なぜか、何度読んでも彼の思想のコアーが掴めないお人。大胆に現代文明のありように切り込んで来てもいたが、その度に値打ちを落としていた、と感じる御仁である。ずっと昔、娘の吉本ばななも洟垂れ娘だっただろう頃に、湘南の海で海水浴中に溺れて死にかけたときは、おい、もうちとましな死に方をしてくれよ、という、屈折した想いで彼の無事を願った。さて、小田実。この人は、ずっと、自分にはまるで勝負にもならない人格を、そして思想の強靭さを鍛えに鍛え抜いた、あくまで人間的なんだけれど、たぶん、人間を超えた思索、実践両面からみて比類なき高潔な人。市民運動にはまるで興味すらソソラレないにしても、僕の裡では、小田の評価は、そういうことになる。聖路加病院にガンで入院し、亡くなるまでのドキュメンタリーを観たが、これが思想を紡ぐ人の最期の姿ではないか!と嘆息させられもした。さて、最後に僕の大嫌いな三島由紀夫。文学の達人。頭脳明晰。しかし、幼児的思想から一歩も抜け出すことの出来なかった甘ちゃん。三島の美意識の実践とは、盾の会の創設と市谷駐屯所での珍事の結末たる切腹。この僕にして、もう少しマシな状況下での切腹を考え選んだらどうか?と思わせるようなアホらしい死。なにより、自分の美意識などのために、それも昭和の、あの時代に時代錯誤の切腹なんて、どれほど馬鹿げた行為だったのか、三島に分からなかったはずがないのに。分かった上で、敢えてピエロ的な死を死んでいったのだろうか?そうだとするなら、三島はピエロとしても三流どころの大道芸人だ。

さて、三島のような大道芸のような死に方は勘弁してもらうとして、頭の出来としては、お三人ともにすばらしいわけである。あくまで模範的な意味合いで、誰を念頭に置けば、これから先の、僕の、生き恥を晒しての生を生き抜くために、何ほどかの勇気を与えてくれるのか?と自問すれば、それは当然、小田実ということになる。少なくとも、小田の思想的強靭さを真似るという、卑怯な仕草なりとも密やかにやっていこうか、と思うのである。要するに、凡人にとって、優れた存在の模倣ほど意味深いものはない、ということだ。よいではないか!自分独自の何ものかなど、もともとないんだから。とりわけ凡庸な精神にとっては、その凡庸さをいっときにしろ粉飾してくれるものを探せばいいのである。自分なりに納得できる、それを。あまり背伸びをせず、あくまで少しばかりの自尊心を満たし得るものを発見できれば、人生、それほど棄てたものでもなかろうに。そう想うのである。

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○オーストラリア探訪記その7−終章

2012-04-02 09:52:59 | 旅行記
○オーストラリア探訪記その7−終章

帰路についた。ブリスベン、午前4時起き!で、午前7時15分発のケアンズ行きの飛行機の中。寝不足で、1時間以上の爆睡の後に書き始めたというわけである。ケアンズからは、7時間のフライトで関空だ。たぶんヘアダイゆえのアレルギーの猛烈な痒さ。この不快感は、いま、この時点も引きずっているし、2日前のマウンテンバイク横転でつくった深い数カ所の傷の痛みで、到底元気満々の帰国の旅路とは言えたものではない。帰国してからなすべきこと。ー盗難にて消失した運転免許証、健康保険証の再申請、数種類の、現地で何とか無効にしたクレジットカード会社への連絡、仕事上の急ぎの問題の処理等々、ー考えたら気が遠くなる。

それにしても体力的な消耗はあるにしても、気力の方は充溢していることに気づく。

さて、連れ添いとのことだ。旅の間中、結婚以来の、互いの心中に巣くっていた違和感と具体的な軋轢の現れが、この地を旅する過程で噴出したにしても、少なくともそれらのすべては、今後の僕たちの生き方を前向きに見据えるための、とても大切な課題ばかりだったと思っている。とは云えこのような観想は僕だけのまことに勝手気ままなものゆえ、彼女の真意はどこにあるのか、帰国の途中、あるいは帰国後に恐る恐る聞くべき大きな課題である。僕はがんばりますよ、たとえそれほど長くはない人生にしても、自分なりのケジメをつけて終焉させなければならないし、いまや、帰路への飛行機の、隣の席の連れ添いの存在を抜きにしてはなにも語れはしないのだから。

今朝4時に起床して、午前5時には空港への自動車の中にいたが、そんな早朝に僕たち夫婦を送ってくれたのは、連れ添いの、大の仲良しのオーストラリア人の女性とその夫君である。昨夜の彼らとの楽しい語らいと、夕食と、ちょっとしたドライブの時間ほど僕の気持ちを和ませてくれたものはない。このご夫婦のことを詳細に語りたくはあるが、最小限の記述に止めたい。

彼女の夫は日本人である。お二人は日本で出会い、結婚し、夫君はご実家の家業を営み、彼女は英語教室でたくさんの生徒さんを教え、つつがない生活を送っていたのである。彼女が夫のパーマネントビザを取得し、お二人でこの地に移住されてから、ほぼ1年が経過していた。永住に至る原因を特定することは僕には出来ないにしても、彼女は無論のこと、ご主人は日本人であることを棄てて、なにもかもゼロからの人生の再出発なのである。僕ごときに軽々しく彼らの移住に対する評価など出来ようはずもない。が、少なくともこのお二人の生きざまのすがすがしさから、とかく既得的なあらゆる価値意識に縛られ、身動きならぬ生き方から自由になり得る可能性だけは、しっかりと学びとれたと思う。そこに至るまでの、言葉にし切れぬ苦悩を突き抜けた明るさがお二人にはあり、大いなる心の浄化を体得させていただいた。このご夫婦に感謝。そして、お二人に会わせてくれた連れ添いに深く感謝の念を捧げておくことにする。

あと3時間少々で、僕は言葉どおりの日常生活にもどる。この起伏多き旅の中から、心中の退屈に関する観想を再記するなら、やはり、僕たちがしばしば陥る誤謬に対する嗅覚のごとき気づきだろう。それは、僕たちの心を大きく支配している、既得的なるものからの意識的な自己解放への希求とその意思である。換言すれば、自己の中から、ありもしない<本来的なるもの>を徹底して排除することに尽きる。ブリスベンでお会いした、あのお二人に、思弁的な意図があろうとなかろうと、彼らのリアルな言動がこのことをよく証明しているではないか。さて、少し疲れた。このあたりで、僕のオーストラリア探訪記を閉じることとする。

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○オーストラリア探訪記その6

2012-03-31 09:36:01 | 旅行記
○オーストラリア探訪記その6

ブリスベンへのバス待ちの時間、例によって、どこで飲んでも同じ味のカプチーノと巨大なマフィン。待ち時間も半端じゃあない。2時間半だと。書いている間もマウンテンバイクの横転でケガした数カ所がやけに痛む。それに右ヒジの打ち身の調子がよろしくない。

バスの乗り場の名称が違うと云って連れ添いは心配顔である。いまさっき、この地のホテルのピックアップバスの運転手のニイチャンに聞いたら、ここの2番のバス停で間違いなしだと聞いたばかりなのに。ブリスベンで、あと2日だ。僕は、もはや開き直った。あのチャライニイチャンの方を信じることにする。むしろいろいろ確かめようとし、あたふたしている英語堪能な連れ添いよりも。

カプチーノの出来上がりまで、奥でスムーザーをつくっているかわいい系のオネエチャンの方を見るともなしに見ていると、彼女と目があって、この地上ではなかなか見られないほどの見事な笑みを返された。よく出来たお愛想笑いの典型を承知で、あのお嬢が、オレに微笑みかけてきれたぜ!と連れ添いに云ったら、気持ち悪がられただけよ、まあ、一種の危険回避ね、などとのたまわる。わかっとるわい!そんなことくらい。わかった上で勝手に楽しんでいるんだ。中高年男の小さな楽しみを奪うことなかれ!である。しかし、だ。サンシャイン・コーストのコジャレたショッピング街のスムージーの店の、これまたかわいいオネエチャンにトイレはどこか?と聞いたら、店の奥から誰もが使えないトイレの鍵を出してきて、それを貸してくれたんだから、まんざら危険回避ばかりではなかろうに、ね。ほんとにねえ、見事なまでに僕の気持ちを萎えさせてくれるよな。この人はね。

さて、退屈感についてまた書き足そうか。僕たちが退屈であると感じるとき、その感情の底にあるのは、オレ/ワタシは<本来>こうあるべきなのに、実際は本来的な姿とはまるで違う。オレ/ワタシが退屈感を抱くのは、自分たちが本来居るべき場に居ないからだ、あるいは、なすべきことをなしていないからだ、という煩悶が頭の中を大きく占拠しているからではなかろうか?あくまで括弧つきの<本来あるべき姿>と、現実の己れの姿との隔絶、断裂が、人をして、自己溶解の危機を生じしめ、自己溶解の行き着く果ての姿が、退屈感の正体ではなかろうか?

目覚めて、ブリスベン2日目。曇天ばかりの日々が、ここにきて、たぶんオーストラリアらしい雲一つない抜けるような藍色の空だ。この安ホテルからブリスベン一の繁華街は目と鼻の先の距離だ。足の傷の痛みと、気づかなかった、そこここの身体中の痛みで、ベッドにふせってこれを書いているのである。一緒にショッピングに行こうという連れ添いの誘いを断った。この程度の不調くらいは何とかなるが、連れ添いとの買い物はいかにも楽しくないのである。海外に来たら、通貨の違いに次第に麻痺してきて、価格に見合わぬものまで平気で買ってしまって、帰国してから、クレジットカードの請求額を見て、ありゃー!となるのも一興だ。これが買い物の醍醐味というものだ。賢いお買い物なんて、おもしろくも何ともない。旅で使う金くらい、宵越しの金はもたねえ、というくらいの心構えでいいじゃあねえか!賢いお買い物は、日々のやりくりのジャンルの発想だろうが!シドニー4日目
の中華街の、怪しげなフードコートで、見事に財布を持って行かれて以来、直感的に、これは、と思うものも自分のクレジットカードを使えず、いちいち連れ添いにお伺いをたてねばならんので、ショッピングは勿論、食事、飲物、その他諸々が、すべておんぶに抱っこという錯誤にとらわれ、凄まじく気分が萎え細って行く。旅の不幸という概念があるとするなら、こういう気分・感情ではなかろうかね?

オーストラリアのどんな光景を見ても、ちっとも感動などしないけれど、この地のトイレ、これはすばらしい。公共のそれの気持ちよさ。どこもかしこもアンモニア臭すらしないんだから。手洗い用の石鹸も日本の一流ホテル並み。日本もこれは見習わないといかんね。ぎょっとさせられるような公衆トイレが日本には多すぎるし、まあ、公衆トイレなんだから、こんなものか、なんて諦めているフシもあるしね。意識改善が必要だね、日本も。

かつてはバブル時代の日本マネー、いまは、バブル中国マネーの流入の勢いをかりて、この国の景気は上昇気流に乗っている。ちょっとしたインフレだが、経済の動向としてはこれくらいがいいのではないか。市民の暮らしぶりをみても、まずまずの賃金を獲得しているのではないかと思う。日本の沈滞したデフレ経済と比べると、お金がうまくまわっている。

車だって、トヨタ、日産、ホンダ、スズキより、フォード、殆どのヨーロッパ車、それに韓国のヒュンダイ車の方が、ずっと幅をきかせている。日本こそ、3・11の悲劇を乗り越えて、景気を立てなさないといかんのに、日本の政治家や御用経済学者たちは、消費税という間接税を含めた税金を上げるんだ、と。賃金は下がる。税金は上がる。みんな金は使わんよ。ならば、当然景気はよくならないですよ。海外に出向く人たちは、日本製の車もそうだけれど、日本製の製品がどれだけその国で発見できるか、見学・お買い物のついでに観察してみられるとよろしいです。市民が賢くならないと、な〜んにも解決しないんだから、結局のところ。政治家なんてかなり、いい加減だと思うし。だって、彼らは、すべからく金持ちだから。

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