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58鎌足の二子。藤原不比等の出自

2017-04-07 10:20:59 | 58藤原不比等の出自

藤原鎌足の二子、藤原不比等とは何者か?

不比等(ふひと)は、天武天皇(40代天皇)の嬪(ひん)であった異母妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(まろ)(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね? 万葉集には天武帝と藤原夫人のやり取りした歌が載せられていました。

 天武天皇(四十代天皇)から藤原(ふじはらの)夫人(ぶにん)へ賜う御歌

巻二103 吾里に 大雪ふれり 大原のふりにし さとにふらまくは後(のち)

藤原夫人(五百重娘(いおえのいらつめ))のこたえ奉る歌

巻二104 吾岡の おかみに言いてふらしめし 雪のくだけし そこにちりけむ 

 二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

(大原は飛鳥寺の東、飛鳥坐神社の東、大原神社があるあたりで、現在は小原という地名です。鎌足はこの大原で生まれたということです)

天武帝の死後、異母妹・藤原夫人に不比等は近づいたのでした。それは、許されたのですね。何の咎めも受けていませんし、麿は藤原四兄弟の末っ子として京家の祖になっています。本来なら、藤原夫人が麿を生んだことは、秘話として処理されたでしょうに。麿は末子に認められていますから、少しも隠されていないようですね。

天武天皇の後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかったのでしょうか。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。それでも、不比等は図々しすぎませんか。父・藤原鎌足の鏡王女や安見兒(やすみこ)に対する態度とは全く違いますね。不比等が父とは違った態度を取ったのには、何か理由があるのでしょうね。

 

不比等の漢詩として「懐風藻」には五言詩五首が残されていますが、万葉集には歌は有りません。漢風詩を詠むことが文化人としてのステイタスだったのでしょう。万葉集には不比等の没後、その邸宅の庭で山部赤人が詠んだ歌があります。

 

山部宿祢赤人が故太政大臣藤原家の山池を詠む歌一首

 

378 昔者(いにしへ)の古き堤は年深み 池の渚に 水草(みくさ)おいにけり

貴人が長く住まわれたお屋敷の山池はいよいよ年を経て深みを増し、風情のある池の岸近くに水草が生い茂り、貴人を偲ばせる庭になったものだ。

不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十四歳とか? 十四歳なら戦に巻き込まれても仕方ない年齢ですが、守られていたのか無傷だったようです。叔父の中臣金(藤原金)は壬申の乱後に斬られていますから、参戦していれば無事にはすみません。誰が守ったのでしょう? その母でしょうか

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母創作説もあり)とされています。

興福寺(こうふくじ)は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

前のブログ(56)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡姫王の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。鎌足の室ですから、もちろん後宮の女性ではありません。天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性でした。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?

また明日


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