書き始めの”世界存在論”、いずれ再開するつもりです。私の思考は、進んでいます、”意味”の問題についても、前進しました。笑う哲学者の、講義録、私の理論で面白く、解説できるところもあるので、そのうち書けるかも知れません。
今日の毎日新聞、余禄欄に、”自分を、売ったらあかん”という詩(岡部伊都子)のことが書いてありますが、もちろん”自分”を売るのはおろかな行為でしょうが、”自己”はすでに、売れません。
売ったら、それは自己ではないからでしょう。どうしたら、我々は、自己になりうるのか、そう我々は、自己にまでの、到達を目指すのがよいです。(日本語は、その言語空間は、なかなか面白く、充実しています(もっとも私は外国語にそれほど明るいわけではありませんが)”自己”というこの言葉こそ、”現存在私”を指し示すにふさわしく思えます。”自己責任”といいます(そう自分責任、私責任、我々責任(?)、それらは基本的に本来の構造をはなれているので、責任の場合には、自己責任といわれるのです)”自己”この者だけが、責任を持ちえて、存在者であり、自由でありうるものなのです)
”自分”というこの言葉は、なかなか面白くて、それはすでに、我々世界の中の、自身(つまり”自分”)をさしています。自分という言葉を使うとき、すでに、(厳しい言い方をするなら)そのものは、我々存在に転落しているのです。(ハイデガーの転落に近いものです)(ハイデガーの日常への転落という事情は、この状況をさすのです)
話は変わりますが、サルトルも存在と無のなかで、自由とは何かを、選択する自由であるといい、何も選択しない自由というものはない、といっているようです。”世界内”で、思考する限りこういう制約はやむをえないのです。
世界外を想定しないと、自由、その根源は多分明らかとはならないでしょう。心理学は、実験できる状況として、再現性があり、科学をなのりますが、私の、”ビルへの鯨侵入”事件は再現できるでしょうか、そう出来ません。
”実験”は、同じ出来事を再現しているのではありません、それはある事象のある部分的な意味を取り出してその意味の再現を試みているのです。重力の加速度を測る実験であれば、それは重力によるとされている加速度を図るという意味に限定されています。そして、その測定値が”ほぼ予想値に近い”ことを持って、その意味が再確認された、とするのです。
ほぼ予想値に近い、のですから、厳密には、確認されていません。測定誤差といいます、(私はここで測定誤差を唱える者に異論をさしはさむつもりはないのですが)この宇宙がビックバンから、ビッグクランチにへと、つながっているとしたら、重力加速度は、昨日と今日とで異なるほうが当たり前です。
重力加速度も揺らいでいるかもしれません。
”ビルへの鯨侵入事件”は、また起こったとしても、意味が異なります。そう二回目には、すでに、”現実”は垣間見えません。”二番煎じ”というやつです、意味が異なるのです。”プレゼント問題”も考えてみてください。
現存在私の現存在我々への参画、それが経済であるといいました。現在、経済といわれているものは、金品流通の事象です。どうして、そうなのか、まず現在”現存在私”が成立していません、(社会的実態としてです)、ですから今、”私”といってもそれはすでに、現存在我々の中に、紛れ込んでしまっているのです(同時に、いわば、”存在の責任”といったようなものが、”まぎれて”しまっています)、それで、参画、つまり活動といったようなものが、我々世界の活動であり、我々の生活していく活動に、”置き換わって”います。
我々世界の生活活動、生きていくための活動、すなわち金品流通経済です。(これはまだ、不完全の恐れある分析ですが、多分、大まかにはそんなところです。)
現在、流通が、特に市場主義社会にとっては、金品流通が、経済といわれている事情です。(”経済”が、私の(我々の)生きていく事情であるところは同様です、私が(現存在私が)生きていく、(活動する)のは、現存在我々への、つまり我々世界への参画にある事情は、同様です。その様態が、経済であり、その研究は、経済法論、となるでしょう)
今日の毎日新聞、余禄欄に、”自分を、売ったらあかん”という詩(岡部伊都子)のことが書いてありますが、もちろん”自分”を売るのはおろかな行為でしょうが、”自己”はすでに、売れません。
売ったら、それは自己ではないからでしょう。どうしたら、我々は、自己になりうるのか、そう我々は、自己にまでの、到達を目指すのがよいです。(日本語は、その言語空間は、なかなか面白く、充実しています(もっとも私は外国語にそれほど明るいわけではありませんが)”自己”というこの言葉こそ、”現存在私”を指し示すにふさわしく思えます。”自己責任”といいます(そう自分責任、私責任、我々責任(?)、それらは基本的に本来の構造をはなれているので、責任の場合には、自己責任といわれるのです)”自己”この者だけが、責任を持ちえて、存在者であり、自由でありうるものなのです)
”自分”というこの言葉は、なかなか面白くて、それはすでに、我々世界の中の、自身(つまり”自分”)をさしています。自分という言葉を使うとき、すでに、(厳しい言い方をするなら)そのものは、我々存在に転落しているのです。(ハイデガーの転落に近いものです)(ハイデガーの日常への転落という事情は、この状況をさすのです)
話は変わりますが、サルトルも存在と無のなかで、自由とは何かを、選択する自由であるといい、何も選択しない自由というものはない、といっているようです。”世界内”で、思考する限りこういう制約はやむをえないのです。
世界外を想定しないと、自由、その根源は多分明らかとはならないでしょう。心理学は、実験できる状況として、再現性があり、科学をなのりますが、私の、”ビルへの鯨侵入”事件は再現できるでしょうか、そう出来ません。
”実験”は、同じ出来事を再現しているのではありません、それはある事象のある部分的な意味を取り出してその意味の再現を試みているのです。重力の加速度を測る実験であれば、それは重力によるとされている加速度を図るという意味に限定されています。そして、その測定値が”ほぼ予想値に近い”ことを持って、その意味が再確認された、とするのです。
ほぼ予想値に近い、のですから、厳密には、確認されていません。測定誤差といいます、(私はここで測定誤差を唱える者に異論をさしはさむつもりはないのですが)この宇宙がビックバンから、ビッグクランチにへと、つながっているとしたら、重力加速度は、昨日と今日とで異なるほうが当たり前です。
重力加速度も揺らいでいるかもしれません。
”ビルへの鯨侵入事件”は、また起こったとしても、意味が異なります。そう二回目には、すでに、”現実”は垣間見えません。”二番煎じ”というやつです、意味が異なるのです。”プレゼント問題”も考えてみてください。
現存在私の現存在我々への参画、それが経済であるといいました。現在、経済といわれているものは、金品流通の事象です。どうして、そうなのか、まず現在”現存在私”が成立していません、(社会的実態としてです)、ですから今、”私”といってもそれはすでに、現存在我々の中に、紛れ込んでしまっているのです(同時に、いわば、”存在の責任”といったようなものが、”まぎれて”しまっています)、それで、参画、つまり活動といったようなものが、我々世界の活動であり、我々の生活していく活動に、”置き換わって”います。
我々世界の生活活動、生きていくための活動、すなわち金品流通経済です。(これはまだ、不完全の恐れある分析ですが、多分、大まかにはそんなところです。)
現在、流通が、特に市場主義社会にとっては、金品流通が、経済といわれている事情です。(”経済”が、私の(我々の)生きていく事情であるところは同様です、私が(現存在私が)生きていく、(活動する)のは、現存在我々への、つまり我々世界への参画にある事情は、同様です。その様態が、経済であり、その研究は、経済法論、となるでしょう)