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忘れられない看護エピソード

2013年05月28日 09時59分36秒 | コラム・ルポ

SEIKYO online (聖教新聞社):今日のトピックス[5月17日]

〈健康〉「忘れられない看護エピソード」から(6面)

 5月12日は、「看護の日」。近代看護を築いたナイチンゲールの誕生日にちなみ、制定されています。毎年この日を含む日曜日から土曜日までは「看護週間」です(今年は12~18日)。

 公益社団法人 日本看護協会(東京都渋谷区)は、この時に合わせ、看護の場面で出会った忘れられない思い出やエピソードを募集した、第3回「忘れられない看護エピソード」の表彰式を開催しました。ここでは、最優秀賞(看護職部門、一般部門)、内館牧子賞(同)を受賞した4作品を紹介します。

 

「第3回忘れられない看護エピソード」受賞作品 - アラカルト - アピタル(医療・健康)

<看護職部門>

【最優秀賞】

白いカーテン

小野寺真理(岩手県)


 24年前の話だが、小児科病棟のナースステーションの窓に掛けられている白いカーテン、その隙間に新人看護師の私は一喜一憂していた。左側が少し閉められている時は、重症の患児がいる。廊下から心電図モニターが見えないように隠されるのだ。右側が少し閉められている時は、年長の先輩が夜勤をしている。カウンターの右端に腰かけ、ちょっと休憩するためだ。半分だけ閉められている日は、食いしん坊の先輩が夜勤をしている。死角を作りカップラーメンを作るからだ。しかも、ミルク用ポットのお湯を使っていた。「内緒だよ」と言って、ポットを押す先輩の手がむちむちしていた。

 あの日、日勤だった私は憂鬱な気持ちで出勤した。予感があたった。左側のカーテンが閉められていた。「えりちゃんだ」とつい口走り、モニターの前に駆け付けた。隣の個室から「キャー」と叫び声が聞こえ、同時に心電図の波形が1本の線になった。「えりー、えりー」とママの絶叫が響き続けた。

 その時、背後で「ザーッ」と強い音がした。振り向くと、師長がカーテンを一気に閉めていた。そして、「5分だけ、泣きましょう」とすでに泣きながら言った。身長180センチ以上もある大男の先生が、大きな手で顔を覆って肩を震わせていた。師長は、胸ポケットに綺麗に畳んでいたピンクのハンカチを取り出し、涙を拭いていた。ハンカチがない先輩たちは、ぽろぽろ流れる涙を自分の指で拭っていた。5分たったのか、もっと長かったような気もしたが、今度は静かに「サーッ」とカーテンが開けられた。

 途端に、いつものきびきびとした申し送りが始まった、何事もなかったように。まだうるうるしていた私の肩に、「これがプロというものなんだよ」とむちむちした先輩の手が置かれた。

 

【内館賞】

白衣を脱ぐ日に

八木房子(愛媛県)


 白衣に袖を通す。心の中で何かが静かにざわめいている。今日が看護師最後の日。

 見慣れた病室、ナースステーション、目に入る一つ一つが真新しく映る。明日から見ることのないこの光景。私は35年間、数え切れない患者に出会い、数え切れない死を見つめてきた。「看護」というものに少しでも近づくことができたのだろうか…。白衣を脱ぐその日になって、自分が歩いた看護の色がぼんやりと浮かぶ。皮肉なものだ。白衣に包まれていた時に見ようとしなかった色を思い浮かべるなんて。

 一歩一歩、廊下を歩く。ふと立ち止まった病室の前に、車いすの彼女がほほ笑んでいる。彼女は末期がんの若い患者だった。激痛と吐き気が彼女を容赦なく襲っていた。私にできることは、指示された鎮痛剤を投与することだった。ある日のこと、口数の少ない彼女が、
「看護師さん、私、座りたい」。

 氷のような目で私に訴えた。心が震えた。どうしても彼女を車いすに乗せたい、という気持ちが揺るぎないものになった。必死の説得で医師から許可をもらった。なぜ、私はこんな思いになったのか。それは、看護師として何もできないつらさと、もしかして、がんになるのは彼女ではなく私だったのかもしれない、という人生の宿命を感じたからだ。

 彼女を車いすに乗せた。力のない手を顔まで上げ、ピースしてほほ笑んでくれた。彼女の目にかげろうのような光を見た。希望を失いかけた時でも、人は時としてほほ笑むことができるのだ。うれしかった。目が潤んだ。つらかった。悲しかった。彼女は2日後、静かに目を閉じた。

 私が白衣を脱ぐ日に、30年前に逝った彼女が、あの時のほほ笑みで見送ってくれた。

 彼女が私の中に残していったのは、死ではなく確かな看護だと私は信じたい。

 ああ、私、看護師だったんだ。

 

<一般部門>

【最優秀賞】

光が差した瞬間

楠由美(奈良県)


 「この子と一緒に死のうか…」。そんな思いが何度も頭をよぎるほど、当時の私は心身ともに疲れ果てていました。息子がアトピー性皮膚炎と診断されたのは生後6カ月の時。行き先も告げられず、急に暗いトンネルの中に放り込まれた気分でした。

 息子は全身のかゆみから、抱っこしても昼夜を問わず泣き叫び、引っかき傷が絶えず、身に着けるものやシーツは毎日血だらけ。寝る時は背中を何時間もさすり続け、やっと寝たと思えばかゆみでまたすぐに目を覚ます…そんな日々が3歳になるまで続きました。

 顔の湿疹が目立ったため、道を歩いていると「わあ、汚い」「それうつるの?」。そんな言葉を時々掛けられることもありました。周りに同じ疾患の子はいなかったため、悩みもなかなか分かってもらえず、迷い込んだこのトンネルには出口なんてない…。そう思っていました。

 そんな時、転居先で初めて訪れた病院で、看護師のNさんに出会いました。診察で医師と私のやり取りを見ていたNさんは、「お母さん、いっぱい病気や薬の勉強したのね。すごい」。笑顔でそう言い、「お母さんもK君も今まで頑張ってきたね」と誰も触りたがらなかった息子の手をぎゅっと握ってくださいました。

 私は急に力が抜けて、気が付くと涙がぽろぽろこぼれて止まらなくなっていました。不思議そうに私の顔を見上げる息子と、驚きながらも背中を優しくさすってくださったNさんの手のぬくもりを今でも忘れることができません。

 「頑張って」と、いつも言われてきた私にとって、「今まで頑張ってきたね」というNさんの言葉は、長いトンネルに初めて差し込んだ光でした。私たち親子の存在を認めてもらえ、救われた気がしたのです。Nさんの言葉(光)を支えに、今も一進一退しながらも中学生になった息子と前に進んでいます。

 私は2年前に看護学生となり、今Nさんのように誰かの力になりたいと看護師を目指しています。

 

【内館賞】

全身がふるえた・・・

伊藤ひろゆき(熊本県)


 12年間の長い闘病生活の中で、9度の入院を経験した。3度目の入院の際、当初はそれまでの疲労回復(休息)のため1カ月くらい病室や病棟内で過ごした。そして、徐々に病棟リハプログラムを始めた。回復のためできる限り参加し治療に取り組んだ。自分では、まだ病は「3割程度の回復」という実感であった。

 しかし2カ月半たったころ、主治医に「伊藤さん、あと10日くらいで退院してください」と唐突に言われた。私は、「今、退院したら、何のために入院したのか分かりません。まだ症状は良くなっていません」 と医師に告げた。しかし医師は机をドーンとたたき、脅すように退院を迫った。私の切なる懇願は、結局受け入れられず、早すぎる退院と、その後の生活を考え、悲嘆に暮れた。その時は、食事の味すら感じなかった。

 その夜、病室で大きな不安と落胆の中しょんぼりしていると、夜勤の看護師さんが私のもとに来られた。そして、いろいろ会話した後、目線の位置までしゃがまれ、こう言われた。「今日の診察のことは、すべて日勤の看護師から聞きました。私たちで話し合いした結果、伊藤さんの退院は、まだ早すぎるとの結論に達しました。私たち看護師は医師の下で仕事をしていますが、看護師としてのプライドはしっかりとあります。先生を説得します。安心してください。私たち全員で伊藤さんを守ります」。

 私はその看護師さんの真剣なまなざしと心の底からの言葉に接し、全身が震え上がるほど感動し、少し涙を浮かべた。何か大いなるものに包まれたような安心感を得た。そして、入院の継続が可能となり、治療に専念することができたのだ。

 後に分かるが、このころ、病院での3カ月までの入院制度(急性期)が導入されたらしい。在院日数を超えると、病院の診療報酬の点数が下がるらしいのだ。それにしてもこの時の主治医の態度の変化には驚いたどころではなかった。長い12年超の闘病生活の中で、数多くの医療従事者と出会った。もちろん良き医師との出会いもあったが、特に看護師さんとの感動的なエピソードは、数多くあった。その中でもこのエピソードは、私の心に深く染み込むほど強烈で、そして感動的なものであった。Kさん、ありがとうございました。


たまたま病院の待合室でこの記事を読んでいたのですが、この50歳手前のおっさんが、あわてて新聞紙で涙を隠しましたよ。 


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