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歩くことが唯一の趣味ですから。

小田原宿

2017-04-24 | Weblog
地蔵といえば立っているものだが、この地蔵は座ってる……だけじゃなく、でかい! ボランティアの
ガイドさんはこれが地蔵だというけれど、地蔵というより大仏じゃないの? 右下に何か書いてある。


南無延命地蔵頭王菩薩

ほんとだ、地蔵になってる。ガイドのおじさんによると、この地蔵はもともと箱根芦ノ湖の賽の河原に
安置されていたんだけれども、明治の廃仏毀釈のときに芦ノ湖畔にいづらくて小田原までおりてきた。
それからずっと小田原にいるという。


冷暖房完備だから戻りたくない

先月も今月も箱根に用があって小田原に寄った……先月は石垣山の一夜城を訪ね、そのとき500円
で缶バッジを買って乗った回遊バスが、5月14日までバッジを見せると何度でも載り放題だったことを
小田原にきたら思いだし、バッグの底からバッジを出してバスに乗ったのだ。


小田原宿回遊バス うめまる号

旧東海道の小田原宿なりわい交流館でバスを降りると、NPO法人小田原ガイド協会の無料案内あり
と地図に書いてあるから、どんなガイドかなと思って後をついて行くと地蔵の銅像があった。曹洞宗の
徳常院というお寺。


そこから海に連れて行かれる

西湘バイパスの下をくぐって相模湾に出る。ちょっと離れたところに、昭和50年代に小田原漁港が
できるまで、この浜で魚の水揚げをしていたという。定置網でブリがとれた。


浜といっても石ばかりじゃないか

バイパスを通して川を堰き止めたから、砂が流れてこなくなって、たちまち石ばかりの岸になったと
おじさんが話す。それまでは砂浜が広がって、とれたブリをならべたものだと。


だいたいこんな感じの砂だった

あっちにいる人が、何撮ってるの? という顔をした。あんたらを撮ったんじゃなくて、どんな砂かを
写したいだけだから気にしないで。


ガイドさんの後ろ姿

この上のバイパスができてから、小田原の浜の景観が変わってしまったと話す。トンネルの向こうまで
ずーっと砂浜が広がっていたそうだ。おじさんが子どもから大人になる頃までは。


堤防の上部が露出

明治35年(1902)の小田原大海嘯といって、地震ではなく台風の高潮でこのあたりが水害にやられた
あと、町ごとに高さ約9mの堤防を作ったんだけど、バイパスができて地形が変わってしまい、現在は
上のほうしか見えない。


そのことが書いてある

いまは舗装されてしまっているけれども、この堤防のあたりまでは砂浜が広がっていたと語るおじさん。
高さ9mってことは、8mぐらい埋め立てられたわけだ。


いわれないとわからなかった…

おじさんの生家がこっちのほうらしくて、宿場よりも浜辺のことに詳しいくらいだった。ブラタモリを見る
のが好きらしい。街道や宿場、城址の地形のことを詳しく聞かせてくれたけど、写真になりづらいので
せっかくだけど割愛。


官ではなく民がつくった堤防

大海嘯のあとで堤防をつくったのは民、その堤防を埋めて浜をつぶして、バイパスを通したのは官。
つまり住民のことを考えて何かしてくれるわけではないということか、昔も今も。


大海嘯の9年前に創業の鰹節店

だんだん旧東海道のほうへ。鰹節ができるまで5か月かかるらしい。カツオのほか、ソウダガツオ
やサバの節もあり、削って混ぜた節もあった。かまぼこ屋さんが12軒あって、そのうちのひとつで
タモリさんが先日かまぼこ作り体験をしたと聞かされたけど、ブラタモリ見なかったので興味薄い。


なづけて、小田原かまぼこ通り

その先のマンションの角に、北村透谷の生家跡であることを示す碑があった。ボランティアのおじさん
の口から、恋愛という言葉を初めて使ったのは北村透谷だと聞かされた。そうだったのか。


北村透谷生誕之地


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