風の旅人たち <若者たち>

2006年06月19日 | 風の旅人日乗
6月19日 月曜日。
次は、舵誌の2001年1月号に掲載された、風の旅人たち、若者たちから。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年1月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

若者たち

辛い思い出
ハワイのケンウッドカップ、サンフランシスコでのビッグボートシリーズの後、関西ヨットクラブ主催のジャパンカップ2000に挑戦する予定だった〈シーホーク〉(世良直彦オーナー)だったが、サンフランシスコからの船便の都合がつかず、ジャパンカップ参加を急遽断念することになった。
そこでぼくも急遽暇になった。
サンフランシスコのあと仕事で2週間ほどニュージーランドに行って日本に帰ってみると、11月の週末のスケジュールがまだ空白のままだった(他の月もそうなんですが…)。
この機会に、久し振りに仕事以外で、自分の遊びとしてヨットに乗ってみたいな、と思った。J/24の全日本選手権が11月後半にあることは知っていたが、なんとなくそれには出る気にはなれないでいた。J/24からは3年以上も遠ざかっているし、悪い思い出のレースばかりだった。最後に出たJ/24のレースは1997年の全日本で、それがまた最悪だった。
その年の全日本の2ヶ月ほど前の7月、自分の誕生日にニュージーランドで、ギックリ腰なのに無理をしてゴルフをやってしまい、ある一振りで激症の椎間板ヘルニアになり、そのまま立つことができなくなった。翌日、NZラグビーのオールブラックスの担当医に見てもらったら、こんなひどいヘルニアは初めて見た、もうスポーツはだめだろう、と見放され、でも可能性はゼロではないので自殺するんじゃないよと励まされた。
雨が続く冬のニュージーランドでそのまま5週間寝たきりになった。3分以上立っていることができなかったうえ、医者が、飛行機に乗ることを絶対に許可してくれず、日本に帰れなかったのだ。
5週間後に少しの間だけ立っていられるようになって医者の許可をもらい、やっとのことで日本に帰ってきた。オークランド空港と成田空港では、それぞれの空港職員の奇麗な女の子に車椅子を押してもらって税関を通り抜け、そのまま東京の病院に行った。その後しばらくほとんど寝たまま、立つときは松葉杖という生活が続いた。
その帰国から約3週間後にJ/24全日本に参加した。参加の準備がどんどん進んでしまっていたし、それまでにはなんとか歩けるようになるだろうと思っていたから、敢えてエントリーを取りやめなかったのだ。レース中メインシートを持っていることが出来ず、ずーっとクリートに止めてステアリングした。メインシートを強く引いたりクリートを外したりする動きをすると、損傷した背骨の椎間板に左足の神経が直接触れるらしく左足がしびれて激痛が走るのだ。そのうちなんとかなるだろうと思っていたのだが、なんともならなかった。スタートをして、自分の風上、風下を他のヨットがどんどん前に出て行くのを見るのはとても辛いことだった。
それ以来J/24に乗るのが恐くなり、J/24から遠ざかった。

イケテル若者たち

さて、今回ニュージーランドから戻ってすぐのこと、あるJ/24のオーナーと別の話で雑談をしていたら、そのオーナーがそろそろJ/24を売ろうかなと思っているという話題になった。では売る前に一度貸していただけませんか? と尋ねると、オゥ、使ってくれ、ということになった。
で、何するの? と聞かれたので、本当はちょっと気楽に仲間内でセーリングしてみたいなと思っていた程度だったのだが、イエ、ちょっと、全日本に出てみたいなと思って、などと、まだ決めてもないことが口から出てきた。口に出してしまったので、なんとなく、気持ちもそういうふうに傾いていった。
ちょうど郵貯の簡易保険の「5年間何も請求しなかった御褒美」的一時金が入ることになっていたのでそれを遠征費に当てればいいかなと思っていたが、あつかましくも石田オーナーからもカンパをいただいた。クルーもなんにも決めてなかったが、これで後に引けない感じになった。
まず、元ニッポンチャレンジの吉田 学に声を掛けたらいつものように無愛想に「いいっすよ」と言ってくれた。
同じく元ニッポンチャレンジの柴田 俊樹に声を掛けたらいつものようにもう別の船に乗ることに決まっていた。柴ちゃんが、自分の代わりに高岡どうっすか?というので、これも元ニッポンチャレンジで、とても性格のいい高岡 勝のことを思い出して声を掛けたら、仕事が変わったばかりで忙しいんですけど乗りたいですと言いながら、休日出勤をやりくりし、さらに幼い息子をなんとか説得して乗ってくれることになった。
以前から、いつか一緒にセーリングしようと話していた山田 寛に電話をしたら、その週は470の全日本に出ようと思っているので、ということだったので諦めたが、その15分後に、クルーの斎藤と話してそっちに出ることに決めました、と電話がかかってきた。
これでクルーも決まってしまった。ぼく以外の4人ともJ/24に乗ったことがなかったが、5人の体重を足してみると390kgで、最大400kgのJ/24のクルーウエイトにピッタリだ。これでもう、出ない理由が無くなってしまった。

山田 寛と斎藤 誠二のコンビはアトランタの選考で最後まで中村 健二選手を苦しめた、ホンダ技研が誇る470の強豪チームだった。山田はその後弟の真と全日本も取り、シドニーでも代表を狙っていた。寛ちゃんに初めて会った頃は彼がまだ中学生の頃で、浜名湖の小池哲生のジュニアヨット塾でのことだ。その頃の小池塾合宿では、風が出てくるのを待つ間、年長の寛ちゃんは1階で勉強をしていたが、2階では、弟の真や今〈ゼネット〉のスキッパーになっている小林正季がイガクリ頭の小学生で、カレーライスを馬鹿みたいにお代わりしていた。
寛ちゃんとは昨年、彼がシドニーの選考で結果が出せず悩んでいて、一方のぼくがニッポンチャレンジで精神的に少し辛かった頃、お互いの休日に浜名湖で会って飯を食ったり、今年の5月には葉山で会ったりしていた。彼は今後自分がセーリングとどんな風に関わっていけばいいのか悩んでいたし、それは同時に長年のぼく自身の深い悩みでもあった。そして自分より17歳も若い青年がしっかり物事を捉えようとしていることに新鮮な驚きも覚えた。また、こういう青年が日本のセーリング文化を引っ張っていく手助けをしなければいけないな、とも思った。いつか何かの機会に一緒にセーリングしようという話をしていたが、今回がそのいい機会になった。
3年以上もJ/24から遠ざかっているぼくと、ほとんど初めてJ/24に乗る4人だったが、みんな忙しくほとんど練習ができなかったものの、いろんなセーラーたちが協力してくれた。
工学院大学のヨット部OBたちで運営されている〈ハゼドン〉というJ/24のチームがある。2000年3月にスキッパーの斎藤卓司をガンで亡くし、今回の全日本に出場しないことになった〈ハゼドン〉だが、そのメンバーの面々がかわるがわる練習に付き合ってくれてJ/24初体験の高岡や山田に各ポジションのクルーワークを教えてくれた。柴ちゃんは、忙しい週末の1日を割いてキールボート初体験の斎藤にバウの作業を直々に教えてくれた。
吉田 学はとてもヨットがうまい。サッカーで世界に通用する中田は世間でえらく評価されるが、ヨットで世界に通用する吉田はまったく世間には知られてないし、テレビCMに起用されることもない。生活も苦しい。で、吉田はあと数ヶ月でプロセーラーを廃業することに決めた。日本にはプロセーラーが生活できる土壌がないのだ。吉田はジャパンカップ、マム30北米選手権と、プロとして乗るレースが続いたため、練習に参加することはできなかった。
結局、5人がそろって乗るのは全日本の第1レースが最初と言うことになってしまったが、一番の不安材料は、しばらくぶりでJ/24に乗り、タックもままならないぼくだ。ボートスピードもなんとなく冴えない。こんないいチームが揃ったのに申し訳ない気持だが、セーリングが好きで、しかもこんなにヨットがうまい若者たちと一緒に乗ることができる幸せを強く思った。何とか来年の世界選手権の枠も取れた。
こんなにヨットがうまい若者セーラーたちが日本にも揃っているのだから、日本人セーラーだけでいつか本格的な国際ヨットレースに挑戦することを実現させたいと、思いを新たにした2000年の11月だった。

(無断転載はしないでおくれ)

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