(その1から続く)
4月29日に糸満を出港したあと、O君は天候を見極めて、奄美大島の名瀬に一旦避難し、その港で強い寒冷前線を伴った低気圧をやり過ごしてから、熊本に無事ホクレアとカマヘレを連れてきてくれた。
しかもO君は、航海中のホクレアのクルーたちに美しい日本の国土を見せるために、コースを少し湾曲させて島に近づいたり、島原湾に進入する時間を調整したりと言う気配りまでしてくれた。
航海中O君は、ぼくとO君とで取り決めた交信時間の7時と17時の1日2回、NTTドコモが無料で提供してくれた衛星携帯を使って、現在位置と航海の状況を東京で地団太踏んでいるぼくに詳しく連絡して来てくれた。
ぼくはその報告を、ホクレア日本航海を安全支援のために追跡してくれていた海上保安庁第11管区(那覇)の担当者と、そのレグの担当である鹿児島と熊本の保安本部に、電話で連絡した。
O君がホクレアとカマヘレを熊本まで連れて行ってくれている航海期間中、ぼくは1日だけ時間を取ることができ、関東から日帰りで熊本に向かった。
ホクレアとカマヘレの入港の、具体的受け入れ態勢を最終的に決定するためだった。
宇土マリーナのハーバーマスターの佐伯さん、マリーナにホクレアを曳航するヤンマー船の船長、カマヘレが入港する三角港の桟橋を管理する熊本県の担当者、そして熊本海上保安本部の担当官と、2隻の入港作業に関して最終打ち合わせをした。そして熊本空港で羽田行きの飛行機を待つ間に、その日打ち合わせした内容を、熊本に向け航海中のO君に衛星携帯電話で連絡した。
O君は、歓迎式典のスケジュールに合わせて、5月4日、衛星電話での打ち合わせどおり、見事に時間通りにホクレアとカマヘレを、それぞれ宇土マリーナと三角港に入港させた。
ぼくの身の回りの個人的事情は、ホクレアとカマヘレが熊本に向かっている間に好転の兆しを見せ始め、O君との約束どおり、熊本からはぼくがO君から再びこの任務を引き継ぐことができそうな光が見えてきた。
ホクレアとカマヘレが長崎県の野母崎に出港する前日、ぼくは航海用の分厚い資料と衣類をバッグに詰めて、なんとか羽田から熊本に向かう飛行機に乗ることができた。
ヤンマー熊本の担当者の方に車で宇土マリーナまで送ってもらう。ヤンマーが今回のホクレア日本航海で、全社的に示してくれたサポートは、並大抵のものではない。
2月の事前打ち合わせ、つい数日前の最終打ち合わせに続いて、3回目の宇土マリーナだ。
その日の午後いっぱいをかけてホクレアのキャプテン、チャド・バイバイヤン、カマヘレのキャプテンのマイク・テーラーと、野母崎、長崎への航海について詳細な打ち合わせをしたあと、夜、真っ暗な宇土の海岸に座って、島原湾の波の音を聞きながら、O君とカップ焼酎で静かに乾杯した。
O君は重圧から解放されてホッとした様子。チャドとマイクの心配りで、長崎まではホクレアのクルーとして乗せてもらえることになった。重い責任感から開放されて、伸び伸びと航海を楽しんで欲しい。その辛い責任感は、ぼくが気合を入れて引き継ぐことにしよう。
ぼくよりも15歳も歳下だけど、ぼくはO君にはいくら感謝しても感謝し足りない。
O君の決心を見守り、職場での彼の立場を気遣い続けてくれたO君の上司は、ホクレアが横浜に到着した後、休暇を利用してぼくとナイノアに会いに来てくれた。
ぼくは2月にホノルルで、このO君の上司とナイノア・トンプソンを引き合わせ、彼はナイノアに日本近海の気象・海象について事細やかにアドバイスしていて、ナイノアはそのことに深い感謝をしていた。さらに彼は、ホクレアの生え抜きのクルーであり、マトソン・ラインのコンテナ船の優秀なキャプテンでもあったノーマン・ピアナイアとも旧知の仲だったのだ。
このO君の上司も、日本が世界に誇る大型練習帆船・海王丸の船長という責任ある職務に付いてさえいなければ、ホクレアの日本航海に直接関わりたいくらいだったらしい、ということを、後になってO君から聞いた。
昨夜の鎌倉では、O君と2人で今後の仕事の夢について語り合った。
彼は練習帆船の一等航海士として、ぼくはヨットのプロセーラーとして、ぼくたちは、一つの確固たる『柱』を共有している。セーリング、である。
この柱を、これまでどおり自分の生き方の柱にしつつ、今後の生活の柱としていくためには、二人の力とパッションとビジョンを融合させるにはどういう道があるかについて、時間を忘れて語り合った。
はい、いい夜でしたよ。