鎌倉・海船教育会議(その2)

2007年09月27日 | 風の旅人日乗
 

(その1から続く)
4月29日に糸満を出港したあと、O君は天候を見極めて、奄美大島の名瀬に一旦避難し、その港で強い寒冷前線を伴った低気圧をやり過ごしてから、熊本に無事ホクレアとカマヘレを連れてきてくれた。
しかもO君は、航海中のホクレアのクルーたちに美しい日本の国土を見せるために、コースを少し湾曲させて島に近づいたり、島原湾に進入する時間を調整したりと言う気配りまでしてくれた。

航海中O君は、ぼくとO君とで取り決めた交信時間の7時と17時の1日2回、NTTドコモが無料で提供してくれた衛星携帯を使って、現在位置と航海の状況を東京で地団太踏んでいるぼくに詳しく連絡して来てくれた。
ぼくはその報告を、ホクレア日本航海を安全支援のために追跡してくれていた海上保安庁第11管区(那覇)の担当者と、そのレグの担当である鹿児島と熊本の保安本部に、電話で連絡した。

O君がホクレアとカマヘレを熊本まで連れて行ってくれている航海期間中、ぼくは1日だけ時間を取ることができ、関東から日帰りで熊本に向かった。
ホクレアとカマヘレの入港の、具体的受け入れ態勢を最終的に決定するためだった。
宇土マリーナのハーバーマスターの佐伯さん、マリーナにホクレアを曳航するヤンマー船の船長、カマヘレが入港する三角港の桟橋を管理する熊本県の担当者、そして熊本海上保安本部の担当官と、2隻の入港作業に関して最終打ち合わせをした。そして熊本空港で羽田行きの飛行機を待つ間に、その日打ち合わせした内容を、熊本に向け航海中のO君に衛星携帯電話で連絡した。

O君は、歓迎式典のスケジュールに合わせて、5月4日、衛星電話での打ち合わせどおり、見事に時間通りにホクレアとカマヘレを、それぞれ宇土マリーナと三角港に入港させた。

ぼくの身の回りの個人的事情は、ホクレアとカマヘレが熊本に向かっている間に好転の兆しを見せ始め、O君との約束どおり、熊本からはぼくがO君から再びこの任務を引き継ぐことができそうな光が見えてきた。

ホクレアとカマヘレが長崎県の野母崎に出港する前日、ぼくは航海用の分厚い資料と衣類をバッグに詰めて、なんとか羽田から熊本に向かう飛行機に乗ることができた。
ヤンマー熊本の担当者の方に車で宇土マリーナまで送ってもらう。ヤンマーが今回のホクレア日本航海で、全社的に示してくれたサポートは、並大抵のものではない。
2月の事前打ち合わせ、つい数日前の最終打ち合わせに続いて、3回目の宇土マリーナだ。

その日の午後いっぱいをかけてホクレアのキャプテン、チャド・バイバイヤン、カマヘレのキャプテンのマイク・テーラーと、野母崎、長崎への航海について詳細な打ち合わせをしたあと、夜、真っ暗な宇土の海岸に座って、島原湾の波の音を聞きながら、O君とカップ焼酎で静かに乾杯した。
O君は重圧から解放されてホッとした様子。チャドとマイクの心配りで、長崎まではホクレアのクルーとして乗せてもらえることになった。重い責任感から開放されて、伸び伸びと航海を楽しんで欲しい。その辛い責任感は、ぼくが気合を入れて引き継ぐことにしよう。

ぼくよりも15歳も歳下だけど、ぼくはO君にはいくら感謝しても感謝し足りない。

O君の決心を見守り、職場での彼の立場を気遣い続けてくれたO君の上司は、ホクレアが横浜に到着した後、休暇を利用してぼくとナイノアに会いに来てくれた。
ぼくは2月にホノルルで、このO君の上司とナイノア・トンプソンを引き合わせ、彼はナイノアに日本近海の気象・海象について事細やかにアドバイスしていて、ナイノアはそのことに深い感謝をしていた。さらに彼は、ホクレアの生え抜きのクルーであり、マトソン・ラインのコンテナ船の優秀なキャプテンでもあったノーマン・ピアナイアとも旧知の仲だったのだ。

このO君の上司も、日本が世界に誇る大型練習帆船・海王丸の船長という責任ある職務に付いてさえいなければ、ホクレアの日本航海に直接関わりたいくらいだったらしい、ということを、後になってO君から聞いた。

昨夜の鎌倉では、O君と2人で今後の仕事の夢について語り合った。

彼は練習帆船の一等航海士として、ぼくはヨットのプロセーラーとして、ぼくたちは、一つの確固たる『柱』を共有している。セーリング、である。
この柱を、これまでどおり自分の生き方の柱にしつつ、今後の生活の柱としていくためには、二人の力とパッションとビジョンを融合させるにはどういう道があるかについて、時間を忘れて語り合った。

はい、いい夜でしたよ。

鎌倉・海船教育会議(その1)

2007年09月27日 | 風の旅人日乗
9月26日夕方。 
航海訓練所の帆船海王丸の一等航海士のO君と鎌倉駅前で待ち合わせをして、豆腐料理屋さんに行き、美味しい豆腐料理と酒を前に、いろいろなことを語り合った。
海王丸は、横浜杉田のIHIでのドックを終え、明日27日、東京港の晴海桟橋に向かうらしい。翌朝の出港が早いと言っていた彼の言葉を忘れてしまい、O君に夜遅くまで付き合ってもらった。



O君は、突然発生した個人的事情で沖縄に戻れなくなったぼくのピンチヒッターとして、沖縄から熊本まで、ホクレアとカマヘレを水先案内してくれた、ぼくとすべてのホクレア関係者にとっての恩人だ。

沖縄から熊本に至る海は、特に春先は気象の変化が激しい。その上、黒潮が荒々しく流れて、波が著しく悪い海域も何箇所かある。さらに、見張りの義務を怠る外国船籍の船舶の交通量も多く、衝突事故も多く起きている。つまり沖縄から熊本までのレグは、今回のホクレアの日本航海の中でも最大の難所だった。



O君がいなければ、ホクレアとカマヘレが無事熊本までたどり着いたかどうか疑問だった、と今でもぼくは思っている。

4月23日の日没直前の17時30分、北緯26度11分、東経128度01分の沖縄本島沖でホクレアをやっと見つけて伴走を始め、翌日未明の糸満港までエスコートしたときにもO君はぼくの補佐を務めてくれた。
糸満入港からほんの数時間後の4月24日の早朝、ぼくはナイノア・トンプソンとチャド・バイバイヤンと次の寄港地である熊本県・宇土の入港方法の詳細などについての打ち合わせを済ませ、そのままO君が運転する車で那覇空港に向かい、その日の朝一番の飛行機で慌しく東京に戻った。

その後ぼく自身の身の回りに発生した、東京をどうしても離れられないという辛い事情と、ホクレアとカマヘレを“絶対に”無事に熊本まで届けなければならないという使命感の間で、どちらを選択すべきなのか、ぼくは恐らくこの一生の中で最も激しく悩み抜いた。身体が2つあればいいのに、と本気で願った。

そのとき、ぼくの代わりとして、ぼくが安心してホクレアとカマヘレの安全を委託することができ、人間性にも優れた海と船のプロフェッショナルは、O君しかいなかった。

しかし、彼は航海訓練所の一等航海士という職員であり、休暇中とはいえ、勝手に海に出ることは、しかも責任ある立場で、ある航海に立ち会うことは、職務上許されていなかった。彼の職場の上司からも、「西村さんの補佐という形であればよいが、O君を単独で航海に出すことは、考えないで欲しい」という、彼の立場を考えての、厳しいお言葉ももらっていた。

もし、O君が乗れなかったら、自分としてはホクレアを選ばざるを得ない、と決心したが、そうすれば、自分は自分の身内の中で、今後身の置き所のない人間になってしまうだろう、と思うと辛かった。心から血が出る思いとは、こういうことなのか、と思っていた。

しかし、O君は、そういうぼくの心を見透かしたかのように、職場での自分の立場が危うくなることを覚悟した上で、ぼくの代理として一人でホクレアを熊本まで水先案内することを決意し、上司を説得して回ってくれたのだ。

(続く)