思考

 ”思考”一般についての、個人的、(つまり余り学術的でない)、研究、考察

”まぎれて”しまっています

2006年03月06日 | Weblog
 書き始めの”世界存在論”、いずれ再開するつもりです。私の思考は、進んでいます、”意味”の問題についても、前進しました。笑う哲学者の、講義録、私の理論で面白く、解説できるところもあるので、そのうち書けるかも知れません。

 今日の毎日新聞、余禄欄に、”自分を、売ったらあかん”という詩(岡部伊都子)のことが書いてありますが、もちろん”自分”を売るのはおろかな行為でしょうが、”自己”はすでに、売れません。
 売ったら、それは自己ではないからでしょう。どうしたら、我々は、自己になりうるのか、そう我々は、自己にまでの、到達を目指すのがよいです。(日本語は、その言語空間は、なかなか面白く、充実しています(もっとも私は外国語にそれほど明るいわけではありませんが)”自己”というこの言葉こそ、”現存在私”を指し示すにふさわしく思えます。”自己責任”といいます(そう自分責任、私責任、我々責任(?)、それらは基本的に本来の構造をはなれているので、責任の場合には、自己責任といわれるのです)”自己”この者だけが、責任を持ちえて、存在者であり、自由でありうるものなのです)

 ”自分”というこの言葉は、なかなか面白くて、それはすでに、我々世界の中の、自身(つまり”自分”)をさしています。自分という言葉を使うとき、すでに、(厳しい言い方をするなら)そのものは、我々存在に転落しているのです。(ハイデガーの転落に近いものです)(ハイデガーの日常への転落という事情は、この状況をさすのです)

 話は変わりますが、サルトルも存在と無のなかで、自由とは何かを、選択する自由であるといい、何も選択しない自由というものはない、といっているようです。”世界内”で、思考する限りこういう制約はやむをえないのです。
 世界外を想定しないと、自由、その根源は多分明らかとはならないでしょう。心理学は、実験できる状況として、再現性があり、科学をなのりますが、私の、”ビルへの鯨侵入”事件は再現できるでしょうか、そう出来ません。

 ”実験”は、同じ出来事を再現しているのではありません、それはある事象のある部分的な意味を取り出してその意味の再現を試みているのです。重力の加速度を測る実験であれば、それは重力によるとされている加速度を図るという意味に限定されています。そして、その測定値が”ほぼ予想値に近い”ことを持って、その意味が再確認された、とするのです。
 ほぼ予想値に近い、のですから、厳密には、確認されていません。測定誤差といいます、(私はここで測定誤差を唱える者に異論をさしはさむつもりはないのですが)この宇宙がビックバンから、ビッグクランチにへと、つながっているとしたら、重力加速度は、昨日と今日とで異なるほうが当たり前です。
 重力加速度も揺らいでいるかもしれません。

 ”ビルへの鯨侵入事件”は、また起こったとしても、意味が異なります。そう二回目には、すでに、”現実”は垣間見えません。”二番煎じ”というやつです、意味が異なるのです。”プレゼント問題”も考えてみてください。

 現存在私の現存在我々への参画、それが経済であるといいました。現在、経済といわれているものは、金品流通の事象です。どうして、そうなのか、まず現在”現存在私”が成立していません、(社会的実態としてです)、ですから今、”私”といってもそれはすでに、現存在我々の中に、紛れ込んでしまっているのです(同時に、いわば、”存在の責任”といったようなものが、”まぎれて”しまっています)、それで、参画、つまり活動といったようなものが、我々世界の活動であり、我々の生活していく活動に、”置き換わって”います。
 我々世界の生活活動、生きていくための活動、すなわち金品流通経済です。(これはまだ、不完全の恐れある分析ですが、多分、大まかにはそんなところです。)

 現在、流通が、特に市場主義社会にとっては、金品流通が、経済といわれている事情です。(”経済”が、私の(我々の)生きていく事情であるところは同様です、私が(現存在私が)生きていく、(活動する)のは、現存在我々への、つまり我々世界への参画にある事情は、同様です。その様態が、経済であり、その研究は、経済法論、となるでしょう)

”存在的、存在論的に”、

2006年03月01日 | Weblog
 私が今言った、”責任”は、存在論的責任、(すなわち根源的責任論)、であって、日常の”社会的責任”(普段、それが責任といわれます)、ではありません、もちろん、あらゆる責任は、存在論的責任から派生するのですが。

 社会的には、発言は自由です。これは発言内容の、正邪は容易に判明しない場合があるからです、言論の自由です。

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 ”存在的、存在論的に”、とハイデガーは言います。この言い方は、存在的と、存在論的とを同じように考えているように思えます。ハイデガーは、多分、存在論的に存在するものが、存在的に存在し、そして、存在的に存在するものは存在論的に存在しているのだ、といいたいのだと思います。

 私は、存在論的と、存在的とを区別したいと思います。可能性といったものは、存在論のなかに成立し、存在的にははっきりしないと思えるからです。”人”が、(日常で)未来に可能性を見る事情は、それが今なくて、どこに出現するかわからず、未来に出現することを願う(恐れる)からでしょう。

 正確には、(正しくは)、”可能性”は存在論のなかに成立するのです。存在論のなかに成立した、存在可能性が、存在的に、(現存在の把握する世界内に)、存在として現れる(開示する、開示している)のです。(現存在と世界とは同時に開示する、です)(そうして、”可能性”の成立しない世界は、”世界”ではないでしょう)

 ”論”とは、実際、に先行するのです。プラトンのイデア”論”は、まさしく論でした。あらゆるものの、存在は先行する存在可能性(イデア)、から導かれている、という説明です。
 存在が成立するためには、まず、その可能性、(存在可能性)、が成立していなければいけません。(”論”は先行して、説明するので、過去の出来事だけでなく、未来の出来事に言及できるのです)(そうして、”未来がなければ世界ではない”、ですから、論的に世界は成立するのです)(、”未来がなければ世界ではない”、は、”意味”的にです(意味においてです))

(実際には、つまり、歴史的、実状的には、存在的に物事は先行し、存在論は”追いかける”事態に追い込まれてきたのが実状ですが。この逆転、(そして今、(私の世界存在論によって)存在論が、実状に先行しようとしている(再逆転)事情は、説明可能と思われますが、容易ではありません)

”意味”には、責任が伴う

2006年03月01日 | Weblog
 ゲームというと、ヴィトゲンシュタインの、言語ゲームです。彼がこの言葉を使用した事情は、私はよいと思うのですが、ほかの人がこれを誤解していると思います。

 結論からいいますが、彼は行為行動の責任性に気づいていたのです。(当たり前ですか、行為、行動に責任が伴う事情は)
 妄想、空想は自由です、多分、責任はない(問われない、すなわち、問われる可能性はない)、当たり前です、他者には公言しない、伝えないわけですから、しかし、たとえ、”思考実験”といっても、他者に話す限りは、責任が生じる、(生じる可能性があります)だから、彼は”言語ゲーム”といったのです。

 しかも、この言語ゲームという言葉には、それをみんなで、(同意の上で)あるほど、楽しくやろうではないか、という提案が含まれています。”ゲーム”という言葉が、また実に不思議です、それは関係ない(世界内のその他の事情に)、のです。
 しかも、行為行動の、確かに一部です。行為行動の一部ですから、ゲーム中に、怪我でもすれば、その怪我についての責任は生じるのですが、ゲームそのものの内部には意味がなく(責任を伴う意味がなく)、責任はないのです。

 そう、”意味”には、責任が伴う、のです。(今、気がつきました、今、解りました)(”知る”ことが、すでに行為であって、そこに責任があるのですから、当たり前ですか)(”教授”が意味の十分な自覚なく、やたらに言葉を振り回す、幼稚園児の砂場での、振る舞いに似ています(砂をやたら、あたりに振り掛けるという)、もっとも、幼稚園児も、すぐに砂場できちんと、”遊ぶ”ようになるのですが)(いや、失礼、私のこのブログも、だからまず、正しい遊び方(思考の仕方)の研究です、それから(経済を考慮して)ゲームでもやりますか)

(ゲームの内部においてのみ、われわれは、(経済的事情で)、(十分な)、自由を始めて享受できるのでしょうか)(ここで、経済的とは(むしろ)、私の基本経済をさします)

(私の思考は、”根源的”、ですから、いわばすべての世界内の事情を”裏返し”えるのです。さて、すると、(あらゆる)行為行動の”ゲーム化”が可能になりますか(?))(行為行動の、ゲーム化の可能性が成立します)(あらゆる”可能性”は、世界獲得の内部で(あとで)(世界把握があって)(世界内で)、始めて、”成立”するのです)

(それは、”自由”かもしれません、自由とは全部の自由であって、限定された自由は自由ではなく(自由の名に値せず)、自由とは思考の自由にとどまらず、行動行為の自由に及ぶ事情は、確かと思えます)(なるほど、では、今日も、”ゲーム”、をするか(経済的に)(根源的に))(06.3.1)

多元連立不等式

2006年02月26日 | Weblog
 笑う哲学者の、哲学講義、もう少しで一応読み終わります。これを読んでいると、私はいらいらして、そうして、なんだか混乱します、要するに、わからない言葉を連発するからではないかと、気がつきました。

 「存在」、「意味」、「意図」、「美」、「世界」、たとえばこういう言葉、はその構造がよくわかっていません。(あえて、意味とはいわずに、構造といっておきます、それは意味、そのものがよくわからないからです)
 わからない言葉を連発して、何事かを”語る”、それはよろしくない、と私は思うのです。

 まぁ、仕方ありません。”ひと”は日常に、まさしく”転落”して生活し、います。

 「存在」などという言葉を言われると、それだけで、私たちの頭脳はいわば、”フリーズ”してしまうのではないか、と私は思うのです。小さいフリーズを起こすのです。そういった、小さいフリーズに、われわれ自身がいわば、なれてしまっていて、どこかで何か違和感を感じるのですが、それが何か、どうしてかがはっきりしない、のだと思います。

 このような、本を読んでいると、(いるせいか)、ひどく疲れます。私のここでの試みは、そういった、混乱を何とかしようというものなのですが、多分、なかなか他者には、つまり読んでもらっても、解らないのではないかと思っています。

 (そうすると、そう、なんだか、ひどく疲れます)

 私は、”この世界”の解明といったようなものはいずれにしても、多元連立方程式を解くようなものである(正確には多元連立不等式でしょうが)、と思っています。未知数の数は、多分20個位にはなるのではないでしょうか。
 だから、不等式の数はかなりになり、解法も容易ではありませんが、解けるのです。しかし、多くの研究者が、(研究者といわれるような人々が)途中で、未知数に、ある数字を代入してしまうのです。
 いいですか、”存在”というこの言葉がいまだ十分にわからないならば、たとえそれにとりあえず何かを代入しなければならないとしても、それはあくまでも仮の代入である、という事情を決して忘れてはならないのです。

 そうして、十分に式のそろったときに始めて、解法が浮かぶのです。未知数の数さえが、もちろん、わかりません。だから、かなり用心して、解法を進める(思考を進める)必要があるのです。

 だから、私は、まず、始めに
ーーー世界と現実とは異なるーーー

 この式を提示するのです。そして、この式の説明を始めているわけです。この式から、世界、現実、私、われわれ、などが説明できると思うからです。

”沈黙”する、ヴィトゲンシュタイン

2006年02月25日 | Weblog
 今回は、世界存在論は休んで軽い雑談を書きますが、笑う哲学者、ツチヤ教授、哲学講義読んでます。なかなか、いらいらします。書いてある内容はわかるのですが、あちこち同意できない。しかし、反論する、反論をまとめる(頭の中で、つまり反論を思考する)のもなかなか大変。

 どうも、教授は”形而上学”を否定的に言いたいらしいですが、いわゆる形而上学を否定的に言うなら、それは、もうここ当分の傾向であって、何の新鮮味もありませんが。
 もちろん、私の考えでは形而上学と、それらを呼んで、切り捨てるような行為は賛成できません。

 はっきりしない事柄が、あるなら、それを切り捨ててはいけません。小林秀雄が、”美学はもっとも遅れている学問である”というとき、彼は、美学も、学と名がついている以上、何か、学的になるに違いないと思っていたのでしょうか。私は、今、美に関する理論は可能である、と思うようになりました。ここで言う、”理論”とは他者に説明できる、(つまり他者にとりあえず、伝えうる)あるほどまとまった、説明くらいにしておきますが、それは可能であると思います。

 もしそういったものが出来れば、美についてお互い語りうることになり、美について議論可能となります。

 さて、では、いわゆる教授の言うところの、”目に見えないもの”についてはどうでしょうか。それらは語りえない、のでしょうか。ヴィトゲンシュタインが、”語りえないものについては沈黙しなければならない”というとき、それは、語りえない((彼が語ったその、)現時点では、そして彼が試みたところの方法では、ということですが)ものについて、放棄するといったのではありません。

 むしろ、彼は、それらが、決して放棄できないものであるがゆえに、それらにアプローチする方法を真剣に探していて、現在行われているような方法では難しい、といったのです。”目に見えないもの”を決して放棄できないし、もちろん、放置も出来ないといっているのです。(違いますか?)

 この世界は、目に見えるものだけで成立しているのでしょうか、それとも、この世界を説明するためには、どうしても目に見えないものにまで言及せざるを得ないのでしょうか。金メダル、あの演技、それをさまざまに解説しようとします、なるほど、一つ一つの解説はなかなか面白いものがあって、理解を深めますが、あの演技そのものは説明できません、(あの演技、(つまりその”美”が)どうして可能だったのか、どのように出来ているかは説明できません)

 あの美が、どうして美なのか、説明できません。(私が可能だと言っている美理論は、美の基礎論であって、もちろん、個々のその美を”説明”などしません(出来ません、ではなく))
 美は、美に対する態度(行為行動)は、説明ではないからです。それは表現(訴え)であって、また、受け取りです。(この受け取りは、しかも、”流通”ではなく、領収(書?)が表明できません)(軽々しく、”感激”発言が、飛び交いますが、発言すればするほど、それが、汚れる事情に気づかないのでしょうか)(本当の、(深い)感動は言葉を飛び越えますよね?)

 いいですか、繰り返します、”流通”ではないから、”領収”は表明できないのです。(領収の表明は求められてもいない、と私は思うのですが)表明できないものを、表明しようとする、間違いです。その美は、トリノで起こり、なるほど、テレビという利器に乗り、私のところへやってきました、私は、領収を表明するつもりはありません、こういった受け取りは、受け取りを(その内容を指摘して)、表明するものではないからです。(そうして、その内容に一切触れないならば、それは、(言葉での)領収の表明とはならないでしょう)(受け取りはあるのですが、その言葉での、表現、は出来ない、という事情です)(言葉での、表現が不適切であれば、そう、(離れてあるものとしては)”沈黙”する、(ヴィトゲンシュタイン、)です)
 
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 世界存在論、なかなか、まとまりません。それはまとまるものではないからかも知れません。”存在論”は、われわれの、わたしの、あり方としての、行為行動を含むからかもしれません。”行為行動”について(あらかじめ、あるいは事後に)語る、発言する行為は、その行為行動を”変質”させるのです。(この事情も、同じ行為は、決して二度と繰り返せない、という事情から来ています。行為行動について語る行為は、その行為行動の、何がしかの繰り返しになってしまい、(本来の、つまり実際の)行為行動を変質させるのです)(”言い訳は言うな”とか、”言い訳は聞きたくない”という発言がこれです。行動行為がいいわけ、(つまり”言及”)によって変質する、(次々と形を、変える)そういう状況への立会いを拒否する、”言い訳は聞きたくない”です。(”言い訳はやめてくれ”です)

 サルトルが文学へと志向した理由はこれではないかと思います。文学は、まず実行して、それを芸術的に表現すること(書き残す)が可能です。ここで、”芸術的”とは、その内容を変質させないで、(その内容を劣化させず、むしろ美的に抽出して)表現する、という事情です。

世界と現実とは異なる、1-07

2006年02月19日 | Weblog
 世界把握 06
 世界と現実とは異なる、という私の言明は、現実の世界化を指摘するものです。”現実”は、世界化されて始めて持たれる、知る、認識可能な状況となるのです。現実そのもの、は”見る”ことが出来ません。(現実の、世界化といった現象とともに、世界と、現存在とは開示されるのです)

(笑う哲学者の、哲学講義読んでます。なかなか面白いのですが、たとえば”机”は見られるのか、という議論をしていますが、(見えているものは机か、という問いとなっていますが)それも、この”見る”という行為の不思議さから考えれば、当たり前の事情であります、解ってもらえるでしょうか。)

(”見る”というこの行為も、人が人として、その目の前の何かを、何かとして、”見る”行為なのです。たとえば、そこにスチールの机があれば、それを見るという行為は、それを(スチールの)机として認める行為にほかなりません。では、見るという行為以前はどうかと人は問うかも知れません、それこそ、”現実”なのです。あるものがそれを何かとしてみる、以前、そこには現実があるのです、(この場合(厳密には)机があるともいえません、何かとしてみる行為は何かの背景の中に見るのであって、しかも、その見る者の、一つの行為としてみる(成立する)のです。見る行為の成立以前はその背景も成立していませんから、何かがあるのか、ないのか、それさえ判別できません、無論そこがどこかも言いえません)”現実”があるのであって、それ以上の言及は一切出来ません、この現実があるという言い方さえ、実は(正確には)不当であって、それを、”現実”、としか言いようがないのです)

(いいですか、ですから、無論我々が必用とする(前進的、建設的、問題解決的)議論は、ではどうして(どういう事情で)”我々”は、日常、”ここに机がある”という言明をするのか(そういう言明が可能なのか)。という状況、構造を明らかにする研究なのです。それには、まず、”我々”、”ここ”という基本的(?)状況を”成立”させるような研究が必要です。)(そういった言明がどうして可能なのかの研究は、もちろんその言明の、(言明という行為の)限界、背景、そして”意味”を明らかにし、それに迫る研究です)

(現実そのものは、見るどころか、それを指差すことが出来ません。我々が”現実”というこの言葉で指しているものは、”窓枠”であって、その外の現実そのものは指差すことさえ出来ません。そのものを(認め、意識し)指差し、指摘した瞬間、それは世界化されて、室内のもの、(投影された室内のもの)となるのです。)
(たとえ、”なんだか得体の知れない異様なもの”といった表現であっても、(あるいは、そういう”感覚”であっても)それを捉えた瞬間(意識し、認識した瞬間)、表現した瞬間、それは世界内の、世界化されたものとなるのです。我々が、現存在が世界内存在であるという事情は、実はこういう事情なのでした。(ハイデガーもこういう言い方はしていないと思いますが))

 そうして、私のここでの議論は、いまや、世界を正しく、正当に、(そして建設的に)捉えるためには、”我々”ではなく、”私”(現存在私)、の確立が必要であるといいたいのです。そうして、現存在私の十分な確立があってこそ、始めて、十分な、(世界内存在としての)”我々”が成立する、成立可能となる事情はいうまでもありません。(同時に、”世界”も始めて成立する(言及可能となる)のです、なぜなら、世界とはわれわれの(この仲間の)ともに生きられる世界、ですから)

 ”世界”は、実に成立するという事情にあり、わたし、も、われわれもそうなのです。世界と現実とは異なる、という言明はそういった事情を明らかにするのです。
(この事情は、実に驚くべき状況であるといって過言ではありません、この驚きがよくわからないとしたら、それはいまだ、この事情がよく把握できていないからですが、(それは誓って、わたしの責任ではありません、わたしの説明の何らかの不足かもしれませんが。わたしは始めから、知る行為、認識には、すでに何らかの責任が伴っていて、その責任を担う用意、準備、のないものはその認識、気づきに到達できないのではないか、といっています)、”驚愕”する状況であると、わかってもらえるでしょうか)

(この驚愕する状況こそ、今、ここにあって、われわれの、わたしの、わたしたちのいる、”ここ”なのです、”いま”なのです。この世界なのです)(そして、この状況は、地球始まって以来、生命の誕生して以来続けられてきた、進化の、意識の、認識の進化の、結果なのです)(06.2.19)

世界と現実とは異なる、1-06

2006年02月15日 | Weblog
世界把握 05
 私がここで、”世界把握”、といっていますが。人類は、それを以前は、”受領”、していたのです。この受領は、させられていたという側面があり、”世界受領”、とは呼びにくいと思います。ハイデガーはそれを(その衝突と、気づきを)、”世界了解”、といいます、彼が始めて、その了解に気づいたのであり(了解可能性に気づいた)、了解にたどり着いたのです。

 人は何かに出会うと(衝突すると)、そのものを受領します、この受領にもいくつかの段階が考えられるでしょうが、人の受領は、(他の動物と比較して、ある段階に達した受領は)その一つとして一つの能力であるといえます。現代でも、多く人は受領させられています、理解する、という現象がそれであって、人は多く、きづかないで、理解させられています。(理解する能力と、理解させられる(理解させられてしまう、すなわち受領する)能力とは、紙一重です)
 ”暴力”によってさえ、人は理解する、(だから、それは正しくは、”させられる”のですが)のです。(理解する、事情の中に、理解させられる、状況が含まれているのです)(こういった、理解させられる、状況は、現存在私の、現存在我々への転落(参画)の構造と、もちろん、深くかかわっています)

 人類が以前していた、受領は、その”宗教化”、によって、受領させられている状況から、受領する状況へと変化したに違いありません。(宗教とは何であるかは、いまだ説明する者がいないようです。もちろん、それの十分な説明が必要です)
 宗教が未発達の状態、(すなわち、たとえば”多神教”の時代では)では、人類は世界を受領していたのです。(もちろん、このときその受領させられていたものを、世界と呼びえるかどうかは疑問です。すなわち、世界はどこかに在ったのではなく、むしろ、人によって発見され、成立したのであり、私はさらに、それを新しく成立させるのだといいたいのです(世界把握によってです))

 (たとえば、人は、1+1は2である、これを理解しているのですか、本当にそれは2なのですか。(この事情は、)それを、むしろ受容している、といったほうが適切なのです。手品師の、”確認”に似て、”本当にそれでいいですか”、と私は問いたいのです。手品師の確認は(これはハートのエースですねという)、確認を装った、”受容を迫る行為”に近いでしょう(受容を迫る行為のにおいがします)。私なら、その確認をとりあえず、保留する権利を主張したいです。この保留する権利は、フッサールのエポケーに近く、それにつながるものです)

(現存在は、さまざまの物を、”持つ”のですが、それらは、受領して持たれ、(理解してもたれ)、了解してもたれ、把握してもたれるのです。(さらに一つの、保留して持つ、というあり方(エポケー)があります)持つという行為は、一つの優れた、現存在の行為であり、サルトルも考察を試みています。私は、世界は今、把握して持たれる可能性に到達していて、しかも、世界はそれ以外では、持てないといいたいのです。”現実”の写像としての世界は、把握してもたれる必要があり、それ以外では、これを正しく(現存在として、現存在私として)もちえません)(”持つ”というこの行為も、何者かが、何者かとして、何かを、何かとして持つ以外には、ありえないのでした) 

 存在への問いは、現存在に到達し、(現存在を発見し)、現存在のあり方を開示するのです。”人”が日常何気なく使用している、理解、受容、了解、把握、といった言葉を新たに、(浮き立たせて)、開示します。
 この事情は、実は、現存在が、つまり人が、すでにそのようなものに気づき(無意識的に、つまり意識できないで)、そのようなあり方をすでにしているという事情に他ならないのですが。(ハイデガーが、”人”というとき、それは現存在である事情にいまだ、十分気づいていない人をさしているのです)

 存在への問いは、ヴィトゲンシュタインが、”哲学の唯一の使命は言葉の浄化にある”、という事情と深く関係するのでしょう。言葉の浄化は、我々を、現存在のあり方を明らかにして、新たな世界と、現存在の新たな存在可能性を開示するといってよいでしょう。

世界と現実とは異なる、1-05

2006年02月13日 | Weblog
 世界把握 04
 世界についての言及をもう少し、必要かと思うのですが、”現実”という言葉が、我々の日常で使われ、(その使われ方は、必ずしも、間違いとはいえないのですが、派生的な意味で使われ、そのために、かえって理解を妨げています)流通しているので、ここで私のいう”現実”について説明します。

 私のいう”現実”は、世界とは何であるか、といった問いを立てるときに、それに対比するものとしての、”現実”です。我々、現存在は、現実を世界化して、捉えています、常にです。現実を語ることは出来ません。だからいわば、現実というこの言葉は、窓枠のようなものです。
 本当の現実は、その窓の外であるのですが、それについては語りえず、(語れば、その瞬間、現実は世界化する)我々は、私は、その窓枠を”現実”という言葉でさして、その外を指し示そうとするのです。(現実そのものは指し示すことさえ出来ない、とするのがよいでしょう)

 では、そういった、”現実”があるのか、というと、それは時に我々の前に、一瞬姿を現します。”一瞬、何が起こったかわからなかった”、という時がそれです。ビルの20階でいつのものように仕事に取り掛かろうとしているとき、突然、そこに鯨と海水がなだれ込んできます、大音響とともに、窓を突き破って。
 もちろん、あなたは、その瞬間、何が起こったか解らなくなります、自分がどこにいて、何をしていたのか、判らなくなります、自身が何であるか、(人間かどうか)、”ここ”がどこか、”判らない”でしょう。”現実”が顔を出した瞬間です。(この瞬間、”世界了解”はありません)

 一瞬の後に、理由はわからないがそれが生き物であり、鯨みたいであり、同時になぜか海水が入ってきた、状況に気がつきます。あなたは、”我にかえる”のです。判ってみれば、それは鯨を輸送中の、輸送機が間違ってビルに接触し、貨物室の、鯨と海水がなだれ込んだという状況であり、翌日の新聞には、珍しい”事故”、として報道されるでしょう。(事故は世界化しました)

(この世界了解が崩れるときは、きわめてまれで、しかも、ごく短い時間です)
(ただ、現存在の死は、(私はこの事柄についてあまり、語りたくないのですが)いわば、その”現実”へ行くこと、放り込まれることであるとも考えられます。現実が語りえないものであり、語らないほうよいものであると同様、それについても語りえず、語らないほうがよいのではないでしょうか)

(我々は、世界把握へと向かおうとしています、世界が崩壊するとき、そのときについて語るときではないでしょう。ただ、現存在の死が、必ずあるものであり、また現存在は、誕生以前は、(生成以前は)、そこにいたのだとも考えうるでしょう)(最近はやりの壁だんぎは、死も壁といっているようです。それが壁であるかどうか、議論のあるところです。いずれにしても、それを何らかの形で捉えうる、おそらく唯一の可能性が、この”現実”だと思うのですが。これは”現実論”にもなりえません、それについて語ることは出来ないのです、不正なのです、語られるすべては(捉えられるすべては)世界化するからです)

(現存在、人は物事を強調して語る癖、(悪い癖)があります。普段使われる現実という言葉は、むしろ、実態とか、現状とか、状況とかです。現実、という強い言葉の前で人は沈黙します、(”現実”については語りえないのですから)”人”は自身の話しを聞いてもらいたいからでしょうか、聞き手を沈黙させたがるのです)(この強調して語る悪弊は、悪貨が良貨を駆逐するように広まるのです)(それが実態であるなら、その実態はよく、十分に分析され、それへの対処法が模索されうるでしょう)

(”状況”とはサルトルの言葉です、彼はこの(自身を取り巻く)世界の現況を、状況と呼びました。今、”現実”を導入して、新たな”状況”把握へと我々は向かおうとするのです)(サルトルは、その状況からの、出発を”語った”のです)

世界と現実とは異なる、1-04

2006年02月13日 | Weblog
 世界把握 03
  世界は多重重層的である、といいました。今、仮に立てられた、”この仲間”は、流動的です、いつでも侵入でき、いつでも抜けられます、半身に構えての参加といったような形態もありえます。許容します、それはこの仲間が、情けなく、何の意味も持ちえないからではなく、かえって、この仲間をなんとか維持し、そして、何らかの意味を獲得する、正確にはおそらく意味の獲得可能な地平の可能性を開示するためなのです。その地点まで、何とかたどり着こうとするためなのです。

 世界に到達しようという仲間が、それほど自由で、流動的であるとするなら、そこで到達しようとしている世界もまた、流動的にならざるをえないのではないでしょうか。現に、世界は流動的であるといいえます。その”流動性”が、かなり高いとしたら、そもそもそのような流動的世界の、”把握”が、可能なのか、という疑問、問題さえ浮上するでしょう。

 ハイデガーは、”世界了解”といいます。(これは日本語訳ですが、よくもとのニュアンスを伝えているものと推測されます。なぜなら、まさしく彼は世界了解にいたのであり、世界把握には到達しませんでした)
 我々は、そのつど、すでに、いつも、ある世界了解の中にいる、(ハイデガー)、のですが、いまや、世界把握が可能であり、また必用なのです。”了解”、と、”把握”との相違、関係について説明は省略しますが、いまや受身的世界了解ではなく、責任を背負いうる世界把握が、可能であり、必要なのです。
 (世界把握が十分に出来て、始めて、意味の説明、開示ができるのです。)


(”意味”は、我々の、現存在の行動行為に伴ってあります。我々はさまざまに、行動行為しますが、その、それぞれの行動行為は、意味によって色付けられて、”見える”ようになる、とでも言えばよいでしょうか。
 一般に”人”の行動は、すでにその意味が社会(世界)によって色づけられている事情があり、その流通する意味を人は日常”意味”であると、(なんとなく)”了解”しています。)

(まとまった、記述を目指しているのですが、どうしてもこういうカッコつきの記述になります、(やむをえません)(しかも、この論述は、相手の”理解”を求めていません)たとえば、”世界把握”といった言葉においても、その”把握”は、その者自身によって把握してもらうしかないでしょう。誰かから、把握させられる状況はありえないのです。もしそういった状況があれば、それは、マジックか、何らかの勘違いであり、また、把握させられた者の、意識の低さ、といった原因があるでしょう)

(”意識”について説明も必要ですが)

探照的考察、01

2006年02月12日 | Weblog
 私のこの欄は、以前書いたものがその序論的な、事情にあります。前にも書きましたが、意味は生ものであり、変遷し、変質します。我々が、私が、生活し、生きている世界は、そのような、”なま”の世界であるがゆえに、意味の成立可能性、を持っているのであるといえます。

 それで、私の世界存在論(仮称)は始めましたが、どこまでいけるか、まったく判りません。そして、その扱う範囲は膨大です。もちろん、すべて、あるいは満足できる範囲のカバーは、出来ないでしょう。
 そこで、雑論的な、言及もその役割を持つと思われます。そこでそういったものを、”探照的考察”として、同時に書きます。

 探照的考察、とはこの道行きの、過程での周囲の風景であり、その考察です。ヴィトゲンシュタインの、哲学的考察、はその言及する範囲の広さに驚かされますが、これは彼のまじめさの、誠実さの現れです。世界とか、意味とか、そういった事柄について、”かたる”とすれば、ある分野の事情を、またはある分野のある事情を語らずにおく放置は、よくありません。

 また、こういった、系統だっていない雑談的な、思考、言及は、これからの私の世界存在論の、導きとも(それは私にとってもですが)、なります。(つまり、ある種の序論となります。この世界は多重重層的であるがゆえに、その説明も、多重重層的になるのかもしれません)(序論的解説を必要とし、またそれらはその時々の周囲の風景を写して受け取る者の、何らかの参考になるとも思われます)