チャイナMBAマネジメント協会

「CMMA: China MBA & Management Association)」

第7回 Jean – 「中国」の「米国」企業で「日本」語で仕事をする

2015-01-26 | その他

(インタビューはたまに日本語を混ぜながら。写真は2014年12月、米国スタディトリップの際に立ち寄ったグランドキャニオンにて)

私は2014年9月から12月まで、香港の香港中文大学ビジネススクールに交換留学に出ていました。今回は特別編として、香港で出会った日本への留学経験があり留学後は中国に戻って米国企業に勤務するクラスメイトへのインタビューを実施しました。



<プロフィール>
1987年福建省生まれ。地元厦門大学で日本文学を専攻し、3年次には長崎外国語大学で1年間交換留学を経験。日本語の勉強と併せてアルバイトや旅行などを通して日本の文化に触れる。大学卒業後は、米系半導体製造会社に入社。2014年8月から香港・香港中文大学ビジネススクールのパートタイム(週末)コースに入学。普段は香港に隣接する広東省・深圳のオフィスに勤務して、週末だけ香港に授業を受けに来る生活を続けている。現在もiPhoneの表示を日本語にして、日本語の維持に努めている。




坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?

Jean(以下(J)) : 父と母の3人家族。だけど、祖父母、4組の叔父叔母もみな同じ街に住んでいた。車で2分くらいのところ。 父は警察官で、母は国営企業の会計士だった。両親は私にいろんなことに興味を持たせようとしてくれて、小さい頃は日本の水墨画に似た中国絵画と歌を2年習っていた。中国絵画は高校2年まで7年続けていたけれど、大学受験があったからそのときにやめちゃった。もちろん私に芸術家や画家になってくれとは思っていなくて、趣味を持たせようとしてくれて習い事をさせてくれた。大学には行って欲しいと思っていたけれど、かといってプレッシャーをかけるわけでもなく自由にやらせてくれたし、私がやりたいと思ったことを応援してくれていたよ。例えば私は絵を描くことは好きだったから、絵を教えるのがうまい先生を探してきてくれたりとか。全国の中国絵画の年少部門で3位に入ったことがあるし、大学の歌のコンテストで優勝したこともあるよ。働きはじめてからは機会がないけど、学生時代は英語、歌のコンテスト、中国絵画の展示会なんかにはよく参加していたね。




坪井(以下(坪)): これまで他のインタビューでは、多くの人が学生時代は大学に入るための勉強ばかりしていたと言っていたけれど、そこは同じかな?

(J):両親は成績も少しは気にしていたけれど、同じように私がやりたいことにも協力的だったから。だから高校時代も趣味に時間を割くことのほうが多かったかな。旅行も好きで、両親と一緒にあちこち回ったよ。父はドライブが好きだったから、郊外に出てりんご狩りをしたり。こんな経験をしたから自然が好きになって、今も時間を見つけてハイキングに出たりするよ。
母は授業に集中しなさい、とだけ言ってくれた。他のクラスメイトは授業が終わってからハードに勉強していたと思うけど、私は入試の前でも11時には寝てた。高校の先生も信じてはくれていなかったけど、実際授業に集中する方が効率いいと思うしね。英語のクラスだけは、先生に「授業のじゃまをしなければ何しててもいい」って言われていたので聞いていなかったけど。英語の勉強が好きだったし、もともと語学の勉強に向いていたんだと思う。高校1年のときに、文章を読んで録音してくる宿題があったんだけど、私の宿題を聞いた先生は「音源をコピーした」と思ったらしい。でも元の音源は男性と女性の会話だから、男性パートまで女性の声で録音されるわけないでしょ、って(笑)。最初英語の成績は特別よかったわけじゃないけど、その英語の先生に勧められて参加した英語のスピーチコンテストで優勝したの。それから私はネイティブの発音をマネるのが得意だってことに気づいたし、練習するのが苦ではなくなった。アメリカのテレビ番組を見たり、街にいた唯一のネイティブの先生と会話の練習をしたり。このころ英語づけになって基礎を作ったから、大学に入ってからはそんなに英語に時間を割くこともなかった。しばらく使わなくても少し話せば思い出せるし。




(坪): 大学は地元の名門・厦門大学に進学

(J): アモイは地名は英語で「Amoy」だけど、大学名は英語でも中国語読みの「Xiamen University」が正式な名前ね(笑)。日本文学・文化を専攻していた。最初は英語を専攻しようと思っていたけれど、英語の先生に「英語は自分で勉強できるでしょ」って言われて。それだったら、他の言語を学ぶべきだと思ったこと、大学入学当時(2005年)は、日系企業が積極的に中国に進出していた頃だったから、日本語専攻はすごくに人気があったのも選んだ理由の1つ。最初の1年は日本語を勉強。2年生からは文学、文法、それに日本のビジネスや社会についても勉強したよ。
私の大学生活は大きく2つに分けることができると思う。1つめは授業以外の活動に注力していたこと。1年生の頃は学生の自治会、2つのクラブ、雑誌の出版にも参加していた。とにかく時間が足りなかった。これらの活動に加えて英語スピーチのコンペにも参加していたしね。当たり前だけど学校の成績は良くなかった。だから2年生からは自治会の活動に集中することにした。ここで私は、自治会の活動資金を提供してくれる企業スポンサー探しの役割を担っていた。これは学生の間に実社会に触れることができる最高のチャンスだったと思う。ビジネスってどう行われているのかを知る機会であり、CEOやアントレプレナーに会うことができる機会でもあった。大変だったし、イベントをアレンジするのが最も華やかな仕事で学生の間で名前も知れ渡るけれど、それもスポンサー探しみたいな地道な活動があってこそだしね。やりがいはあったよ。他の課外活動を減らした成果もあって、成績も良くなって2年生の時には奨学金を得ることもできたし。タイムマネジメントをこの時に学べたのが学生生活での最大の収穫だと思う。




(坪): 2つめは交換留学だね。日本に交換留学に来たのはいつ?

(J): 3年生の時 。厦門大学は長崎外国語大学と提携していて、毎年学科の上位3名が交換留学に行ける権利を得られるので、私はそのプログラムを取った。長崎外国語大学は様々なトピックを提供してくれていて、社会学や日本経済、日本文化、それに古典文法もあったかな。
日本に来てわかったことは、日本人の先生が中国で教える場合には「中国人学生に教える」ように教え方を変えていたってこと。でも日本で教える場合には、「日本人と他の留学生に教える」スタイルのままだった。でもそれって日本人の考え方を理解する上でも役立ったと思う。何が違うかっていうと…日本人の先生が日本で教える場合には、「日本人の考え方」で話していると思う。 厦門大学では、日本文化を教えるにしても中国人が理解しやすいように、中国の例を出すなどのある種の「翻訳」が入っていたのかな。話し言葉にしても、中国人の日本語の発音は硬い気がするし、書く文章も漢字が多く入るからこれも堅苦しく感じる。私たちは漢字のほうが馴染みがあるし、中国人は熟語大好きだし。でも日本人はひらがな、カタカナを好む。たまに日本の先生が漢字が書けなかったりすることもあるしね(笑)。
留学中には日本国内の旅行もした。福岡とか、大阪とか。東京は行かなかったけどね。日本って古くからある風景を大切にしているでしょ。「ここは昔XXで…」みたいに。でも中国はそうじゃない。今は政府も注意しているけれど、中国では急速に開発が進んでしまって、歴史ある建物が次々と無くなってしまっている。新しいものがいいもののように思われている。文化大革命で多くの歴史的建造物が破壊されたこともあるけれど。この点は日本を見習うべきかな。
アルバイトを通じても、日本を知ることができた。やっていたのはファミレスのホール。何が大変だったって日本語のメニューを覚えること。数は多いし毎月メニューは変わるし。でも日本人のお客さんは優しいから、胸のネームカードを見て日本人じゃないってわかると、丁寧に対応してくれたよ。
あと中国に来てわかったと思うけど、日本と中国のレストランでは働き方が全く違うでしょ。例えばオーダーを取らない時には、掃除をしなきゃいけないとか。掃除しなくていい時はレジに行ったりしなきゃいけないとか。8時間の労働時間のときは休憩時間以外は常に仕事をしていなければならない。でも中国では役割がきっちり分かれていて、オーダー取る人は掃除しないから、空いているときは遊んでるでしょ。仕事の時間でも自分の仕事がなければ休んでいるのが普通だと思っていたから。とはいえ日本の働き方は優先順位が明確に決まっていて、私が一番下だったからかもしれないけど、考える間もなくロボットのように働かなければならないから、決して創造的ではないよね。そういう意味では中国のほうがフレキシブルかも、って思ったり。
当然、この1年間が日本を理解するための一番いい機会だった。




(坪): 大学卒業後は?

(J): 卒業した後は、米系の半導体企業に入社。選んだ理由は製造業に興味があったというよりは、アメリカの企業で働きたかったから。大学ではITと関係ない専攻だったけど、高校の時にはPCシステムを自分で組み立てたりしていたから、普通の女の子とは違ってITには馴染みがあった。それに英語と日本語が話せたことと、AMDは日本のクライアントを持っていたからことが決め手になった。入社後はITプロジェクトマネジメントやテクニカルサポートを担当していた。ITバックグラウンドがないから、最初は何にもわからなかった。特にトラブルシューティング。英語の文書を読んで、日本語で説明して…中国語を一切使わないから大変だったね。とはいえ、同僚のサポートもあって1年後には自分の仕事に必要な知識は習得して、指導員として新入社員の指導をしたり、採用の手伝いをしたりできるようになった。3年目からは自分でプロジェクトを回すようにもなって、社内表彰も受けた。この会社には色んな国の人が在籍していて、彼らとのコミュニケーションによって得られる情報が多いから、この会社で働くにあたっては、英語ができてよかったと思っている。
最近は似たプロジェクトが続いていて単調な気もするけれど、最近は面白そうなソーシャルメディア系のプロジェクトがいくつか上がってきている。是非挑戦してみたいんだけど、今の上司がもうすぐリタイアするので、彼はあまり新しいことに積極的ではなくってね(笑)。




(坪): MBAを取ろうと思った理由は? 欧米じゃなくて香港だった理由は? そしてなぜフルタイムではなくてパートタイム?

(J): 環境面で言うと、大陸のMBAは勉強よりもコネクション構築により重きを置いていること、政府系の人が多いと聞いていたこと、香港のMBAのほうがよりインテンシブで多国籍企業出身の学生が多くて、こちらのほうが私に合っていると思ったから。中文大学は香港のMBAで圧倒的に長い歴史を持っているから、学ぶこともたくさんあるだろうし、私の会社の香港の上司も勧めてくれた。欧米のMBAを取らなかったのは、コネクション。知ってのとおり、中国ビジネスでは今でもネットワークが大切で、2年間中国から離れると帰ってきた時にはギャップが生まれるでしょ。私はMBA取得後も中国で働きたいと考えていたから、欧米よりも中国に残るべきと判断した。日本に留学したときにできた友達とはやっぱり連絡が少なくなってる。それは物理的な距離の問題と生活スタイルが完全に違うからだと思う。そんな経験をしているから。
スキル面で言うと、これまでの経験からマネジメントスキルを身につける必要があると感じた。例えば、私がいたチームは、いわゆる「チーム」として働いていたというよりも個々人がそれぞれの仕事をこなすような集まりだった。お互いの仕事をシェアしたり一緒に取り組んだりっていうことはなかった。そのためにもダイバーシティの高い環境でのMBAが最適な選択だと思った。
フルタイムプログラムを取らなかったのは、今の会社でできることはまだありそうだし、会社自体が新しいことに挑戦しようとしているし、それに伴って私自身の役割も新しいになると思っている。あとは、パートタイムだとMBAで習った知識を実践でそのまま使えるでしょ?




(坪): MBAが終わったら何をしたい?

(J): 2つあって、1つは今の場所に留まること。中国のモバイルインターネット業界は今、ブームと言える盛り上がりを見せている。きっとまだまだ面白いことが起こりそうだから。もう1つはITに関係しつつもよりファイナンス寄りの仕事に就くこと。以前は、自分で小さいビジネスをやってみたいと思っていたけれど、私はアントレプレナー向きではないのかも知れない、って思いはじめた。でも、新しい挑戦には興味があるから、面白いことをしている人がいたら、是非とも一緒になって取り組んでいきたいね。



この記事はソーシャルウェブサイト「Billion Beats(10億の鼓動)‐日本人が見つけた13億分の1の中国人ストーリー‐」でも掲載しています。

中国を出る若者、戻る若者 -大陸で交差する夢-

北京大学MBAの他に、長江商学院MBA、清華大学MBAに在籍した日本人留学生による中国人クラスメイトインタビューもありますので、ぜひご覧になってください。

エリートバーリンホーのリアル

中国MBAリアルトーク ー WHAT’S NEXT IN CHINA

清華大MBAリアルトーク

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