風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

夏目漱石 『現代日本の開化』(明治44年)

2016-07-27 23:16:39 | 

開化を説明して何になる? とこう御聞きになるかも知れないが、私は現代の日本の開化という事が諸君によく御分りになっているまいと思う。・・・どうせあなた方も私も日本人で、現代に生れたもので、過去の人間でも未来の人間でも何でもない上に現に開化の影響を受けているのだから、現代と日本と開化と云う三つの言葉は、どうしても諸君と私とに切っても切れない離すべからざる密接な関係があるのは分り切った事ですが、それにもかかわらず、御互に現代の日本の開化について無頓着であったり、または余りハッキリした理会(りかい)をもっていなかったならば、万事に勝手が悪い訳だから、まあ互に研究もし、また分るだけは分らせておく方が都合が好かろうと思うのであります。

そもそもなぜ「開化」ということが起こるのか、から漱石は話します。
それは、人間の本質として、面倒なことに対してはできるだけ活力を節約しようとする「消極的な活力節約」と、楽しいことに対しては惜しみなく活力を消耗しようとする「積極的な活力消耗」とが互いに並び進んで、コンガラカッて変化して行って、複雑極りない開化と云うものができるのだ、と漱石は考えます。

そしてまず、「一般的な開化」の性質について次のように言います。

元来なぜ人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだかと云えば、生れながらそう云う傾向をもっていると答えるよりほかに仕方がない。これを逆に申せば、吾人の今日あるは全くこの本来の傾向あるがためにほかならんのであります。なお進んで云うと、元のままで懐手をしていては生存上どうしてもやり切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げたと言わなければならないのです。してみれば古来何千年の労力と歳月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んで来たのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として、昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば、御互の生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだと云う自覚が御互にある。否開化が進めば進むほど競争がますます劇(はげ)しくなって、生活はいよいよ困難になるような気がする。・・・この開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔げられたという訳ではありません。ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至っては同じことであるごとく、昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違っているかと云えば――あるいは不幸の程度において違っているかと云えば――活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至ってはけっして昔より楽になっていない。否、昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力をあえてしなければ死んでしまう。やむをえないからやる。のみならず道楽の念はとにかく道楽の途(みち)はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいと云う方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸したり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化して、むしろ生きるか生きるかと云う競争になってしまったのであります。生きるか生きるかと云うのはおかしゅうございますが、Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。・・・早い話が今までは敷島か何か吹かして我慢しておったのに、隣りの男が旨そうに埃及煙草(エジプトたばこ)を喫(の)んでいるとやっぱりそっちが喫みたくなる。また喫んで見ればその方が旨いに違ない。しまいには敷島などを吹かすものは人間の数へ入らないような気がして、どうしても埃及へ喫み移らなければならぬと云う競争が起って来る。通俗の言葉で云えば、人間が贅沢になる。・・・かく積極消極両方面の競争が激しくなるのが開化の趨勢(すうせい)だとすれば、吾々は長い時日のうちに種々様々の工夫を凝し智慧を絞ってようやく今日まで発展して来たようなものの、生活の吾人の内生に与える心理的苦痛から論ずれば、今も五十年前もまたは百年前も、苦しさ加減の程度は別に変りはないかも知れないと思うのです。それだからしてこのくらい労力を節減する器械が整った今日でも、また活力を自由に使い得る娯楽の途(みち)が備った今日でも、生存の苦痛は存外切(せつ)なもので、あるいは非常という形容詞を冠らしてもしかるべき程度かも知れない。これほど労力を節減できる時代に生れてもその忝けなさが頭に応えなかったり、これほど娯楽の種類や範囲が拡大されても全くそのありがたみが分らなかったりする以上は、苦痛の上に非常という字を附加しても好いかも知れません。これが開化の産んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。

以上が漱石のいう、日本に限らない「一般的な開化」の性質です。
漱石は「開化」そのものについては、人間の生まれながらの性質によるものであるとし、特に良いとも悪いとも言っていません。しかし遥か昔から今日までどんなに開化が進んでも、我々の心は大して幸福になっていないように思う、と言います。

そして日本の場合は、その上にさらに特殊な事情が加わる、と漱石は続けます。
一般的な開化(たとえば現代の西洋の開化)が長い時間をかけて内側から自然に進化してきた「内発的」なものである一方、現代(明治44年現在)の日本の開化は維新により西洋から突如もたらされた「外発的」なものである、と。

元々開化が甲の波から乙の波へ移るのはすでに甲は飽いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新らしい一波を開展するので、甲の波の好所も悪所も酸いも甘いも甞め尽した上にようやく一生面を開いたと云って宜しい。したがって従来経験し尽した甲の波には、衣を脱いだ蛇と同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに移った乙の波に揉まれながら、毫も借り着をして世間体を繕っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流で、その波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼をしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思で脱却した旧い波の特質やら真相やらも、弁(わきま)えるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。
・・・これを一言にして云えば、現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである。・・・しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。

あのような開化はすべきでなかったとか、今からでも維新前の生活に戻るべきであるとか、そのような話は非現実的である以上(そして開化は止められるものではない以上)、議論しても仕方のないことである、ということだと思います。また漱石は維新前の日本を素晴らしいものであったと全面肯定しているわけでも、もちろんありません。
そして「現代日本の開化」に対して漱石の出した結論は――

開化と云うものがいかに進歩しても、案外その開化の賜として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとか云うのではない。どうすることもできない、実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸であったのでしょう。真と云うものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思う事が時々あります。・・・ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。

それならばなぜ、漱石はこのような講演を行ったのか。
それは「理解していた方が都合がよい」からということもありましょうが、なによりも突然の「開化」に盲目的に浮足立っている国民に対し、一度冷静にその性質を見つめ直し、自分達の現在ある状況をしっかりと理解しておくことが必要である、と漱石は言いたかったのだと思う。
たとえその上滑りの開化の上に成り立つ将来が悲観的なものであったとしても(少なくとも漱石はそう感じていた)、国民が無自覚なままであるよりも遥かにこの国の未来のためになるであろうと思ったのだと思う。

漱石が和歌山でこの講演を行ってから100年。
世界における日本の立場も、日本人の自国や外国の文化に対する意識も大きく変わりました。
それでもなお、漱石の言葉や視点には現代の我々が読むべきものが、現代の私達にも通じるものが大いにあると、私は思うのです。

ちなみにこの講演の中で私のスキな言葉はこれ↓笑

学者は分った事を分りにくく言うもので、素人は分らない事を分ったように呑込んだ顔をするものだから非難は五分五分である。


※上記引用文は、読みやすいように句読点を足しました。

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