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滑空班の思い出

2016-10-14 13:12:32 | 読書

 昭和20年の春、工業学校機械科の二年生だった私は「滑空班」に入っていた。今でいえば部活のようなものだが教練と平行した軍国主義教育の一環だった。クラスはグライダー訓練の「滑空班」と自動車の運転を練習する「機甲班」に分かれていた。飛行機やグライダーに憧れていた私は一も二もなく「滑空班」を希望した。

模型グライダー少年   
 私は小学生の頃から模型飛行機や模型グライダーを作って飛ばすことに夢中だった。                                    村の防空監視哨へ遊びに行っては日米の飛行機の写真をあかず眺めていた。当時子供の間では軍艦や飛行機の絵を描くことがはやっていたが私は飛行機の一筆書きが得意だった。     
  丘から飛ばした自作の模型グライダーが上昇気流に乗って津軽海峡の上空へ消え去ったことがある。私にとって夢のような記憶である。
             
滑空訓練          
  本物のグライダーに乗れる訓練は、わくわくするほど楽しかった。当時既に食糧事情が悪化して芋デンプンの葛湯の中にご飯粒が混じっているといった程度の食事になっていたのだが、空腹も忘れて、空を飛べるという夢のような訓練に励んだ。

   訓練は「プライマリー」という一番初歩の機体で始まった。上達するに従って「セコンダリー」そして最高級の「ソァラー」となっていく。「ソァラー」は上昇気流にのって自由に空を飛ぶこともできるが我が校にはなかった。

 当時の「プライマリー」訓練はゴムのパチンコを大きくしたような仕掛けで滑空していた。16人か18人の生徒がV字型に二手に分かれて太いゴム製の牽引ロープを引っ張って前進する。ほどよいところで先生の合図で機体の後尾についてる係留索を離す。グライダーは飛び出し浮揚する。       

 最初は1,2メートル地面を這うだけだが、だんだん距離を伸ばして遂に1メートルほど空中に浮くようになる。プライマリーは風防がなく体がむき出しなのでほほを切る風の音がすごい。目から涙が出る。この瞬間の緊張と興奮は70年以上経った今でも思い出せる。

 訓練を重ねるうちに滑空距離も伸び高度も上がる。一方、最初は無我夢中だったのが怖さも分かってくる。 操縦桿を引きすぎると急上昇し、失速して墜落する。着陸するときに機首を下げるのが早すぎると接地したあと跳ね上り(バウンデング)を繰り返して機体は壊れてしまう。
  このとき足が方向舵のフットバーから離れると地面と接触してアキレス腱断裂ということになる。 グライダーの操作は危険であり、繊細で微妙なだけに訓練は真剣だった。 電車に乗るときも立ったままで、吊革にもつかまらない。体のバランス感覚を磨くためになのだ。  
  
▼ 三級滑空士                                                                 100回飛んで三級滑空士の受験となる。幸い大きな事故もなく訓練が続き何とか合格した。免許証は小さなカードサイズだったように記憶している。                               敗戦後、この免許証は学校からの指示で焼却した。進駐軍に見つかるとまずいということだった。勤労動員されていた函館ドックでも資料や図面を山のように積み上げて燃やしていたが、今になって思えばいずれも無駄で無意味なことだったようだ。

エビソード 

横津岳頂上での相談                                                         滑空班の訓練が終わる頃、函館市の後背部にある横津岳に登り、先生を囲んで相談したことがある。函館港内に敵の艦船が入ってきたら、グライダーに爆弾を積んでこの横津岳から発進し、自爆攻撃をしようというのだ。プライマリーの滑空角度でも十分港に届くという予想だった。
  今思えば荒唐無稽で人に話すのも恥ずかしい話だが当時は大まじめだった。そんな時代であり雰囲気だった。

ハヤブサ不時着、羽布張りの尾翼     
  われわれが滑空訓練をしていた草原にハヤブサ戦闘機が不時着した。現地修理ができず解体して運搬することになったといい、手伝うことになった。そのとき何気なく尾翼に触って驚いた。ジュラルミンではなく「羽布」張りだったのだ。今振り返ってみても資材不足だったのか機体を極力軽くして機動性向上を図った設計だったのか、分からない。そのときは、日本もとうとうジュラルミン不足で布張りになったのかと思い不安になったのを覚えている。              
           
空襲警報                                                        初めてセコンダリーに乗ったときだった。離陸してすぐ地上の先生や仲間が手を振って早く降りるようにと合図しているのに気づいた。                                   着陸して分かったのだが空襲警報が鳴ったのだ。その何日かあとだったと思うが銀色に光るアメリカのB29爆撃機が高高度を飛んでいるのを見た。このあとは函館空襲、そして敗戦、あっという間のようだった気がする。                                    

原風景 
  グライダー訓練も敗戦の思い出も七〇年以上昔の話になった。

 今のグライダー訓練は指導員が同乗し、最初から飛行機が引くソァラーで飛び上がるのが普通らしい。安全性も格段に向上しているようだ。それに比べればわれわれが体験した戦時中の訓練はずいぶん泥臭くて危ないものだった。食糧不足で飢えていた記憶も重なる。それでも私にとってグライダーの思い出は宝物のような楽しい原風景になっている。         (2016/10/14 )

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