徒然なるままに

日々思うことなどを徒然なるままに書き綴る

鎌倉時代はなぜ仏教が栄えたのか

2009-07-02 00:09:13 | Weblog
 鎌倉時代は仏教が隆盛の時代でした。
 平安時代までの仏教といえばとても難解で、大衆へ布教することは禁じられていました。平安時代までの仏教は鎮護国家の思想(仏法によって国家を鎮定し守護しようとする考え)に基づいた, 貴族など身分の高い人たちのための仏教でした。これに対して, 旧仏教は世俗化し堕落しているとして批判したのが新仏教の開祖たちでした。彼らは, 仏教本来の教えを実践し武士や民衆の期待に応えようとしたのです。新仏教を開いた開祖たちは一遍を除いて比叡山(ひえいざん)に学んでおり、「比叡山は一切衆生の救済」を説いたのです。鎌倉新仏教を生んだ母胎は比叡山にあったのです。
 新仏教は, 大衆の救済と 国家からの自立に大きな特徴がありました。仏教が一般大衆に広まったのは長い戦乱の時代により厭世観(えんせいかん)=末法思想(まっぽうしそう)が強まり、魂の救済が求められるようになったためではないかと思います。
ともかくもこうして新仏教の宗派が興隆したのです

鎌倉新仏教
浄土宗(法然)
浄土真宗(親鸞)
時宗(一遍)
禅宗
臨済宗(栄西)
曹洞宗(道元)
法華経
日蓮宗(日蓮)

実は1983年の東大の入試問題に次のような問題(出題の形式は違います)が出ています。

「なぜ, 平安末・鎌倉という時代にのみ, すぐれた宗教家が輩出したのか。ほかの時代ではなく, どうしてこの時代にこのような現象がおこったのか, 説明せよ」。

ところで, こうした疑問は当然に起きるはずなのですが, 中学受験の参考書をいろいろ調べてみても見事にここはカットされています。新興宗教の宗派や開祖のほうが大切だと思われているのです。しかし, これはおかしい。子どもたちに説くべきはテーマのような命題ではなかろうか。私の素朴な疑問について, 東大の過去問が見事なまでにその疑問の正当なことを証明してくれていました。
 

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江戸時代に農業が飛躍的に発達したのはなぜ?

2009-06-30 09:43:29 | Weblog
 本論に入る前に, 少し勉強の方法について話しておきたい。今日のテーマも前回のテーマも実は武蔵中の21年の社会に出されたものだ。私は拾い上げるテーマは過去問からしかとらない。過去問で出されるというのはそれだけ大事なことだということだし, なにしろ高偏差値校の問題は出題の視点がいい。
 ところで今日話したいのはそういうことではない。私は特に小学生(いや実は中学でも高校でも同じことがいえるのだが)に「…博士」になってほしいと思うのである。「歴史の農業の博士」「江戸時代の改革の博士」「鎌倉時代の仏教の博士」「選挙制度の博士」「三大工業地帯の博士」等々。
 勉強というのは, まず「ひとつ」を極めることである。ひとつをきわめて, また次のひとつをきわめてゆく。これが実は資格試験や入学試験に勝つ究極の勉強法なのである。「…のことなら何を聞かれてもわかる」というくらいにひとつのことを極めてほしい。
 さて, 今日は「江戸時代の農業」の博士になってください。

 江戸時代の農業ではまず「農具の発達」というのが大きい。
 「備中(びっちゅう)ぐわ」は田起こしをするのに使います。田を耕すのは深く掘りこんで土を柔らかくするためです。こうすることによって稲の根が深くまではり丈夫な稲が育つからです。備中というのは岡山県のことです。備中ぐわの図は教科書などに載ってますから見ておいてください。
 「こきばし」は, 乾燥させた稲穂を2本の竹でつくった箸(はし)にはさんで引っ張りもみを取り込むものです。こきばしによる脱穀は大変力も入り能率もよくありません。その後, 「千歯(せんば)こき」が作られます。竹製と鉄製があり, 竹製は麦の脱穀に, 鉄製は稲の脱穀に使われました。千歯というのは, 千本の歯つまりは「たくさんの」歯という意味です。能率ははしこきの3倍といわれています。千歯こきは後家倒しとも言います。こきはしを使う仕事は主に女の人の仕事でしたから, 千歯こきが登場してそうした女の人の仕事がなくなり奪われてしまったからです。後家というのは夫に先立たれた女の人のことです。こういう人は生活するために農作業の手伝いなんかをしていたわけです。
 「からさお」は, 千歯こきで脱穀しきれなかった落ち穂などをたたいて脱穀する道具です。棒や竹とかで作ったもので中ほどが折れるようになっており, くるくる回ります。いつか図を見ておいてください。もみにくっついた「のぎ」(針状のもの)をとるためには「つち」を使いました。のぎとは, 禾編の禾(のぎ)です。これをつちでたたいてたたき落とします。
 「箕(み)」は脱穀をした後に混ざっているシイナ(実のない空穂),ホコリ,チリなどを選別する道具です。竹やふじのツルでできた大きめのざるのことです。これにもみを入れて揺すってほこりなどを飛ばすわけです。
 もみは「もみすり」をすると「もみがら」と「玄米」が出る。このもみがらと玄米を選別するのにも箕は便利です。この箕を発展させた機械が唐箕(とうみ)です。中国からきた(中国ものは唐物とよばれます。別に唐時代とは関係なく。)箕つまり唐箕といいます。詳しい図を教科書で見ておきましょう。
 「もみすり」は, もみを臼でひいて玄米にする用具のことです。臼でひいてもみがらを取り去り玄米にします。
 「千石どおし」は, 「ふるい」のことです。千石もの玄米をあっというまに通すことができるので千石どおしといいます。図は例によって教科書を見てください。
玄米の中に混じっているくず米とか砕けた米はここで選別されます。また, もみをつきうすや水車などを使って精白したぬかの混ざった米を米ぬかと精白米に選別するときにもう一度使います。ぬかは網目から下に落ちていきます。

 道具ひとつとっても米ができるまでにはいろいろな道具が使われたわけです。米の字は八と十と八からできています。つまり88の手間がかかるという意味です。
 
 さて江戸時代の農業を進歩させたものに「肥料」の発達があります。そのうちお金で買う肥料のことを「金肥(きんぴ)」といいました。「干鰯(ほしか)」と「油粕(あぶらかす)」です。前者は干した鰯(いわし)の粉です。江戸の頃は鰯が大量にとれたのです。油粕は菜種油の絞り粕のことです。

 さあ, これで武蔵中の記述問題にも答えを書くことができますね。
 理科や社会の勉強は「…博士」になることです。さあ, みなさんも博士を目指して「ストーリ」を学びましょう。
 
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弥生時代はなぜ農業がさかんになったのか

2009-06-28 20:04:55 | Weblog
 静岡の登呂遺跡は2世紀ごろのものでした。遺跡からは水田の跡が発見されたのです。木製のクワ, スキ, 田下駄(たげた), 田舟(たぶね)なども出てきました。田下駄や田舟は腰のあたりまでの泥の湿田で使う道具です。稲の収穫には石ぼうちょうが使われました。石ぼうちょうは稲の穂首だけを刈り取るために使います。なぜ穂首だけ刈るのかというと, 稲穂のうち実ったものだけを刈り取るためです。稲を根から刈り取る根刈りも鉄の鎌(かま)ができると普及しました。根刈りは十分に実ってからいっせいに刈り取るわけですから, 効率がいい。収穫された米は壺に保管されました。さらに収穫量が増えるとモミを保管する高床式(たかゆかしき)倉庫が作られました。なぜ床を高くしたのか。稲が湿気をおびて腐ってしまうことを防ぐためです。この倉庫にはネズミの侵入を防ぐためにネズミ返しといわれる工夫がしかけられていました。
 ところで石ぼうちょうの写真を見たことがありますか。小さな穴が2つあいていますね。これは穴にひもを通して手首にかけて使っていたためです。
 稲作が大陸から伝わったのは紀元前4〜3世紀ごろです。稲作の普及はそれまでの生活を大きく変えました。なにしろ縄文時代は狩りをしたり漁をしたりと採集中心の生活でしたから, 移住生活といってよかった。それが定住生活へと変わっていったのです。稲作をするということはたんぼから離れられないからです。
 定住が進むと人口も増え集落ができむらが発生してきます。定住の場所も水のある低地が好まれました。稲作農業が進むと身分の差が生まれます。なぜって, 力のある人は広いたんぼを所有し米もたくさん収穫しますからね。水をめぐって争いだっておきます。強いむらと弱いむらも生まれてきます。むらは集落の周りに濠をめぐらします。これが環濠集落です。吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は環濠集落の跡でした。むらとむらが戦争をするということが起きるようになります。水争いと土地争いから戦争が繰り返され村はしだいに統合されていったのです。
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鎌倉幕府の話

2009-06-26 10:25:33 | Weblog
源頼朝が征夷大将軍となったのは、1192年のことです。鎌倉に幕府を開いたのです。征夷大将軍とは、ここでは武士の総大将というくらいの意味です。なぜ鎌倉の地を選んだのか。それは、軍事上、防衛するのに非常に都合がよかったからです。3方が急な山に囲まれて、南は海に面しているという地形です。敵が非常に攻めにくいということです。鎌倉は、「源氏ゆかりの地」でもあります。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、源氏の守神(氏神)です。源頼義が前九年の役のとき、京都の石清水八幡宮(いわしみず)の霊を鎌倉にもってきて鶴岡八幡宮とし、源氏の守護神にしたといわれています。頼朝は、武士の貴族化を恐れて、京都から離れるために、鎌倉を本拠にしたともいわれています。京都には皇居がありますし、貴族たちがたくさんいたわけで、華やかな生活をしていたわけです。つまり、平清盛が完全な武家政治ができなくて失敗したことに学んだわけです。鎌倉は、交通が便利でした。

鎌倉幕府のしくみ
将軍のつぎに執権(しっけん)がいた。執権には北条氏(ほうじょうし)がなった。執権とは、将軍に代わって政治を行う役職をいいます。中央には、侍所(さむらいどころ)、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)を置いた。侍所の長官は別当(べっとう)といった。侍所は警察みたいなものです。政所は政治を行うところです。この長官も別当です。問注所の長官は執事といいます。
 地方には、守護(しゅご)と地頭(じとう)が置かれました。1185年のことです。重要な年代です。これを置くきっかけは、頼朝が弟の義経を捕まえるためでした。平氏を破った義経が凱旋(がいせん)して鎌倉に入ろうとしたとき、鎌倉の直前の腰越(こしごえ)というところで足止めされました。義経のあまりにもの人気に頼朝は恐れを感じたといわれています。後白河法皇(ごしらかわほうおう)の策略もありました。義経が腰越から頼朝に出した手紙は「腰越え状」として有名です。義経は鎌倉を引き返しました。すると頼朝はすかさず義経逮捕のためにと守護・地頭の設置をしたのです。これで鎌倉幕府の権力を全国に及ぼすことができると考えたのでしょう。
 守護の仕事は、国ごとの御家人を大番役へ催促する仕事(たとえば京都の御所を警護する京都大番役は6ヶ月間御家人が出ました)、謀反人(むほんにん)の取りしまり、殺害人の逮捕があります。この3つの仕事を「大犯(だいぼん)三カ条」といいます。
 地頭は貴族や寺社の私有地である荘園(しょうえん)や、国司(こくし)の支配する公領に置かれました。地頭の仕事は、荘園の中で土地を管理する仕事、荘園や公領の中にいる地主つまり名主(みょうしゅ)から年貢(ねんぐ)を徴収(ちょうしゅう)する仕事、荘園内の治安維持などです。
 義経は石川県小松市にあった安宅の関(あたかのせき)まで逃げています。その後、奥州の藤原秀衡(ひでひら)のもとに逃げます。が、その子の泰衡(やすひら)に殺されます。頼朝は今度は泰衡を殺し、1189年についに東北地方の陸奥(むつ)と出羽(でわ)国を支配下に置きました。
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尤道理之介「ストーリ論」

2009-06-14 23:42:33 | Weblog
 本日の天声人語。滝沢馬琴の「燕石雑志」に尤道理之介(もっともどうりのすけ)の話が出てくるらしい。それによると戦場で名乗りを上げると敵も味方も大笑いしたとある。
 さて, 私は尤道理之介の名前が気に入り, これからは尤道理之介の名でストーリ論を展開していこうかなと考えた。
 ストーリ論とは, 平板な知識に意味を付与しつまりストーリを与えて, 立体的知識へと転化する手続きといえばいいだろうか。
 ところで, 祝日には元日のように日付が決まっているものや成人の日のように何月の何番目の月曜日のように定められたものがあることはご存知であろうか。
 さらにところがである。春分の日と秋分の日だけはそのどちらでもないのである。前年の2月に国立天文台が確定し発表することになっている。
 年にって日付が違うわけである。
 なぜなのだろうか。
 それは地球が太陽の周りを365日ちょうどではなく, 約6時間多めで1周するからである。うるう年はそのための調整の日である。そうすると春分の日と秋分の日も動くことになる。それを天文台が確定する。しかし, それでも予測がずれる。なぜかというと金星の引力のため地球の公転速度が変わったり, 地球の自転速度が変わったりするためだ。それで1年ずつ決めていくしかないのだ。
 今年の秋分の日は9月23日と発表された。21日の敬老の日と23日の秋分の日に挟まれた22日が国民の祝日になった。20日の日曜日がと合わされてなんと4連休だ。祝日と祝日に挟まれた日は休日と法律で決まっている。
 国立天文台の30年までの秋分の日の予測によると秋の4連休は2015年の予定だ。
 
 さて尤道理之介は最もな道理かなと嘆息するばかりである。
 
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慶應理科社会の攻略法についての一試論

2007-06-26 22:58:21 | Weblog
 中学入試一般の理科社会対策は持ち合わせていない。様々なレベルの様々な視点から出題される理科社会に対して一般的対策はナンセンスである。大手はこれを可能とすべく実に小4から網羅されたテキストを用意して膨大な量の暗記と試験を繰り返すのである。大半の児童はこれで潰れる。算数と国語に時間をいくら費やしても足りないという状況の中で理科社会はどうしても後手後手になる。
 私はかつて慶應志望の大手に通う小学生を受験直前に指導したことがある。大手で3年間理科社会の知識を詰め込んできたはずが,慶應の過去問で2〜3割そこそこの点数しかとれないという現実を目の当たりにして私は為す術を持たなかった。試験まで残された僅か2ヶ月ほどで何ができるのか。なぜこうなるまで大手にしがみついてきたのか,悔やまれる。多くの大手では, だいたい小6の夏が終わるまでに大版のテキストを終らせ,秋も深まるころから志望校の過去問を解き始める。遅すぎる。しかも,過去問は個人まかせだ。出来の悪い市販の過去問集の解説を読みながら解いていくことになる。最悪の流れだ。
 さて, 竹の会が大手にまさる中学入試理科社会の一般的対策を持ち合わせているわけではない。ただ, 竹の会には他に真似のできない過去問研究のノウハウがある。これは大手とてまず敵ではない。竹の会は過去問を使っての一般型ではなく特化した指導を得意とする。大手と違い網羅性は全否定だ。大判なテキストも否だ。過去問さえあれば分析しきる自信がある。特化した一つ一つの知識を意味あるものとして薄い大学ノート1冊分のメモでいい。受験生は1つの知識を一心に意味づけすることに集中すべきだ。決して細かい網羅された知識に惑わされてはいけない。知識のひとまとまりを貫くコンセプトをこそ看取することだ。知識はそのコンセプトの流れの中でおさえる。これが意味づけるということだ。具体的には私の指導を通して知ることになろうが, 去年に実施した慶應湘南藤澤の理科・社会の問題分析のために作成したメモはなかななか出来映えであったと思う。ただコンセプトの分析という視点から解説を施すべきであった。今年は,こうした視点ふんだんにふまえての最高のレジュメ作成に挑戦することになろう。
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あせらず一歩一歩を確実に

2007-06-12 00:59:51 | Weblog
その子は小6の夏だけということで竹の会にきました。背の高いやせた男児でした。通分ができませんでした。私は最小公倍数の計算を延々とやらせました。その子は嫌がらず黙って黙々とやりました。次の日もやってきて黙々とやりました。先の太い鉛筆でひたすら計算しました。3時間でも黙っていれ私がいいというまでやりました。ようやく通分に入りました。また黙々とやりました。それから分数の掛け算を練習しました。何十ページも終わって私がふと見ると掛け算はいつの間にか通分になっていました。通分と掛け算が混乱してメチャクチャになってしまいました。私はまた最初から通分をやることにしました。こうして通分とともに夏休みはあっいう間に終わりました。それから年が明けて2月その子が戻ってきました。私は通分からまた始めました。中学生になっても通分の練習は続きました。中1の6月になったころ私は正負の数を教えることにしました。今度はノートが真っ黒になるまで彼は正負の数の簡単な計算に明け暮れました。私はなるべく難しいものは避けました。彼の許容限界を越すとパニックを起こし先祖がえりというか振り出しに戻るのがいつものことでしたから。正負の数で何冊ものノートが真っ黒になりました。まるでカーボン職人のようでした。夏になると難関の文字式を教えました。またまたカーボンの製作が始まりました。このころから私はようやく英単語の暗記をやらせるようにしました。20語を覚えたらテストの繰り返しです。その子は落ちても落ちてもテストを受けました。家で覚えてきては受けました。1回10問を10回受けると100問テスト, 11回から20回まで合格すると200問テスト,21回から30回まで合格すると300問テスト,31回から43回まで受けると500問テスト,これで中2までの教科書は終わりです。彼は結局中2が終わるころにすべてを覚えてしまいました。私は英語指導案を使うことにしました。数学は方程式,関数と単元ごとにノートを何冊も真っ黒にしてしまいました。ほとんどしゃべらずに黙々とやりつづけました。私は難しい問題を避けながら自信つけさせるように問題を慎重に選びました。こうして彼は中3になりました。5月には英検3級,6月には漢検3級にも合格しました。中1のときにはオール1だった通知表が中3の1学期にはすべて4以上になっていました。夏が来る前に彼は竹の会を止めて大手進学塾に行きました。彼は通分もできないのに中学受験を志し日能研に通っていたのです。もちろんすべて落ちて竹の会にやってきたのです。その彼も中3になり大手でやりたいと強く思ったらしいのです。私が難しい問題を避けていたことは彼は知らなかったと思います。私はいつも彼に宿る限界から彼をかばってきました。彼の心をパニックから守ってきたと思います。彼はとにかく彼なりに自信をつけたのでしょう。小6のときのリベンジを果たそうと思ったのかもしれません。その後彼がどうなったのか知りません。いつか風のたよりに志望校には入れなかったという噂を耳にしましたが本当のところは何もわかりません。ただ私がほとんど絶望的と思われた子が想像を絶する努力を重ね,能力の限界と闘いながら,あそこまできたのだという私には信じがたい思い出となって今も深く心に残っています。
 焦らずに一つ一つを確実にこなしていくこと,たとえ他人が先を行こうとも自分の道をひたすらに歩むんだ子でした。
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悟り

2007-05-26 21:53:16 | Weblog
うろ覚えの話しで申し訳ないのですが, 昔聞いた話しです。剣にまつわる話しです。昔ひとりのきこりが山で木を切っていました。斧で木の根元をカツンカツンとやるわけです。そこえサトリという生き物が現れてきて,きこりに話しかけます。サトリは人の心が読みとれるのです。そこでサトリは「おまえは今斧でオレを殺そうと思っただろう」ときこりの考えていることを次から次にいいあててしまいます。これにはきこりもあきらめて,サトリを無視して黙々と斧を振って木を切っていました。そのとき突然斧の刃が柄から抜けて飛びサトリの胸に突き刺さったのです。サトリは息引き取りました。うろ覚えの記憶で申し訳ないのですが,この話しは剣の境地とされる「悟り」とはいかなる境地なのかということを説明するときに北辰一刀流の千葉定吉(千葉周作の弟でやはり剣の達人で江戸に兄とは別に道場をかまえ多くの門弟をかかえていた)が話したものではなかったかと思うのですが定かではありません。さて悟りの話しに戻りますが,これはつまるところ無心の境地ということでしょうか。心の中であれこれと考えをめぐらすという域からただ無心に何も心に考えないで一つのことに没頭するということでしょうか。何かに没頭し無心になったときに奇跡が起きた。思ってもいない結果が起きてしまった。といってもきこりは一度はサトリを殺そうと考えたのだから,所期の結果を出したともいえるのだが。何も考えずただ無心に実験し続けていたら思わぬ奇跡が起きた。ノーベル賞の田中耕一さんなんかもこの無心の境地から結果を出したともいえるのかも。
 子ども達が「勉強は嫌だ。遊びたい。」と思う限りは,結果は出ない。子どもたちが,何も考えずに無心に指導にしたがうという心をもし持ち続けられたら,無心に算数に悩み続けるとしたら,思わぬ結果が出るかもしれない。竹の会の奇跡的合格者たちは無心だった。そして指導する私も無欲・無心だった。ただ黙々と指導し,ただ黙々と指導にしたがった。指導する者も指導される者も, 無心に時を過ごした。お互いにやるだけのことはやった。そういう気持ちだけが残った。
 子どもたちよ。君たちは何も思わず無心に今ある問題に専念し没頭すればいいのだ。
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かえすがえすも残念

2007-03-02 09:17:33 | Weblog
多くの母親を中心とするみなさんから, 竹の会の指導に対して,深い心のこもった感謝の手紙をいただくことが多い。内容には「もっと早く竹の会に出合っていれば」というものが圧倒的に多い。私も入試という目的にかないたいのであれば, もっと早くに竹の会に来てほしかったということがよくある。かつて青山学院高等部に合格したある男子は, 中2
の秋に竹の会に入会してその指導を受けた後 ,「僕はいろいろな有名塾を経験してきましたから, よくわかります。竹の会が一番いいです。」とさわやかに口にしたものであった。かつてある中3の男子は「みんなバカだ。近くにこんなにいい塾があるのに, …。でもぼくはだれにも竹の会のことを教えたくない。みんなに来られたら困る。」とまじめな顔をして言っていました。大手に中3の1学期くらいまでいって, どうしょうもなくなって竹の会に疑心暗鬼でやってきたという子は何人もいました。塾を信じられず疑心暗鬼になっており, 入会時に「まず体験させてもらえないか」と決まって言います。大手で屈折してきており, 自分流の勉強から中々抜け出せません。英語がガタガタというのがまた共通の特色です。英語というのは, 感覚的に身につけさせるためにそれなりの訓練期間を要するのです。直前にこれなしに英語力をつけさせるのは実は不可能です。苦言を呈すれば,最初の塾の選択が誤りだったのです。かつて竹の会に見学にきたある母親は「竹の会は自分で勉強にとりくめない子はだめだという評判がある」といって結局入会しませんでした。この母親にはひとつ誤解がありました。竹の会は自分で勉強に取り組めるように育成しているのだということを。しかもよく考えてほしいものです。自分で主体的に勉強に取り組めない子はどこにいってもだめなはずです。それとも懇切丁寧に何から何まで分かりやすく教えてくれる塾がいい塾だなどと思っているのでしょうか。これはよくいい家庭教師とはわかりやすく何でも教えてくれる家庭教師だというのと同じです。もしそういう基準で選んでいるのであれば, 私は何もいうことはありません。何もかも教えてくれるというのは, 前提として当人は何も考えないで説明を聞くだけということです。そういう子が厳しい受験に成功するとはとても思えません。自分で考えることができるようになった子が竹の会にはたくさんいます。竹の会には自分で取り組めない子はだめだというのは, 竹の会が日々指導に尽力して自分で考えることのできる子を結果として多数派にしているという事実を曲解したものです。私は, 竹の会でだめな子はどこにいってもだめだと思っています。過去多くのそうした母親たちの選択の誤りが入試不合格という形で後日私の耳に届いてきました。なにもそういう母親に私はそれは違いますなど弁明する気はありません。結果がその母親に教えることですから。竹の会の真実を知ったものは幸運である。できるなら早くに竹の会の門をたたいてほしい。手遅れになってから, 竹の会に駆け込む愚は避けて欲しい。
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大手病

2007-02-15 14:13:48 | Weblog
大手でだめだった。こういってきた子をどれだけみてきたか。きまって小6になってから2,3ヶ月だった。竹の会は小塾だ。だからこんなケースばかりだ。あるいは最初から大手を敬遠した人たち、あるいは運動に時間を費やしてぎりぎりになって受験したいといいだしたとか、そんなケースばかりだった。竹の会はいつもそういうハンディーつきで受験指導をしてきた。そういう中でそういう悪条件の中で合格を結果を出してきた。いつしかどんな悪状況でもあまり驚かないようになった。小6になって「通分ができない」とかいわれても別段驚かない。いつもそういう子ばかりを引き受けてきた。他からみればたいしたことはないと思われるところも、実は奇跡的な結果だった。それは他からはわからない。私はいつも最悪の状況から出発して他からみればたいしたことはないと思われるところに合格させてきた。その子にとっては実は奇跡的合格なのだが他からはわからない。算数がまるでわからない、割合がまるでわからない、そんな子を受からせてきた。私はそういう子たちを指導してそれなりの水準にもっていった。最近よく受ける電話の内容は決まって同じだ。「大手に行ってます。算数ができなくて」。大手に行く大半の子の共通の悩みだ。母親たちの信じて疑わない大手では不可避の現象だ。こういう人たちはすでに大手にとっては「その他」大勢のお客様だ。入試に失敗することは当然かなりの確率で予想できている。それでもがんぱればなんとかなるというのが大手の方針だ。母親たちはだんだん超主観的世界にはまりこんでゆく。まわりの景色はなにもみえない。超主観的世界の中でまだ「教えてもらえば」なんとかなる、と思っている牧歌的に夢に託す。子供の中ではすでに考えることのできない欠陥脳が完成しつつある。
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