えのきだ君


LEICA X1

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長い下りのエスカレーターに乗っていた。
隣のレーンの上りのエスカレーターを、下から上がってくる30代の男性と目が合った。
彼は僕を見て、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに顔いっぱいに笑みを浮かべて、大きな声で叫んだ。
「えのきだ君! えのきだ君じゃないか!」

彼の声が、エスカレーターの長い筒状の通路の中に響いた。
みなが注目している。
僕は、顔をそらして、あらぬ方向を向いた。
知らん顔をすることで、人違いであることを、暗に伝えようと思ったのだ。

しかし彼は、僕をえのきだ君だと信じ込んでおり、まったく疑ってもいない様子で、続けて話しかけてくる。
「探したんだよ。久しぶりだなあ。やっと会えた」
違うんだ。僕はえのきだじゃない。
そう目で訴えたが、彼にはまったく通じない。

彼の位置がどんどん近付いてくる。
すれ違い様、彼は上りのエスカレーターから身を乗り出すようにして、興奮したように目を光らせて話しかけてきた。
えのきだ君とやらに伝えたいことが、よほど一杯あるようだ。
手を差し出した彼に狼狽した僕は、エスカレータの反対側の端に、彼を避けるように寄った。
そんなに僕は、えのきだ君に似ているのだろうか。

恥ずかしいので言葉は発さなかったが、僕は自分を指差し、否定するように手を左右に振って、必死になって訴えた。
僕はえのきだじゃあない。違う、違うんだ。
通り過ぎて上に昇って行った彼は、それでもこちらに向かって盛んに何かを話していたが、僕の冷たい態度に人違いに気付いたのか、にこやかだった顔が急に無表情になった。
訝しげにこちらを見ていたが、やがてプイと上を向いてしまった。

やっとわかってくれたかと、ほっとして前を向いた瞬間、
「やあ、えのきだ君! えのきだ君じゃないか!」
という大きな声が、上の方から響いてきた。
驚いて後方を見上げると、にこやかな顔をした彼が、また隣の誰かに話しかけている。
彼の見つけた「次の」えのきだ君は、顔をひきつらせて立ちすくんでいた。
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