クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

50年ぶりに、フランスが近くなりました?!

2024年09月30日 | 楽しいお話し

 今日は、語学がらみの、私の大昔の思い出話にお付き合いくださいね
海外に行くと、たくさんの気づきや、想定外のびっくりなど、様々なことがあるものです。今、私は66歳。初めての外国は、高校1年生の夏、家族とアメリカのアラスカ州をキャンピングカーで旅をした1週間でした じつは、そのアラスカの自然に魅せられた父は、翌年の夏にもアラスカ行きを計画。1年目に果たせなかったデナリ国立公園(当時は、マウントマッキンレー国立公園と呼ばれていました)に行きました。
 1970年代、「初めての海外旅行はハワイ」というのが一般的だった中で、アラスカ、というのは、かなりレアなケースでした 写真好きだった父は、一眼レフカメラも8mmカメラ(当時はまだ、ビデオ撮影用の機器はなく、動画は8mmカメラでした)も持参するため、たくさんのフィルムを買いに行きつけの写真屋さんに行ったところ、「えっ、どこに行くって?アラスカ、アラスカ?それってどこや、北極か?ペンギンとか白熊とか見たいんか」と言われたものです。
 初年度のアラスカは、まさに珍道中でした。両親共に英語は話せませんし、私も高校1年生です。州都であるアンカレッジで借りたキャンピングカーを運転した父。初めて給油のためにガソリンスタンドに行くと… 通じません
 まず、ハイオクガソリン「high octane 」が通じない。次に満タンという意味での「full」の発音にも苦戦。「F」と「L」ですからねえ

 まあ、山ほどの「気づきとびっくり」に恵まれ、はっはっは。旅行そのものはすこぶる楽しいものでしたが、同時に、身に沁みて「英語を話す必要性」を痛感。帰国後、すぐに父の命令で、私は「英会話スクール」に通うことになりました。
 私は大阪の、一応女子大まである一貫校に通っており、すでに他大学の受験はしないことに決めていたので、英会話学習は大学受験勉強と同じ重さを感じながら、まさに「寝る間を惜しんで」猛勉強、猛練習 3年半かけてそのスクールの全課程を修了しました(とは言え、現在の私の英語力はすっかりお粗末になり、海外旅行で困らない程度、というものになり果ててしまっています)。そして、その英会話学校は後々、私が大学卒業後、就職をするところとなります。

 25歳で結婚するまで、父の仕事に同行したり、短期留学をしたり(大学時代、アメリカへの大学への留学を熱望しましたが、暴君の父に拒絶され、断念)、大手の旅行社で添乗員兼おねえさん役で海外で開催されるサマーキャンプ等に同行したり、英語を使いながら若さを謳歌しました
 それほど英語を話すことには不自由しなくなった当時の私は、「英語という言語はオールマイティーだ」という思いがありました。
 結婚後は、夫のインドネシア駐在以外、旅行で海外に行くということはなくなりましたが、夫の仕事がら、妻として、海外からのお客様を妻として一緒にアテンドする機会は多く、英語はいつも私の側にありました。
 そして、すっかり子ども達も成長し、独立して以降、私が50代に入り… またあらためて海外に目が向き始めました。もともと、異文化に興味津々の私です 世界遺産や、世界の街歩きの番組、たーくさんのYouTubeにアップされている動画を見るにつけ、「ああ、ここにも行ってみたい!」「きゃー、これ、見てみたい!」とワクワクが止まりません

 それでもね、どうしても食指の動かない国がある… それは、フランス
小学校4年生に観た映画(題名も忘れてしまっているのですが)で、モンサンミッシェルを見て以降、ずっと「いつかはここに行ってみたい」と強く強く思っているにも関わらず、どうしても行けない… なぜかって?
 
 またまた古い思い出話に戻ります。それは、今から44年も前、1978年の春の出来事です。
スイス旅行に関して書いた前々回のブログの中で、私は「20歳のお祝いということで、その前の年、19歳の夏、テキサス州で開催された国際ユースキャンプで知り合ったヨーロッパ出身の仲良しのお友達のお家を巡る旅をしました」と書きましたね。
 その時、私はスイスのIsabelleが住むSionという町に入る前、フランスの友人を訪ねました。
 Patrickは、パリから遠く離れたオーベルニュ地方の小さな小さな町「Ambert アンベール」というところに住んでいました。そう言えば、オーベルニュ地方は天然水で有名な地方です。2020年まで日本でも長年販売されていた「Volvic ヴォルヴィック」は、この地方の代表的なミネラルウォーターですよ
 友人の住むアンベールの町は山間のとても小さな町でね。鉄道は通っていなくて、オーベルニュ地方の中心地「Vichy ヴィッシー」という町まで、超ローカルな電車に2時間ほど揺られていくところ。ヴィッシーからも約50キロ。峠越えをする車で1時間ほどの町でした。
 
 当時は、当然のことながら、とんでもないアナログの時代でした。
約1ケ月間の、ほとんど電車移動での必需品であり、移動の糧だったのは「トーマスクックの時刻表」と「ユーレールパス」という切符でした。
 みなさんは「時刻表」なんてご存知ないかも。時刻表は日本でもありましたよ。携帯することが多いので、軽量には出来ているけれど、とても分厚い本でね 「すべての駅の電車の発着時刻と、注意書き」が記載されているのです。その「ヨーロッパ版」が、トーマスクックの時刻表でした。
 当時は、私が住んでいた大阪では手に入らず、日本で扱っていたのは新宿の紀伊国屋書店本店、1店舗だけでした。オレンジ色の表紙のトーマスクックの時刻表。
 追加で敢えて書きますが、当然、当時はメールもLINEもない つまり、インターネットのない時代です。私が「〇〇さん、あなたのところに行きますよ。最寄りの駅に着く日と時刻は…」と知らせる方法は「Air mail」郵便です ヨーロッパの場合は、その手紙が先方に到着するまで約1週間かかりました
 私がそのお祝い旅行で訪れたのはベルギー、デンマーク、オランダ、フランス、スイス、オーストリアの6か国。各国に住む友人達には、訪問することの可否を確認した上で、ヨーロッパの鉄道地図と、そのトーマスクックの時刻表を使って調べ(乗換案内もNAVITIMEもありません、笑)、「私は〇日の〇時〇分に〇〇駅に着きますよ」と知らせていた、という訳です。びっくりですよね、ほんと。

 ところが、私は、フランスの計画中、とてつもなく大きなミスを犯していたことに気づいていませんでした
 私は「その日」の朝早くにアムステルダムを出発 国際列車に乗ってパリに到着。パリには複数の駅があり、私は到着した駅とは違う駅に移動しなければなりませんでした。タクシー乗り場からタクシーに乗り、運転手さんには、メモを見せながら「Gare de Lyon, S'il vous plaît !」そのくらいは言えました。通じて、一安心
 そして、ヴィシーに向かうべく、決めていた急行電車に乗ろうと、時刻表に記載されたホームまで行くと…その電車がありません。「えっ?このリヨン駅、始発駅だよね。な、な、なんで電車がホームに停まってないの
 私は大きなスーツケースをゴロゴロ引っ張りながら歩き、駅員さんらしき人を見つけては英語で話しかけました。「Excuse me!」ところが、私がそんなふうに話しかけた駅員さん全員が「Non!Non!」と手を顔の前に出して拒絶。
 やっと、広い駅舎のオフィスのようなところを探し当て、時刻表を見せながら話しかけても、「Je ne parle pas anglais!私は英語が話せない」「Je ne sais pas!わからない」と、ニコリともしない表情で、フランス語が戻ってくるだけ。
 パリは首都でしょう?たくさんの外国からの観光客だって来てるでしょう?そんな人達、みんなフランス語を話してる訳じゃないよね?なんで?ねえ、なんで
 私の頭の中では、グルグルと怒り?悲しみ?が巡り、ひと言では表せない、何とも言えない思いが溢れ、わああああああああ!と叫びたいような思いでした… ああ、フランス人は本当に英語を話さない人達なんだ…
 英語で質問する私を拒む人達の様子は、その人が英語が話せるのか話せないのか?ではなく、フランス語を話さない私を拒絶しているとしか思えない空気。確かに、そういう拒絶の空気が存在していたのでした
 困り果てた私は、本当に泣けてきてしまい…腰が抜けたようにベンチに座り、時刻表のそのページを広げて、呆然としていました。
 そこに座っていたのは、今の66歳の東洋人のオバサンではあいませんからね。自分で言うのも何ですが、決してみっともない格好をしていたわけではないのですよ。それなりの装いをした、20歳の女の子だったのですが・・・

 そんな様子で、どのくらいの時間が経過していたのでしょうねえ。その私に「Something wrong?」と声をかけてくれた人がいました イギリスから来た旅行者だという黒人でした(もちろん、イギリスから来た、というのは後でわかったことですが)。
 私が英語で事情を説明すると、「Oh,very sorry・・・」と言い、私の膝から時刻表を取り上げて、熱心にチェック。そして、ちょっと困ったような笑顔で、ページの一番下に書かれた*印の部分を指差してくれました。
 小さな小さな字で、でも確かに書かれてありました。「〇月〇日は運休」と。まさに、不運なことに「その日」がドンピシャリ、その運休の日だったのです
 その次の列車は、3時間後、でした。「あまり時間的余裕がないので、行くね!時間があれば、悲しんでいる東洋人にコーヒーでもご馳走したいんだけど」私は、何度も何度もお礼を言い、見送りました。去っていくそのイギリス人の後ろ姿に、思わず手を合わせた時の思いを、今でもよく覚えています。

 公衆電話を探し、友人のPatrick宅に電話 携帯電話も、スマホもありませんからね。お母さんと思しき人が電話に出てくれて「Patrick, Japanese friend, car, Vichy, station」とゆっくりと繰り返してくれました。
 パトリックはすでに、私を迎えるために、車でヴィシーに向かった、ということなのだろうな、と思いました。「Merci,merci beaucoup!」と何度も言い、電話を切りました。
 もう、パトリックに私が3時間遅れる、と伝える術はありません…
 仕方なく、私はパリのリヨン駅での3時間、後学のために駅構内のカフェにでも入ってみようと思いました。が…駅のカフェはどこもごった返し、私の大きなスーツケースは邪魔で、どこかに預けなければカフェには入れません。
 やっとの思いでコインロッカーを見つけはしたものの、空いているのは上の方だけで、私の大きくて重いスーツケースはそこまで持ち上げられない… 私はカフェを諦めました。
 私は、またまた空いているベンチをフラフラと探し、やっとのことで見つけた席に座り、本を読もうとバッグから出して広げましたが、ほとんど内容は頭に入って来ません。ずっと聞こえてくるフランス語、フランス語、フランス語…

 少し出発の遅れた電車が、目的地のVichy駅に到着。すでに夜9時近くになっていました。
ホームに降り立った私に数人の若者達が駆け寄りました。「Madoka~ Welcome Welcome」とPatrickと一緒に迎えに来てくれた彼の友人達。私は一気に緊張が解けて、大号泣
 彼らはVichy駅に着いてから、私が知らせていた電車が運休であることを知り、大いに心配して待ってくれていたのだそうです。
 喉カラカラの私を潤してくれたのは、彼らが手渡してくれたオーベルニュの微炭酸の天然水。あの時のお水のおいしかったこと…
 それからの3日間、小さな町、Ambertでは確かにフランス語に囲まれた生活でしたが、教会の神父さんも、Patrickの学校の先生達も、もちろんPatrickのご両親、お友達も、みんなみんなとの時間は、心の通じる温かい時間 別れる時は、またまた涙、涙、でした
 じつは、その後、パリに戻る電車の中でも、到着したパリのリヨン駅でも、言葉に関するひと悶着は諸々あったのですが、もう十分なので、書きません。

 とにかく、1978年の春に経験した、あまりに辛い時間、空気がトラウマとなり、「フランスの人達は英語を話さない。英語を話したがらない。フランスは、英語の通じない国、だから、フランス語が話せない私は、フランスには行かない」という思いだけが残りました。
 もちろん、その経験は「英語だけでは十分に外国の人達とはコンタクトは出来ない」という良い教訓も残し、語学の学習が好きにはなったのですが…

 この夏のスイス旅行は「山めぐり」が目的のツアーだったので、旅程の中に「シャモニーからロープ―ウェイに乗り、エギーユ・デュ・ミディ展望台からモンブランを見る」が入っていました。図らずも、シャモニー、つまり「フランス」です
 まあ、今回はツアーですからね。個人で交渉する必要はないので安心ですし、ランチをして、展望台に登る、だけですから、フランス国での滞在は5時間程度。それでも、私はスイスから車で国境を越え、フランスに入った時点から緊張というのでしょうか…

 ランチをしたレストラン 最初こそ「Bonjour!Bienvenue!」でしたが、その後は「What would youlike to drink?」「Is everything OK?」え、え、えいごです
 名札を見ると「Irène」さん。列記としたフランス語の名前です。まあでも、観光客の多いシャモニーのレストランですし、中の広さから鑑みると、海外からのグループツアーを受け入れることも多いだろうから、決まり文句くらいの必要な英語は話せるのだろう…
 ところが、です
 展望台行きのロープ―ウェイの係員のおにいさんも、一緒に列に並んだ「パリから」と「ニースから」というフランス人の観光客も、多くの人が英語で話しかけてくれました。それも笑顔で
 あの時、木で鼻を括ったように「Je ne parle pas anglais!私は英語が話せない」「Je ne sais pas!わからない」と言っていたフランス人はどこに消えたのか?あれはもう、私の「記憶の中」にしかいないのか?
 50年間の私の中の「辛いフランス」は、3842mの展望台で、モンブランやグランドジョラスなど、雪をいただいた山々の絶景の中に消えました

 時代は20世紀から21世紀へ。世の中は大きく変わりました。世界も狭くなっています。ヨーロッパの絶景だって、20時間近く飛行機の中で座らなくても、スマホで、パソコンで、テレビの画面で、インターネットを使えばライブ映像だって見られますし、話す場合だって有線の電話の必要もなく、すぐに外国と繋がり、簡単に話せます。
 そんな時代になっているからこそ「コミュニケーションのツールとしての言葉」を必要とし、やはりその時の共通語として、人々は「英語」を選んだようです
 果たして、この50年間で、どれだけ日本人が「英語を話せる国民になったか?」はかなり疑問ではありますが、どんな事柄であっても「道具、ツールは、使いこなせるほうが良い、便利」ですよね

 最近、YouTubeでよくモンサンミッシェルの映像を見るようになりました。本当は、とっても遠いところだけれど… 私の中では、ググっと近くなったように感じています、そこはフランスだけれど

 「秋の保税展 2024」 

10月18日(金)、19日(土)、20日(日)

10月24日(木)、25日(金)、26日(土)、27日(日)

11月1日(金)、2日(土)、3日(日・祝)、4日(月・休)

 * いずれの日も、午前10時30分 ~ 午後6時
 * 会場:内原東京保税蔵置場(ガレリア UCHIHARA B2ホール)東京都港区六本木7-2-7

 保税展は一般公開されない催しで、保税展の性質上、東京税関の管理下におかれています。来場には、事前登録が必要です。ご来場日時が決まりましたら、必ず事前に私にメールで来場者のお名前をお知らせくださいね

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「秋の保税展 2024」と、鉱物のお話し

2024年09月20日 | 楽しいお話し

 「秋の保税展」のご案内をする季節がやってきました
秋の保税展は、ピタリと神奈川校の面接、考査の時期、東京校の面接の時期にかぶります。ここ10年は、11月にも開催日が設定されるようになったので、まさに何もかもが重なっていたのでした 
 うれしいことにジュエリーマナーズファンの方々は年々増えていき、特に春と秋にしか開催されない「保税展」の人気は高く、この時にしか日本にやってこない世界のジュエリーを楽しみに待っていてくださる方は多いです。
 けれど、「まどか先生」としては、秋の保税展は完全に正念場と重なるため、とてもとても複雑な思いでした… この時期は、妻であるよりも母であるよりも「まどか先生」でしたから。毎年、面接や考査のことで頭がいっぱい。赤い爪を眺めながら、常に自分を鼓舞する時期 だからこそ、この時期に重なる保税展で、ジュエリー達から発する絶大なパワーにも感謝をしていました。
 保税蔵置場である乃木坂のガレリアUCHIHARAの地下ホールで、届きにくい電波を気にしながら、「今、無事に面接が終わりました」や「これから面接に向かいます」などのメールを受け取り、ホッと胸をなでおりしたり、目を閉じて、祈ったり…  この時期だからこそ、宝石のパワーを一層「感じて」いたかもな、とも思っています
 世界からやってきた1000点を越える宝石達に囲まれると、全くジュエリーに興味のない「夫達!?」や子ども達まで、会場に入ると「おっおー…」の声。
 今年からは、ここで得るパワーを誰かに送る必要はありませんが、私の元気とやる気にチャージします
 今日は、単に味気なく保税展の会期をお知らせするだけではなく、ちょっとした宝石のお話をごしましょうね。

 ダイヤモンドやエメラルド、ルビーのように「宝石」と聞いて誰もがすぐに思い浮かべるような石もありますが… 私は、頻繁に思い出す「美しい石」があります。それはキラリンキラリンの宝石ではなく、エジプトに行った時に見た採掘品。
 カイロのエジプト博物館で見たあのツタンカーメン(正確には「トゥト・アンク・アメン」大気の神、アメンの生き写し、という意味)の墓から出てきた装飾品の数々。
 「胸飾り、耳飾り」は、トルコ石(青緑色)、ラピスラズリ(瑠璃色)、カーネリアン(赤褐色)で装飾されていました。それらの石は、金の台にはめ込まれています。確かに、金はキラキラしている… でも、その前に立ち、眺めていると、あくまでも主役はキラキラの金ではなく、その青緑や瑠璃色、オレンジ色の石達のように思えました これらが作られたのは、紀元前1500年~1600年。
 宝石好きの私ですが、その時、あらためて「石、鉱物」の美しさに魅せられたのでした。あれ以来、私は世界の遺跡から発掘される王や貴人達が用いた「美しい鉱物」に目を留めるようになりました
 もちろんこれは実物を見たわけではありませんが、中米のマヤ文明の出土品、大量のヒスイを使ったお面やボトル。マヤ文明は2000年近く栄え文明ですが、この出土品は、A,D700年あたりのものだということ。
 ペルーのモチェ文化からの出土品には、金台にトルコ石の装飾が施された飾り。年代としては、紀元0年から700年あたり。
 こういう出土品を興味深く見ていると、人類は太古から、そういう「美しい石」に惹かれ、それらの貴重な石に宿るパワーを感じ、信じ、神に祀ったり、捧げたり、そして身に付けたりして、お守り的な装飾品として大切にしてきたのですよねえ…

 石、鉱物が持つパワー 私は信じますねえ… それが「きれいな石」であれば、なおさらです。
地理的に決して「お隣さん」とは呼べない文明同士であっても、年代も大きく違う文明であっても、美しい石を崇め、珍重した理由、それは、それら美しい石に宿るパワーを感じ、そのパワーを信じたからに他ならない…そう私はそう思っています。
 私がジュエリーを毎日欠かさずに身に付ける理由。それは、きれいな宝石だから、身を飾るために付けるということではありません その宝石にパワーがあるから、そのパワーを感じるから、なんですよね ふふふ、またまた熱弁をふるってしまいました。

 そう言えば… 私の孫は2歳半になりました。
月に2度ほど、保育園にお迎えに行くのですが、その孫は、よく帰り道、歩いている時に小さな石を見つけては「ばばちゃん、いし、ひろう」と言って手に取り、「このいしね、ぽけっとにいれる~」と言い、大事に持って帰ります。それをコレクションにしている、ということを娘から聞いたことはありませんが、少なくとも持ち帰ったその日は、帰宅すると大事そうにポケットから自分で石を出して(その日によって1個だけのこともあれば、2個や3個のこともあります)、テーブルの上に並べて、嬉しそうに眺めます
 彼が選んでいる石は、よくお家の前、ちょっとした植込みのところに敷かれた緑や白、茶褐色のツルツルした「きれいな石」ではないのですよ。アスファルトの道の端っこや、電柱の下にあるような、いびつな黒い石 でも、なぜかその石達は彼にアピールする、んでしょうね。
 そんなことが何度も続くので、私は考えました…「むー… 幼いからこそ、原始的な感覚があって、その石に何かを感じるのかなあ?」なーんてね。はははっ、考えすぎかっ

 それでは、ここでさっき話した出土品の「きれいな石」について。
トルコ石、ラピスラズリ、カーネリアン(日本語では紅玉髄 べにぎょくずい)の他にも、きれいな色の石にありますよ
 たとえば、瑪瑙(メノウ)や柘榴石(ざくろ石)、マラカイト(孔雀石)、緑柱石、碧玉などがそうです。一般的に「半貴石」と呼ばれるものですね。
 「えっ?半貴石って何です?『半貴石』ってことは、『半』の付かない『貴石』もあるってこと、でしょうか?」という声が聞こえてきそうです。
 じつは、貴石と半貴石には、きちんとした定義はそれほどありません。シンプルにお答えすれば、このようになります。
 貴石・・・世界中で宝石として認められている鉱物の中でも希少性が高く、どこでも珍重され、高額で取引される宝石。貴石の中でも4大貴石と呼ばれているものが「ダイヤモンド」「ルビー」「エメラルド」「サファイア」
 半貴石・・・美しい鉱物ではあるものの、それほどの高い希少性は認められず、硬度の面で貴石よりも比較的低いもの。
 でもね「希少性」という面だけで言えば、ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、サファイアより、はるかにはるかに希少性が高く、希少性が高いが故に高額なもの、はいろいろあります。
 その代表的なものが、最近、少しだけ知られるようになった水色の宝石「パライバトルマリン」かもしれません
 ただ、ここで「希少石」について話を向けてしまうと、どんどん話題の裾野が広がってしまうので、この希少石に関しては、また別の機会にお話をするとして、「きれいな色の石」に話を戻しましょう。

 太古から珍重されてきたのがトルコ石とラピスラズリ、カーネリアン。そして、先ほども書いた「瑪瑙(メノウ)」や「柘榴石(ざくろ石)」「緑柱石」「碧玉」について、もう少し。
 「柘榴石(ざくろいし)」の中でも、跳びぬけて美しいものは「ガーネット」と呼ばれています。
 「碧玉(へきぎょく)」の中でも半透明で美しいものは「翡翠(ヒスイ)」として扱われます。ここでまた脱線して、ちょっとその「ヒスイ」のお話を。
 10年ほど前までは、香港の複数のブランドから、ヒスイはよく保税展にも出品されました。ヒスイを専門に扱う工房もあったほどです。
 それに「ヒスイ」という名前が日本人に馴染みがあるのは、昭和50年台頃までは、和装の「帯留め」などにも使われる宝石だったから、だと思います。
 ところが 中国の経済力がどんどん上がるにつれて、日本に入ってくるヒスイが激減 今では世界の宝石業界に流通するヒスイはほとんどない、と言っても過言ではありません。
 なぜならば、ヒスイ、つまり碧玉は、中国の方々が大好きな宝石だから、なのですね とは言っても、ヒスイは中国で産出されるわけではなく、世界最大の産出国はミャンマーです。
 清王朝時代に中国に伝わったヒスイは、またたく間に高貴な身分の象徴となり、置物から食器に至るまで、あらゆるものに使われ、非常に尊いものとして珍重されました 中国の博物館には「ヒスイで出来た〇〇」という国宝級のものがたくさん出展されています。中国では、伝統的にそういう意味を持つヒスイ、なのです
 中国の人々の暮らしが豊かになった今、その「豊かさの象徴」であるヒスイは、太い腕輪として男女を問わず、愛されています 敢えてブレスレットとは呼ばず腕輪と表現したのは、それほど「太い形状」だからなのです 
 中国のあの人口ですからね。富裕層の多くが「腕輪」をするとしたら… 当然、他国には流通しなくなるのも想像に易い。なにせ、指輪なんて「小さな細工」ではなく、腕輪ですから

 次にご紹介するのは「緑柱石(りょくちゅうせき)」。鉱物学では「ベリル」という石、鉱物です。
 そのベリルは、含有する成分によって色合いが違ってきます。つまり「ベリルは〇〇色の石、鉱物です」とは言えません。
 鉄分を多く含むとブルー系となり「アクアマリン」と呼ばれ、マンガンを多く含むと、淡いピンクになり「モルガナイト」と呼ばれる宝石になります。
 せっかくなので、このモルガナイトの豆知識を披露しましょう。どうして「モルガナイト」と呼ばれようになったか?
 それは、アメリカの財界人J.P.モルガン氏が関係します。彼は、じつは無類の宝石愛好家でもあり、宝石業界にも多額の投資をし、貢献しています その彼にちなんで、この淡いピンク色の宝石を「モルガナイト」と呼ぶようになったと言われています。
 最後に「マラカイト(孔雀石)」は、エジプトが繁栄した時代から使われている美しい深い緑色の石です。このマラカイトを細かく粉になるまで砕き、それを絵を描くための顔料としても使われました。そう言えば、この粉をクレオパトラがアイシャドーとして使っていた、なんてお話もあります、ふふふ。

 宝石には興味がない、あまり身に付けない、という方も少なくありません。でも、だからといって知らんぷりをするにはもったいないほど、宝石を「様々な角度」から見ることによって、面白い話はたくさんあるものです
 宝石の中でも、最もポピュラーなダイヤモンド。誰もが「ダイヤモンドは知ってる!」と思うものですが… もう少し深堀りすると、もっと「へえ」「なるほど~」はたくさんあり、楽しいですよ。もし興味を持っていただければ、お時間のある時に、下記の回のブログも見てみてくださいね。
 「保税展」って何でしょう?
 「春の保税展」日程と、ダイヤモンドのお話し

 まっ、宝石に限らず、どんなものも「もうちょっと興味を持って見てみる、考えてみる」と、今まで見えていなかったものが見えたり、あらたな興味になったり、フフッと賢くなったり… 私はそういう「新しい気づき」にワクワクしてしまいます

  「秋の保税展 2024」 

10月18日(金)、19日(土)、20日(日)

10月24日(木)、25日(金)、26日(土)、27日(日)

11月1日(金)、2日(土)、3日(日・祝)、4日(月・休)

いずれの日も、午前10時30分 ~ 午後6時

会場:内原東京保税蔵置場(ガレリア UCHIHARA B2ホール)
    東京都港区六本木7-2-7

 保税展は一般公開されない催しで、保税展の性質上、東京税関の管理下におかれています。来場には、事前登録が必要です。ご来場日時が決まりましたら、必ず事前に私にメールで来場者のお名前をお知らせくださいね

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出願は「web」で?!

2024年09月10日 | 考える ひとしずく

 夏休みが終わると、毎日の残暑は厳しくとも「ああ、夏は終わるのだな…」と感じますね。
私はこの時期にも関わらず「さっ、いよいよ近づいてきた。居ずまいを正して、いざいざっ」という「仕切り」をすることもなく、毎日を穏やかに過ごしています 
 徐々に秋らしくなっていき、夕方になると虫の声が聞こえ、一気に陽が短くなっていく… そんな時期にサブクラスが始まり、ちょっと長めの講評の時間が終わると、日吉の教室の階段が暗くてねえ。あれやこれや策を講じましたが、なかなか安心には至らず。とても気になりました
 そんな時期なのに、全く緊張感のない私 うれしいような… 悲しいような… そう、一抹の寂しさ、ですかね。
 30年間続いた「私の秋」。今思い返せば、毎日パソコンに向かい、頭をひねりながら真剣に願書の添削をしていたことは、私の「喜び」でもあった… 苦心もしたけれど、何よりも「生み出す」という感動だったのだなあ、とあらためて実感しました
 文章を書くというよりも、モニターの上の紙面に、その家庭の、その子の「暮らしの情景」「生い立ち、成長期」を描く時間は、とてつもなくクリエイティブであり、同時にその子の人生の大切な1ページを創り上げるような気持ちだった、のだと思います。
 他にも、サブクラスのカリキュラムの内容や進め方を考えたり、事務的な作業で模擬面接の日程表を作ったり、それぞれの家庭の受験日時のカレンダーを作ったり…と、この時期以降、11月末あたりまでは、私の頭の中は「エンジン、フル稼働状態」でした
 そんなことを、とてもとても懐かしく思い出しています。

 昨年末までに教室を片付け、お借りしていた日吉のお部屋もお返し、つつがなく終えた…との安堵はあったものの、気がかりがゼロであったか?と問われると、じつはそうではありませんでした それは「第二子が受験する」というご家庭があるのをわかっていたから、です。
 その中の1つのご家庭は、新しい先生のもとで問題なく準備をされている、ということをお聞きしていましたが、もう1家庭は、とてもお歳の離れた第二子でいらして… 日頃からお親しくしているにも関わらず、いつも別の話題でお話することが多く、第二子ちゃんの準備については、おたずねしたこともありませんでした。教室を終えた私が、そんなことをお聞きするのはとてもおこがましい、との思いがあって。けれど、そのご家庭のことを考えていると「たぶん、私に出来ることは、ある…よな…」との思いも頭をもたげ、心の中がザワザワ
 私も、先方も、熟考の末(だと思います)… お互いに思い切って8月に入ってから声をかけ合い「いろいろとご相談に乗る!出願に関しては私に出来ることはお手伝いをさせていただく!」ということになりました。

 でもね、そんないろんなお手伝いから見えてきたことで、私は本当に本当に驚いたのですよ
なんとまあ、たった1年で、各校の出願方法が大きく様変わりしたのですから。
 すでに昨年は「コロナ禍が明けた年」でしたので、いろいろなことが「元に戻った」という安堵というか、喜びというか… 各学校には新年度の受験に対する「意気込みのようなもの」をとても感じました。ただ「やっと普通じゃない状態から、元に戻して良くなった」という状況でした。なので、今になって思うと、昨年はどの学校も「本当にこれで良いのかな?」というような、手探り的なところも多かったのかもしれません。
 たぶん、各学校ともコロナ禍で行われた数回の受験を通して「見えてきたこと、見えてきたもの」は少なからずあったのでしょう。こういう「コロナ禍からの気づき」という点では、小学校受験の世界以外でも、たくさんあったに違いありません。

 すでに、お子様達が中学生以上になられているような卒業生家庭のみなさんは、まさにこの時期、メールでこんなやり取りをしたことがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか?
 パパ・ママ「先生、出願は初日ですよね。何時頃に学校に到着すれば良いでしょうか?記載された時間、ぴったりでしょうか?それとも、少し早目、が良いですか?早目ならば、どのくらい早目が良いですかねえ…」
 私「あまり早すぎるのも学校にご迷惑ですよね ご近所との兼ね合いもありますし。それでは、40分くらい早めにおいでになって、様子をうかがう、というのはいかがでしょう?」
 受験をするに当たり、これはものすごく大事な質疑応答、でしたよね。

 ところが 今年はね、多くの学校が「webでの出願」になっている、のです。昔は「インターネット系」が不得意だと思われていたカトリックの伝統校であっても、です。驚かれませんか???

 もちろん、すべてをインターネット利用で完結させてしまう、ということではなく、最初の出願だけをweb利用として、その後は自ら記入したものを郵送する、というようなシステムも多いのですが…
 それでも、出願の朝の「武者震いするような緊張感」や、「失敗できないという思いで頭が痛くなる」そんなことからは解放されるかもしれません。
 まさに、コロナ禍での笑い話のように「明日の会議はweb会議だから、画面に映る上半身だけはきちんと着替えるけれど、先方には見えることのない下はパジャマのままでもOKだよね、はっはっは。」という感じで、出願も可能なのですね

 「web出願なんてとんでもない そんな緊張感がないことでどうする 」なーんて、古狸の皺くちゃ先生として憤慨しているわけではありません ただただ、そんな時代になったのだなあ、と、心底驚いているだけ、です。
 web出願だから起こりうるトラブルもあるのだろうなあ、と想像もします。手順通りに入力をしていったのに、なぜか繰り返しエラーの画面になってしまう…とか、そんなことを考えると、私はドキドキしてしまいます

 でも、そのうちに、すべてが「ネット上で済ませられるように」なるのだろうな、と考えています。なぜならば、ネット上で志望動機等を書いた願書を共有することが出来れば、複数の先生方が簡単に読めるようになりますものね 膨大な量の紙媒体を、校長先生や受験担当の先生方の手元に留めるよりも、はるかに効率が良いかもしれません。ただ、今までは「そういうことを考えもしなかった」というだけで…

 ただ、もしそうなったとしたら 私はちょっとだけ残念に思うことがあるのです。それはね…
 お父様やお母様の中には、とても達筆な方がおいでになります 今の時代、なかなか「書いた文字」を見る機会が少なくなりましたが、ちょっとした走り書きや、頂戴したお年賀状や季節のお葉書で「まあ、このママ(パパ)は、こんなに達筆でいらしたんだあ」と感動することもしばしば、でした。
 そういう保護者の方がお書きになる手書きの願書は、当然とても読みやすく、紙面が輝いて見える
 そういうものに対する先生方の評価?感激!にっこり!がなくなってしまうのは、残念です…
パソコンに打ち出された文字は、誰にとっても読みやすいですが、思わず加点したくなる?というプラスアルファは起こらなくなってしまいますよね
 なーんて、そんなことも思いましたが、いやいや… 私自身、簡単なお葉書以外は、長文だからという理由で、文末の署名以外は、ほとんど自筆でお手紙を書かなくなっていることを思えば、私がいろいろ言える立場ではありませんねえ
 いずれにせよ。時代はどんどん変わっていくのだなあ、としみじみ感じています…

 そして何よりも。web上での手続きや何や、そういうことに関して決して強くない私です
まさに、そんな昔流の私に「天のカミサマ」が教室を終える潮時を、奇しくも教えてくださったのかもと、晩夏の青い空を見上げ、苦笑の思いで考えています

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スイスでのお話②

2024年08月30日 | 楽しいお話し

 世界中にはたくさんの国がありますね。誰もがよく知っている、毎日のように耳にする国もあれば、オリンピックの開会式、入場行進で見た「聞き慣れない国」「初めて耳にした気がする」というような国もある… 
 そんな中で「スイス」という国は、多くの人が「スイス?スイスでしょう!知ってる知ってる」という国だと思います。まさに、マッターホルンと言う山の名前は知らなくても、あの山は見たことがあるよ!というように

 じつは、私は今から44年前の春、スイス人の友人、イザベルという女の子の家を訪問しました 彼女とはその前年、私が大学2年生の夏、アメリカのテキサス州で開催された国際ユースキャンプで出会い、3週間のキャンプ生活の中でとても仲良くなり、私は20歳のお祝い旅行「ユースキャンプで知り合った、ヨーロッパ出身の仲良しのお家を巡る旅」を計画し、彼女が住むスイスのSIONという町に行きました
 ローザンヌから約1時間のところにある町、SION。でも、その時に訪れたスイスは、私にとって「仲良しのスイス人、イザベルが住んでいる国」。観光らしい観光はせず、彼女のお家での3泊を終えると、すぐにその次の訪問地オーストリアのインスブルックに列車移動しました
 長い間続いたイザベルとの縁も、30歳を過ぎた頃からだんだん薄くなっていき、残念ながら交流は途絶えました。(奇しくも、今回の旅ではSIONの町を高速道路から眺める機会に恵まれ、一気に懐かしさがよみがえりました。2歳年下の彼女も、64歳の立派なオバサンになっているのだと思うと、バスの中で泣き笑いでした…)

 さて、そのスイス、あらためて知ったこと
まずは国の大きさ。九州を少し大きくした面積で、四国のような形をしています。
 公用語は4種類。人口の6割強がドイツ語、2割強がフランス語、1割弱がイタリア語、極々少数の人がロマンシュ語、という言語を話す国民。しかし、ドイツ語もフランス語も、標準的な言葉とはかなり異なるようで、敢えて「スイスドイツ語」「スイスフランス語」のような呼ばれ方をし、中でもドイツ語を話す人達は、地域によって方言があり、ドイツ語圏内のスイス人同士でも、理解が難しいということもある、と教えてもらいました。

 私の最初の訪問地サンモリッツ、ベルニナ鉄道沿線はイタリア語圏。
ツェルマットとグリンデルワルドはドイツ語圏。ちなみに、イザベルの住んでいた、かなりフランスに近い地域はフランス語圏で、IOC本部のあるローザンヌや、WHOの本部があるジュネーブなどもフランス語圏です。

 私が、あらためて知ったスイス…
その① スイス人は、スイス人であることに大きな誇りを持っている、ということ。
 今回の旅では、少しでも現地の人と話してみたい、という思いがあり、チャンスを見つけてはいろいろとお話をしたのですが、そのお相手が4つの言語のどの言葉を話す人であっても、頻繁にこのフレーズを使われました。「私達、スイス人は~~~です。」という表現。
 例えば…
「私達、スイス人は、決してものを無駄にしないのですよ。このrivellaは、それまでは廃棄されていたホエーをメインに使って作られているんです。是非、HPを見てみてください 英語もありますから。」
 「rivella」は、アルコールを飲まなくなった夫と私がとても気に入り、旅行中、よく飲んでいた炭酸飲料です 言われた通り、興味津々でインターネットで調べてみると…
 チーズ作りの工程で大量に出てくるホエー(乳清)。それは、廃棄するしかない厄介者だったとか。しかし、それを何とか活用したい!という強い思いで研究の結果、そのホエーから蛋白分を取り除き、そこに各種のハーブとミネラルウォータを加え、スイス国民に愛されるとってもポピュラーな飲み物「rivella リヴェッラ」を誕生させました むー、なるほど、なるほど。

 「私達、スイス人は、海外から来てくださる方々に喜んでいただくために…」
 「私達、スイス人は、この美しい景観を大切にしたいので…」etc.etc.
 一人一人が自国を愛し、誇りを持って暮らしていること。本当に素敵だなあ、と思いました。私はどれほど「私達、日本人は…」と、外国人に対して話すことがあるかな?話せるかな?あらためて考えさせられました。

 私が、あらためて知ったスイス…
その② スイスが「徹底した、驚くほど優秀な観光立国である」ということ。
 今年のスイスは、春を終える頃から天候不順が続き、山岳地方に頻繁に大雨が降ったようです そのたびにあちこちの道路が水に浸かったり、橋が決壊したり。けれど、毎回復旧は早く、すぐに観光客が利用する道路や鉄道網は使えるようになる
 今回、私達がグリンデルワルドに向かう途中で通行止めになった道も、すぐに復旧工事が入り、通行止めの翌日の夜には一般車両が、翌々日の早朝からは観光バスが通行できるようになりました
 実際、このグリンデルワルドへの道路だけではなく、私達が今回各地方で利用した、山岳道路と呼ぶべきカーブの多い道路や峠道では、通行を妨げないスペースに停車している工事関係の車両を多く見ました。春以降の天候不順で、道路に何らかの問題が起きるとすぐ、観光利用の車両が少なくなる夜間、復旧のために整備に入るのだ、ということでした

 その他にも感動、感心したことはいくつもあります。
山岳地域が国土の大部分を占める国であるにも関わらず、鉄道網が非常に整っていること。
スイスでは「どこにいても、とにかく最大16キロ歩けば線路がある」という言葉があるのだそうです。スイス国鉄と約60社の私鉄の路線を合わせると鉄道の総延長は5,500キロにも及び、ほぼ同じ面積の九州の鉄道網と比べると約2倍、という密度だとか。
駅の案内表示やピクトグラムなど、鉄道以外の場所でがすべて統一されていて、言葉がわからなくても、見るだけでとても分かりやすかったこと。
駅員さんや車掌さん、列車の関係者の方々は概ね問題なく英語が話せ、その土地がその言語圏であっても、自国の言語であるドイツ語、フランス語、イタリア語が堪能で、外国人には旅行のしやすい環境であること。
山岳地帯には、たくさんのトレッキングルートがあり、整備は完璧であること。
 ルートには、初級から上級まで、数多くのルートがあり、それらすべてのルート上の要所、要所には、たくさんの「共通の黄色いルート標識」が設置されて、距離と平均的な所要時間が記されています。

   
   これは、登山電車のゴルナーグラート駅前に設置されていた「トレッキングのための道標」です。ルートの方角と、およその所要時間が書かれているでしょう?

登山電車やゴンドラ等の「乗り物利用」で、約3000mの標高にある展望台や施設まで、楽に登っていくことが可能なこと。(まさに、これは特筆すべきこと、です)
 乗り物の終点の駅や、展望台の周りには、大抵トレッキングコースが整備されています。なので、そのあたりのトレッキングルートを散策したり、下りのみ自分の足で下る、途中まで下ってまた乗り物を利用して下る、往復とも乗り物利用にする、等々、アレンジは自由自在です
 今回の旅程を例にあげると…
  ベルニナ急行を利用し「ディアボレッツァ展望台(2984m)」まで125人乗りのロープ―ウェイで、約10分で登りました。帰りも同じロープ―ウェイ利用で下りました。ロープ―ウェイからは、たくさん歩いている人達が見えました。
  ツェルマットからは、登山電車で終点の「ゴルナーグラート駅(3089m)」にある展望台へに行き、帰りはトレッキングルートを利用して1時間半ほど歩いて下り、途中駅から電車に乗ってツェルマットの町まで下りました。そして、町中を少し歩き、別のケーブルカーに5分ほど乗って「スンネッガ展望台(2288m)」に行き、昼食 その後は、帰りも同じケーブルカーを利用して下山しました。
  グリンデルワルトからは、やはり登山電車で「ユングフラウヨッホ駅」へ。この駅は、ヨーロッパで最も高いところにある駅で、標高3454m。ここにある「スフィンクス展望台」は、3466mです。帰りも、登山電車で下りました。
  シャモニーからは、「エギーユ・デュ・ミディ展望台(3842m。)」があります。ここへはロープ―ウェイを1回乗り継ぎ、登ります。(こちらは唯一、今回の旅行でのフランス領でのお話なので、オマケです)

 ツェルマットやグリンデルワルドには、私が行った展望台の他にも、いくつもの乗り物利用で登れる展望台があり、そこからの数多くのトレッキングコースが整備されているのです。

 何よりの驚きは、それらの展望台の歴史です。
乗り物としては技術的にロープ―ウェイの歴史は浅いわけですが、鉄道の歴史は古いですね。でも、いくら鉄道の歴史は長くても「3000mを越える高地にまで鉄道を走らせよう」という構想を持ってなんて… 信じがたい

 マッターホルンやそのまわりの4000m級の山々、氷河を見渡せる「ゴルナーグラート鉄道」の完成は、なななんと、1898年。日本で言えば、明治31年です
 グリンデルワルドから上る登山電車。美しい山の景観を汚してはいけない!との思いから、アイガー、メンヒの山の内部を掘削し、トンネルのかたちで完成させた「ユングフラウ鉄道」。
 その構想は1960年代からあったのだそうですよ。実際に建設が始まったのは1896年。工事中は硬い岩盤に苦しめられ、途中、資金難等の理由で一旦中断しながらも… とうとう、1912年7月30日、ついにユングフラウヨッホ駅までを開通させました。
 この鉄道が客を乗せて運行を始めたのが1912年の8月。日本では、ちょうどこの月から大正時代が始まりました

  自転車利用でのツーリングルートも充実していて、鉄道にも自転車専用の車両があったり、自転車と一緒に乗り込める電車が1日に何本も走っていたり…サイクリストにも多くの配慮があります。
   
   
これは、ベルニナ急行の列車に接続された自転車専用の車両です。

 要するに、100年以上前からスイスでは、一人でも多くの人達に「自国の美しい景観を紹介したい、紹介しよう」という思いに燃え、その時代の技術の粋を結集し、観光業への貢献があったということです。本当に感激しました

 ただ「山というものに対する考え方」そのものが、日本とスイスでは大きく違います。それは文化の違い、ではないか、と私は考えました。
 そもそも、日本では古くから「山は信仰の対象」でした。山々には神様が御座(おわ)し、一般の人々が簡単に近づいてはいけない聖域とされていました。入山できるのは、修行を積んだ僧だけであったり、修行そのもののために山に登る、という時代が長く長く続きました。
 そして、時代が移り、戦後になって「観光が一般化」されるようになっても、なかなか山は「万人向けの観光の対象」になることはなかった
 「山に魅せられ、苦しく辛い思いをしながら登る、という行為に価値を見出すような登山家、登山愛好家」だけに開かれた地だった、と言えるではないでしょうか…
 そこに美しい高山植物の群生があったとしても、満点の星空が美しくても、「鍛練的な登山、修行的な登山」では、そういうものは「付録的なもの」でしかなく…  高山植物を愛でる、とか、昨今のようなyoutubeで紹介される「山で美味しいものを自炊する」なんてことは、平成も中頃を過ぎてから… かもしれません。良い時代になりましたね

 スイスの山々、そしてたくさんの氷河の景観は、どこを切り取っても絵になり、気が付けば「すごい…すごいわあ…」という言葉しか発していませんでした

 山々も絶景ですが、もう一つ、敢えて語りたいこと
じつは、バスや電車から高い山々を眺めていると、大抵、その絶壁には2.3本の白い筋が見えます。そう、夏の時期、氷河が解けて急な傾斜を流れ落ちる「名もない滝」です それらの滝は、やがて川となり、水量を増して高原や町中を勢いよく流れます。
 上高地の梓川然り、日本アルプスの雪解け水は、みな透き通った清流なので、私はスイスの川もそういうものをイメージしていたのですが、実際にはほとんどが乳白色(今年は特に、ゲリラ豪雨的な雨が多かったせいもあるのでしょうが)。石灰岩で形成されているアルプスでは、氷河は、解けて流れ下る時に山々を削り、石灰分を多く含んだ水となり、白く見えるのだ、とか。

   

 その豊富なお水 スイスでは「水道水でも問題なく飲める」のです。美味しいお水です
よくヨーロッパ旅行をすると、「お水はミネラルウォーターを飲んでくださいね。たとえホテルであっても、蛇口からのお水は飲料水ではありません」と注意を受け、特に夏の旅行の場合、よく小銭を探して、お店でミネラルウォーターを買います そのたびに「ガス入りか、ガスなしか」を確認して
 でも、スイスでは、空のペットボトルさえあれば、冷たくておいしい水がどこでも確保できるんです 

 なるほど~は、まだまだありました。
スイスは、1815年のウィーン会議以降「永世中立国」国土の大半が山岳地で、農作物も豊富とは言えず、めぼしい産業にも恵まれなかった昔のスイスにとっては、人材こそが大きな財産だったとか。
 かつては、ヨーロッパの様々な戦争に、本当にたくさんの「強靭なスイス人傭兵」が参戦したのだそうです。
 1874年に「外国軍への参戦を禁じる」という法律が出来るまで、スイス人傭兵は、特にヨーロッパ各国で活躍しました。
 そんなスイスには現在も、陸軍と空軍の大きな軍事力があり、憲法で定められた徴兵制により、20歳から50歳まで、男子の全国民には兵役義務があるのだそうです。

 広い広い緑の放牧地や、シャレの点在する典型的なスイスの高地にも、ところどころ「オレンジ色のボール状のものが2,3個くっついた電線」がありました。

   

 何となく不思議に思い「あの電線にくっついたオレンジ色のボールは何ですか?」とたずねたら、その答えは「空軍が飛行訓練をする時のための目印です。スイス国内では、よく霧が発生します。真っ白で先が見えないなんてこともあります。そんな風に霧で見通しの悪い場合でも、あのオレンジ色のボールは、ここに電線がある!という印で、飛行訓練の時の危険回避のため、です」と教えてくれました。むー… それもスイスの一面なのだな… としみじみ感じました…

 そう言えば、「スイス人の傭兵」と聞いて、ピンと来た方もおいでになるかもしれませんね 先ほども書いた通り、現在ではスイス人傭兵はいませんが、それでも「たった1か所だけ、スイスの傭兵が存在しているところ」があります。それは、バチカンです

       

    

 カトリック教会の世界の中心、バチカン市国のサンピエトロ寺院では、要所、要所にカラフルな制服をまとった「スイス人傭兵」が立っています。
 ジュネーブやチューリッヒなどは、歴史的に宗教改革発祥の地ではありますが、現在のスイスは、カトリック教徒が35%、プロテスタントが23%でという具合で、私の想像以上にカトリック教徒が多いのですね。
 そんなカトリック教徒の中でも、非常に敬虔な信者で、選ばれし若者が「バチカン市国の傭兵」となるのです。これは、1506年、教皇ユリウス2世の頃から500年以上、この伝統は続いているのですねえ

 今回のスイスの旅は、山岳地帯を中心にした6泊7日。装いも常にスポーティーに徹した1週間でした。
 でも、スイスには古都のルッツェルンや首都のベルン、湖畔の町チューリッヒやローザンヌ、国際機関の多いジュネーブなど、見所満載です。いつかは、そういう町も訪れてみたいです。

 でもね、物価の高さにはいささか閉口しましたよ
スイスの通貨は「スイスフラン」です。私が換金した7月下旬は、為替が最悪の時期で… 米ドルもユーロも???!!!の時期。1スイスフランが175円でした。(ここのところは、170円程度だと思います)
 ツェルマットの町のメインストリートにあったマックの看板を見てみると… セットの最低価格が約3500円 
 スーパーで買うような、袋に入ったちょっとしたお菓子が、1袋約800円。「rivella」のような清涼飲料水が、1本約750円
 2023年度の平均年収が、スイスは日本の3倍以上だったことを思えば、物の値段が3倍以上であってもおかしくない…のでしょうが、そこに為替マジックが加わって、ついつい何でも値段をチェックし、顔を見合わせ、目ん玉飛び出し状態でした

 それでも。
まるで「やらせか」「観光用なんじゃないか」と思うような、山々の見える高原のあちこちで放牧されている牛さん達。登山電車の窓を開けると、本当にカウベルの音がガランガランと聞こえる様子。まるで私が子どもの頃に見た「アルプスの少女、ハイジ」のアニメを観ているような風景… スイスの自然はすごいです

 最後にひとつ。
 今回、シャモニーからグリンデルワルドに向かう途中、グリュイエールという町のサービスエリア的なところに停まりました。グリュイエール、そうです、エメンタールチーズと並び、スイスの代表的なチーズです
 私も夫も、今まで「チーズフィンデュ」を食べる機会に恵まれなかったので、ツェルマットで勇んで現地の人に教えてもらったお店で初体験。とっても気に入り、そのお店の陽気なオーナーに「チーズの配合は秘密だけど、グリュイエールチーズさえあれば、美味しく出来るよ キルシュと白ワインは必須だからね」と教えてもらいました。
 図らずも、道中、そのグリュイエールに停車できて大感激。幸いにも持ち帰れると聞き、翌日は帰国でしたので、真空パックされたグリュイエールチーズをゲットしました。
 その上、チューリッヒに向かうバスの中で、破格の安値でメルカリに出品されていた新品未使用のル・クルーゼのフォンデュ鍋まで購入 帰国した翌日、さくらんぼから出来たリキュールのキルシュと白ワインの小瓶も買って、準備万端
 ところが… インターネットで調べた通り、白ワインも鍋で煮立たせ、そこにスライサーで細かくしたチーズを入れ、混ぜ混ぜしていたのに、どういうわけかイメージ通りに解けないのです。
 挙句の果てにチーズは解けるどころか、今度は固まってきてしまい… まるで昔の湿布のシートのような状態?ゴムのような状態になり…
 そのゴムゴムグリュイエールをナイフで端っこを切り、食べてみましたが、グリュイエールの味もせず。持ち帰った貴重なチーズは、訳の分からないものに変身してしまいました
 夫と二人で、下準備したマッシュルームやブロッコリー、パンのお皿を前に大爆笑。グリュイエールチーズさん、ごめんなさい チーズ職人さん、お許しください
 どなたか、自宅で美味しくチーズフォンデュを作るコツ、ご存じありませんか?

 

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スイスでのお話①

2024年08月20日 | 楽しいお話し

 15日、関東に台風が接近していた前夜、滑り込みセーフで帰国しました
成田空港からネックスで東京駅に着くと、駅構内はごった返していて、びっくり。
 じつは、スイスでもゲリラ豪雨的な雨に見舞われ(夕方、バスで移動中での雨だったので、雨にあって難儀した、という訳ではありませんでした)、それが原因で道中の小さな川が氾濫。道をふさいでしまったため通行止めに。それでその日は予定していた目的地に付けず、急遽、別の町のホテルに泊まる というようなハプニングがありました。それが夜8時を過ぎての出来事でしたが、幸運にもホテルが見つかり、本当にラッキーでした
 みなさんよくご存知の通り、かなりの雨女の私なのに、今回は好天に恵まれ、全行程、「見るべきもの」「見たいもの」すべて見ることが叶い、本当に天のカミサマに感謝の旅でした

 スケージュールの詰まった旅程でしたが、時間を見つけては、なるべくたくさんのスイス人と話すようにして、今まで知らなかった「スイス」をたくさん知ること、学ぶことが出来て、大変有意義な時間となりました うんうん、なるほど、そうなんだね…と、考えることもたくさんありましたよ。
 でも、そういうことにをご紹介するのは次回にまわし… 今回はみながイメージする「きゃあ、スイス アルプスの少女ハイジの世界」と形容するスイスを、写真も登場させながらご報告します

 とにかく、スイスの旅行は概ね「風景、自然が相手」であり、天候に大きく左右されることを再認識。古代の遺跡を訪れる、寺院の壮麗さを眺める、芸術品を鑑賞する…ということであれば、百歩譲って雨であっても雪であっても大丈夫 でも、風景を楽しむことがメインの旅行となるとねえ
 今回は、エミレーツ航空利用だったので、ドゥバイを経由してチューリッヒに入りました。そこからはバス。陽気なイタリア語圏のスイス人のドライバーの運転で、最初の訪問地のサンモリッツへ。そこに着くまでにも、すでに湖や山々が見え、「ああ、スイスだ… イメージしていた通りのスイス。来たんだなあ」の気分。

 翌日は、ベルニナ鉄道に乗り、イタリアのティラノへ。そこからはバスに乗り換え、途中、ベルニナアルプスを満喫するため、ロープ―ウェイに乗って標高2984mのディアボレッツァ展望台に上がりました。目の前に広がる景色は、もう「ななななんだあ…」という気分。今まで、あまり耳にしたことのない「ベルニナアルプス」でしたが、白い峰々と、そこから伸びる氷河…圧巻でした

    
 ディアボレッツァ展望台に向かうゴンドラには、でかでかとGUCCI の文字

 私には馴染みのなかった「ベルニナアルプス」でしたが、鉄道ファンにとっての「ベルニナ鉄道」は、ブルージオのループ橋などで有名なのだそうです。

    
ゴンドラから見えたベルニナ急行の列車です 上りと下りの列車(どちらが上りか下りかわかりませんが、笑)

 到着の日とその翌日の

宿泊地、サンモリッツの町は、洗練された高級避暑地、という感じの町。久しぶりに聞くイタリア語にニヤニヤ。ちょっとした挨拶や注文をする時、片言のイタリア語が通じると、一人心の中で「ヤッタゾー」のガッツポーズ。言葉って、やっぱり楽しいですよね。

 次の目的地は、ツェルマット。朝、サンモリッツ駅を出発し、氷河鉄道と呼ばれる列車に乗り、アンデルマットという町へ ツェルマットまでこの列車でも行けるのですが、今回はアンデルマットでバスに乗り換え、夏期だけ通ることのできるフルカ峠、という峠を越えました。

   
 奥に見えている山の右側にジクザクに通っているのがフルカ峠越えの道です。

 そして、いよいよ「あの山」とご対面 とは言え、マッターホルンは高い山であるにも関わらず、どこからでも見えるという訳ではなく… ツェルマットに到着する直前まで見えないのです「もし、雲に隠れていないようであれば、この辺りから見えるのだけれど…」と言われ、まさに祈る思いで前方を見つめていると… 見えました ほんの少しだけ頂上に雲のかかった「あの山」が。
 小学校の頃に使ったノートの表紙や、銀行からもらい、リビングに貼ってあったカレンダー、等々。世界的に、美しい富士山も有名ですが、やはりマッターホルンほど世界中に知られた山はないのではないでしょうか?山の名前は知らなくても、誰もが生涯に一度はどこかで「見ることのある」特徴的な独立峰、です

 ツェルマットの町は、上高地のようにガソリン仕様の自動車は入れません。鉄道利用であっても、車利用であっても、ツェルマットの手前10分ほどのテーシュという町で降り、そこからは電車に乗り換えツェルマットへ入ります。
 雨女の私ですが、夫が晴れ男だったお陰で、ツェルマットで滞在した2日間、時々、部分的に雲で隠れる程度で、マッターホルンはずっと見え続けました。

      
       三日月とマンタ―ホルン

                   「キャンドルマッターホルン」と呼ばれる、頂上だけが朝日に照らされ、赤く輝く様子。この後、20分ほどで山全体が紅に染まりました

   
    スマホで撮った写真ですが、まるで絵葉書のように撮れました

 翌日は、今回の一番の目的「ちょっとしたトレッキング」です
ツェルマットから登山電車でゴルナーグラート駅(3089m)まで登り、リッフェルベルク駅まで2時間弱、登山のガイドさんと一緒に下る、というもの。途中、小さな湖リッフェル湖に映る「逆さマッターホルン」を見たり、薬草やハーブになるお花を見たり、まさに好天に感謝する時間でした

    
リッフェル湖の「逆さマッターホルン」 この後、3,4機飛行機が飛び、飛行機雲がマッターホルンと青空に映えました

 このトレッキングルートは有名で、you tubeにもたくさんあがっています。ガイドブックでも必ずといってよいほど紹介されていますが、そこには「スニーカーでも全く問題なし」というふうに書かれているものが多いのですが、私はやはり、スニーカーであっても、それほどグリップの効かないソールのものだとすると、この下り坂のルートは危険だな、と思いました 私と夫は、くるぶしまでサポートするような登山靴ではなく、今回はスニーカータイプの「登山用の靴」を持参し、この日はそれを履いていました。でも、何と言っても「下り」ですからね…
 確かに登りとは違い、あまり呼吸も上がらず「辛さ」という面では楽ですが、下り膝に負担がかかりますし、慣れないと大変です。その上、もし、滑りやすいソールのスニーカーでは、好天であっても、ハラハラになる そんなことを思いながら歩いていると、まさにガイドさんから同じようなお話がありました。
 その後、もう少し歩きたかったなあ…の気分ではあったものの、リッフェルベルク駅から下りの登山電車でツェルマットに戻り、今度は別の展望台「スンネッガ」に行きました。展望台があるスンネッガまでは、ずっとトンネルの中を通る電車でね。山々を眺めながら昼食 ホテルに戻ってからは、夕焼けに染まるマッターホルンを眺める…という至福の時間でした

 さて、次の日は強行軍。ツェルマットに別れを告げて、フランス領のシャモニーへ。
だんだん見慣れてきたとは言うものの、スイスの風景はどこを切り取ってもウットリです 遠望する高い山々、牧草地に放牧されているカウベルを付けた牛達(観光用に、決まったところで放牧されているわけではなく、本当に夏のシーズンは山にいるのだと聞き、驚きました 私はてっきり、観光客を意識して、わざわざ首にカウベルをつけさせ、放牧しているのじゃないのかな?なんて思わないわけでもなかったので)、点在するシャレ―… 標高が下がると、ワイン用のブドウ畑、リンゴやアンズの果樹園、飼料用のトウモロコシ畑、等々、すべてがカレンダーや絵ハガキのよう

 シャモニーにはお昼前に付き、ランチの後、今度はモンブランを見に「エギーユ・デュ・ミディ展望台」へ。ここは、途中で一つ乗り継ぎをし、ロープーウェイで標高1000m程度のシャモニーの町から、一気に3842mまで登ります。すご~く早く登れますが、スイスの登山電車のような風情はないなあ、などと思ってしまいました ロープーウェイの駅は世界中からの観光客でごった返していて…並んでいても割り込まれたり、暑かったり、少しうんざりしてしまいました。

    
 エギーユ・デュ・ミディ展望台から見たヨーロッパの最高峰「モンブラン」。山頂は雲の中

 でも、もちろん上に着くと、そんな気持ちも一気に吹っ飛ぶ ただ、ロープ―ウェイを降りると、一瞬フラリ。4000m近い高度はなかなか大変で、幸い頭痛はしませんでしたが、時々フワフワします。数か所ある展望台を巡るため、階段を登ったり下りたりするのですが、登りの時は2,3段上がると、すぐに息が切れる…
 残念ながらモンブランの山頂は雲に隠れてはいましたが、展望台からの360度の大パノラマ。5000m近い山々とたくさんの氷河は息を飲む眺望でした。

    
 モンブランの反対側 グランドジョラスの方向 氷河にはクレバスがはっきり見えます

 じつは、この後が大変でした
下りのロープーウェイも大混雑。シャモニーで一泊するのであれば「これですばらしい一日が終わった」となるのですが… 私達はシャモニーに下りてきた時、すでに3時を過ぎていて… それから、グリンデルワルドに移動の予定 もと来たフォルクラ峠を越え、そこからまだ延々と行かなければなりませんでした。そして、そんな過酷な道中で、最初の方に書いた「ゲリラ豪雨、云々」となったのでした

   

 でもね、見てください、この二重にかかった虹を スイスのトゥーン湖という湖の横を走っている時、この虹が見えてきました。肉眼では、もっとはっきり2つの虹が湖面からまるで這い上がっていくように、半円形に伸びていて… こんなすごくきれいな虹は今までに見たことないこれは吉兆か と思っていたところ、その20分後に渋滞となり、様子が不明。やっと状況がわかった時には「先の道が急な豪雨で通行止めになり、グリンデルワルドまで車では行けない」となり 
 バスの外は豪雨となり… それでも幸いなことに、停車してしまった少し手前の町、インターラーケンという町まで戻り、そこのホテルに泊まれることになりました。無事にホテルにたどり着き、部屋に入ったら11時半でした でも、泊まる所も確保され、最上の幸運

 幸い、雨はあがり、朝になると青空。道は復旧しないため、車で出発することは出来ませんが、臨時列車が出ることになり、予定変更をし、鉄道でグリンデルワルドへ
 そして、その翌日は天候も良く、問題なくユングフラウ・ヨッホに向かいました。
鉄道の世界最高地点(3454m)の駅、ユングフラウ。ここは、亡くなった両親達4人も訪れたところです。登山好きだったにも関わらず、いつも北アルプスに行くと高山病に悩まされた私の父は、母とユングフラウ・ヨッホに旅行した時もひどい頭痛で大変だった、と母が話していたことなどを懐かしく思い出しながら、リンツのチョコレートショップや、電飾ピカピカの氷像など、すっかりテーマパーク化された駅の中の施設を歩きました。この中でいると、そこが雪で覆われた高山にあることを忘れてしまいそうでした、ハッハッハ
 でも、一旦外に出て、スフィンクス展望台に向かえば、そこは別世界。目の前には、世界最大最長のアレッチ氷河。アイガー、メンヒ、ユングフラウの山々… 「絶景」「圧巻」「息を飲む」こんな言葉、すべてがピタリと当てはまる風景でした。

    
クライネシャイデック駅。電車の乗換駅であり、たくさんのトレッキングコースの起点ともなっています。後ろに見える山、左からアイガー、中央がメンヒ。右側、半分欠けているのがユングフラウ 写真を撮っている箇所に、数々の山岳小説を残した新田次郎氏の名前が刻まれた小さな碑がありました。ここからは三山がよく見えます。

 「幼児教室マナーズ、お疲れ様」の記念に、夫がプレゼントしてくれた今回の旅。どの瞬間も泣けてくるほどありがたいものでした。
 何度もツェルマットに訪れても、1度もまともにマッターホルンの姿を見られなかった、という人もたくさんいる、と聞きます…
 その日、その時間の風の状況に大きく左右され、頻繁に運行が取りやめられる、というエギーユ・デュ・ミディのロープ―ウェイ。お天気は良いのに、風が強くて登れなかった、という人も…
 登山電車でユングフラウ・ヨッホまで行けても、展望台のまわりは悪天候で真っ白。何も見えなないまま下山を余儀なくされた人…
 そんなことを知るにつけ、今回のように、大小いくつかのトラブルに見舞われても、そのつど上手く解決し、すべての旅程を全う出来たということに、ただただ感謝です
 決して大袈裟ではなく、これから生涯、この幸運に満ちた旅行であったことに感謝して、もっともっと万事に努力精進して生きていこうと心から思う旅でした。

 人の旅行の話は鬱陶しいかもしれませんが 次回は「スイスで知った、スイスのいろいろ」についてお話をさせてください

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8月10日、じつは、今…

2024年08月10日 | 楽しいお話し

 8月10日。学校の夏休みも、そろそろ半分を迎えたでしょうか?
我が子の学校生活が終わり、親から独立していく年齢になると、「季節の移ろい」を感じる基準がとても曖昧になるものです
 中間テストや期末のテスト、様々な恒例の学校行事、春、夏、冬の長期のお休み、始業式や終業式、等々… 親というものは、いかにそういう我が子の学校絡みの出来事を通し、季節を感じていたことか! それを実感するものです 
 子どもが巣立ってしまうと、ほとんど季節感のないルーティンの毎日が続き、それをこなしていくうちに1年がめぐっていく はっはっは、笑えますよ
 朝、我が子がお弁当を受け取る時の様子や、「行ってきます!」の声でその日の子どもの気分を憶測したり… 親に反抗的だったり、無関心を装う時期の子どもの、ちょっとした笑顔に安堵したり…
「ああ、子育ては本当に大変だ」我が子をこよなく愛しながらも、ちょっぴりタメイキをつく思いを味わう年月は永遠には続かないもの。
 そんなことは重々承知しているけれど、その渦中にいる時には「子育てを終えたら、どんなにホッとするだろうか」と、そんな日が来ることを願う日もある…
 でも 人生100年などと言われるようになった今、子育てに四苦八苦する年月は、100年近い人生の6分の1程度、の期間でしかありません
 もし今、あなたが子育てに苦労していたり、重ーい疲労を感じているとするならば、どうぞゆっくりぬるめのお風呂に入り、お風呂上りには好みの飲み物を飲み、そして深呼吸をして、気分転換をしてくださいね そして、翌日には笑顔で、我が子に向かう鋭気を養ってください

 8月10日、この日の「クラブマナーズ・ニュース」じつは、8月10日、私は旅行中です。
 何のトラブルもなく旅程が順調であれば、8月10日の土曜日は、朝、サンモリッツからグレーシャーエクスプレスと呼ばれる列車に乗って、ツェルマットに向かっているはず

 夫は、スキューバダイビングのインストラクターでもあり、若い頃から長年「海派」でした。なそんな夫とは、昔から「行きたいところ」という話題ではモルディブやグレートバリアリーフは頻繁に出ていましたが、なかなかヨーロッパアルプスの話しにはなりませんでした。
 一方、みなさんのご存知の通り、山派の両親の元に育ちました。
幼い頃から「マッターホルン、ていうのは英語の名前なんやで。イタリア側からもマッターホルンは見えるやろ。そのイタリアではチェルヴィーノって呼ばれてるんや」とか、「アルプスって言ったらスイスやと思いがちやけど、イタリアにまで続いててな。イタリアのアルプスにはドロミテって呼ばれてる岩ばっかりの山脈があるんやすごいで針山みたいな山が連なっててな…」などなど。山関連の話題は豊富でした。小さかった私でも、時々地図帳を広げ想像を膨らませ、ワクワクしたものでした。
 残念ながら、若年性のパーキンソン病を患った父は、50代ですでに普段の歩行も困難になり、夢見たヨーロッパアルプスのトレッキングは叶わずじまいで他界しました。そのことを思うと、普通に元気に過ごせていることの尊さを、ひしひし感じます

 夫は、学生時代は世論や石垣島に通いつめ、30代には4年近いインドネシア駐在。頻繁にあった海外出張も、海の美しい地域が多かったため、ある程度「海には満足」したようでした。
 そんな夫が、ひょんなことから上高地に魅せられて以来、山派デビュー。ランニングやトライアスロンで脚力、体力共に強靭だったことが幸いし、その後は穂高連峰や立山、劔連峰を楽しみました。まだ現役の夫は忙しく、なかなか実際の山行には至りませんが、今では一緒に山の番組を観たり、山の道具を見に行ったり…と、山派を謳歌しています。
 そして、今年からの私は… 「受験期が目前に迫って来る8月。子ども達の志望校と願書のことで頭がいっぱい。他のことは考えたくない」ということではなくなり、春、夫から「スイスアルプス、見に行かへんか?」という提案に飛びつきました 

 何と言っても自他ともに認める雨女の私です。天候ばかりが気になっています
まあでも、万事、なすがまま、ありのままを「吉」と受け入れ、楽しんでまいります 次の8月20日の回には、少しスイスのお話をさせてくださいね。

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オリンピックで感じること

2024年07月30日 | 楽しいお話し

 パリオリンピックが始まりましたね
大雨の中での開会式。世界から訪れる観戦客を見込み、大きな投資をしたにも関わらず、世界を巻き込むコロナ禍で無観客開催を余儀なくされたTOKYOの涙雨 だったのかしら…と、多種多様、自由の国フランスを象徴するような独創的な開会式を眺めました

 私は、長年ブログを書いてきました あらためて調べてみると、私が「まどか先生の ママ達のおやつ」の前身である「まどか先生のひとりごと」を書き始めたのは、2004年の8月でした
 なんとまあ、20年間も書いている、ということですね それはそれは膨大な量の「持論の展開」です。お恥ずかしい限りです
 当時は、私はまだ40代。2人の子ども達も、高校生と中学生。「妻」と「母」と「まどか先生」を一心不乱にやっていた、という訳です、はっはっは 自分を揶揄するつもりはありませんが、今になって振り返れば、たくさんの空回りもありましたよねえ… まっ、そんなものでしょうが
 数多の反省は今日は横に置くとして… 夏季と冬季、2年に1度オリンピックが巡って来ると、私は「世の中の流れ」「世界の移り変わり」「人々の感覚の変化」に気づかされます

 まさに、私のブログ「まどか先生のひとりごと」の初回の話題は、2004年のアテネオリンピックのもの、でした。
 競泳のメダル授与式での出来事。メダルを授与するプレゼンターは、日本の往年の大選手。「IOCの偉い人」になった彼が金銀銅の3選手にメダルを授与した後、なんと、選手に声をかけることもなく、すたすたと帰ってしまった… そのことに違和感を感じた私が「プレゼンターにも関わらず、心がこもっていない」と憤慨している内容でした その方も、すでに故人ですが。

 私はその後のオリンピックでも、何度かブログのトピックに選んでいます。そして、そのトピックの中で、私は感動だけではなく、幾度も「私の思いは~~なのに…」「私はこんなふう感じ、疑問に思った…」のように、ネガティブなことも書いています
 内容はそのつどいろいろですが、概ね私が書いているネガティブなことは…
「選ばれし選手達は、日の丸を背負って出場している。自分の意思で大会に臨むのとは訳が違う。そういう国を背負い、代表して出場している立場なのに、インタビューを受けた時、多くの選手達が口にする言葉に大きな疑問を感じる。多くの選手達は、こんな風に答えることが多くなった。『せっかくオリンピックに出場するのだから、十分に楽しみたいです!』と。なんという不謹慎な!もっと自分の置かれた立場を再認識し、使命感と責任感を持って、必死になるべきだ」
というもの。
 当時の私は、大真面目にそんなふうに感じていたのですね

 じつは… 私がそのように感じるに至る「芽」は、1964年の東京オリンピック、そして、その4年後のメキシコオリンピックの出来事にさかのぼります。
 1964年、東京オリンピックの年、私は小学校1年生でした。その前の大会で優勝した男子マラソンアベベ選手は、すでに有名人で、小1の私もよく知っていたのでした。
 エチオピア代表、裸足のランナーで有名になったアベベ選手は、やはり東京大会でも優勝。
そんな彼に続いて競技場に戻ってきたのは、日本の期待を背負って走っていた円谷幸吉選手。誰もが銀メダルだ!と歓喜に湧きました しかし、3番目に競技場のトラックに入ってきたイギリスの選手に抜かれ、3位となります。マラソンの中継に釘付けになっていた日本国民の目の前での劇的な出来事でした…
 そんな円谷選手は、「次のメキシコオリンピックでは雪辱を果たします」と国民に約束するのでした。彼の思いはどんなものだったのか?自衛隊体育学校に所属していた彼の「日本の代表」という思いは、どれほど重かったのか… 
 誰もが期待したメキシコ大会での円谷選手の雄姿 しかし、彼はメキシコオリンピックの前年には椎間板ヘルニアを患い、その後、アキレス腱の手術も受けるのです。

 1968年、メキシコ大会が開催される年のお正月明け。
万全の状態でオリンピックに臨めない自分を意識し、「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。」
 自衛隊の上官宛には「…何もなし得ませんでした」「…お約束守れず相済みません。」という遺書を残して自殺。
 この事実は、大々的に報道もされました。そんな報道やニュースを見、両親からも教えてもらった私は小学校5年生。何事をも敏感に感じ、真剣に考える「社会派の卵」になっていました…
 
 私が憤慨し、持論を展開するブログを書いていたのは、このメキシコオリンピックから30余年経った、私40代。
 円谷幸吉氏のような深い思いを持ってオリンピック出場にかけていた日本人がいたにも関わらず、同じ日本人として「楽しむ」とはなんと不謹慎な そう思っていたのでしょう…
 10歳だった私が受け止めた「円谷幸吉選手の死」。「国を代表して」や「日本人として」という大きなテーマ。当時、私の心の中には山ほどの思いや疑問、があったにも関わらず、このことについて学校の先生や友達、親や叔父叔母と話した、という記憶はありません。だからこそ「しこり」のように心に残ったのだろうなあ… 今になって、そんなことを考えています。

 そして、それからまた20年が経過 私は60代も半ばを過ぎ、丸くなったのでしょうかね
今では「オリンピックを楽しみたい」「この機会を楽しみます」という若い選手達に何の違和感を持つこともなくなりました。むしろ「是非ぜひそうしてくださいね あなたの努力の上に勝ち取った、この代表と言う立場なんですもの」と、テレビに向かって笑顔でエールを送っています。選手自身も悔いなく戦い、その上で満足のいく成績を残せれば良いな、と。もし結果が出せなかったとしても、それは間違いなく「意味のある敗北」であり、あなたの宝物になるのだ、と。そして、あなたのがんばりが、それぞれの国の国民の喜びとなり、また、世界の人々の記憶となり、何らかの意味を持つものになるのならば、こんなに素敵なことはない、と

 閉会まで、多くの選手達が死力を尽くして挑む姿にエールを送り、この大会の無事を祈ります

 最後に。
みなさんがよく知るオリンピアンについて、私が2012年3月6日に書いた まどか先生の「ママ達のおやつ」があります。せっかくなので、ご紹介させてくださいね。
 「人の心は見えるもの」

 

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「木・樹」の効果を感じる

2024年07月20日 | 楽しいお話し

 新学期が始まり、GWが終わって、いよいよ本格的に新しい学年に落ち着いたかな?などと思っていたら、あっという間に7月も半ばを過ぎ、夏休みがやってきました
 歳を取ると、1週間の流れ、ひと月の流れをとても早く感じます。よく人から「お仕事をされていると、それぞれの曜日にすべきことがあり、それを一生懸命にこなしていると、もう週末?!なんてことになりますが、お教室を終えられると時間に追われることもなくなって、1日、1週間が長く感じられるようになったのではありませんか?」と言われます。そうそう、私もそんな風になるのだろうなあと考えていたのですよ。
 でも 不思議ですねえ…  時間に追われていた時のほうが1週間を長く感じていたように思います どうしてなのでしょうねえ…私自身でもよくわかりません。

 さてさて、今日は「木・樹」のお話し。
ご存知の通り、雨天でない限り、朝のウォーキングが続いています「この暑い中?!」と思われるでしょうが、じつは1時間半歩いている中で、陽ざしを浴びて歩いている時間は15分もないかもしれません。
 幸いなことに、ルーティンの歩くルートはビルの陰だったり、並木の木陰だったり…で、暑さそのものはありますが、陽ざしによる猛暑を感じることはほとんどないのです。これは、とってもありがたいことです
 とは言え、1週間ほど前から、ウォーキング中、めっきり人に会わなくなりました 出勤をする方々は四季を通してルーティンで行動されるわけですが、早朝のランニングやジョギング、ウォーキング、犬のお散歩、というお仕事以外の方々は、夏の季節には「それぞれの考え方」によって、屋外での時間に制限をかけたり、変更をされたりしているようです。
 今まで見かけていた人に会わなくなるのは、ちょっと寂しく感じているのですが、それも仕方のない事ですね

 話を元に戻しましょう。
私が関東に移り住んでから、今年で41年になります。最初の3年間は千葉県の流山市というところに暮らしていて、その後の27年間は横浜市。今でこそ流山市は、成田エクスプレスの沿線となり、「おおたかの森」に代表されるような若いファミリー層の憧れの町になりましたが、私が住んでいた40年前は、首都圏とは思えないような「静かな郊外の町」でした
 私が関東に移り住み、一番最初に感じたことは「東京は、町中でもとても緑が多いところなのだな」ということ。何といっても、東京駅の目の前には皇居があり、広大な緑が広がります。そして、仙洞御所(東宮御所)、神宮外苑、代々木公園、新宿御苑、上野恩賜公園、etc.etc.
 私が生まれ育った大阪は、東京に比べると都市部は狭く、本当に緑の少ない町だと思います 大きな公園もたくさんあるわけではありませんしね…
 大阪で普通に住んでいて、町中の樹木から季節を感じるというようなことは、ほとんどなかったように思います 町の中心、御堂筋のイチョウ並木は有名ですが、何と言っても御堂筋は人が歩くための道とは言えませんからね。道幅は約45m、6車線の日本一の一方通行。交通量の多い道のイチョウの木は、歩きながら愛でる存在ではないでしょう。

 とにかく、私は関東に来て、あらためて「人は木、樹木によって、知らず知らずのうちに心を癒されているのだなあ」ということに気づいたのでした
 比較的、イチョウは、私達にとって馴染みのある樹木で、多くの人が「これはイチョウの木だ」と認識しますね。もちろん「桜」は言うまでもありません。でも、ポプラやケヤキやプラタナス、等、比較的街路樹によく使われる木であっても、私達はその並木道を歩いたとしても「これは〇〇の木」と認識しているわけではないし、毎日のルーティンで街路樹のある道を歩いていたとしても、その木が何と言う木なのか?なんて、考えもしない   残念なことですが… 本当は、その毎日通るその道に、木が植わっているか植わっていないかでは、私達の気分は大違いなのに、です
 そうです、私自身もそんな一人でした。でもね、ウォーキングをするようになって、意識が変わりました バッグを持つわけでもなく、重い荷物を持つわけでもなく、次の予定の時間に急かされて駅に急ぐのでもない。ただ、まわりの風景やいろいろなものに目をやり、感じたり考えたりしながら歩く、歩く
 すると、自分が歩いている道の街路樹や、公園の中の樹木に自然と目が行くようになりました。そして40年ぶりに?!あらためて気づかされました。「ああ、私達は『木』というものに、とてもとても癒されているのだなあ…」と 
 その「癒し」は、植わっている「樹木」からだけではなく、「木」というもの、からも感じられます。例えば、国立競技場に使われているたくさんの「木」も然り、です

 世界中が経験した「コロナ」という艱難によって、結果的に散々だった2021年(2010年の予定)の東京オリンピックでしたが… あれから3年、私はほぼ毎日、国立競技場を見ながら、「こんなにも素敵なものが残ったのだなあ…」とうれしくなっています
 古い国立競技場を壊し、新しく建設される競技場が、2012年、一度はザハ・ハディド氏の未来的?なデザインに決まったものの、その後、その案が白紙に。そして「杜のスタジアム」をコンセプトとした隈研吾氏デザインの現在の国立競技場が建設されました。
 新しいデザインの選考から、決定、着工まで、メディアで頻繁に取り上げられた「木にこだわったデザイン」にも関わらず、私はさほど特別の感情を持つこともなく、工事が進んでいきました。完成まで、幾度となくその周辺を歩き、目にしていたものの「へえ、びっくりだなあ。あんなところにいっぱい木を使ってるんだあ…」程度にしか感じてはいなかったのでした
 でも今、ほぼ毎日のようにこの競技場の下(周り)を歩き、一周する間、驚くほどたくさんの箇所に使われている「木」を見るにつけ、その「木」がもたらしている効果、パワーというものを日に日に強く強く感じています
 そして、その競技場と「対」とでも言わんばかりに、競技場の千駄ヶ谷門の正面に建てられたホテル。ふんだんに木を使い、曲線を重視して建てられています。本当に美しいのです…

 よく木造住宅のCM等では「木のぬくもり」というフレーズが使われますよね。本当にそうですね。
 昭和の時代によく使われていた「コンクリートジャングル」という言葉。温かみが感じられないこと、そのことからくるさびしさなどを表現した戦後の新語だったわけですが、確かにその対極にある「木」を使った建物には、あたたかさ、優しさ、包み込む空気を感じます
 でもね、私は今、早朝の町を歩いていて、あたたかさというよりも、むしろ木から大いなる「清々しさ」「爽やかな空気」を感じています あたたかさ、ぬくもりではありませんが、決して「冷たさ」ではなく、爽快感と言うのでしょうね

 写真を4枚用意しました。2枚は「オマケ」です。
 1枚目は、まさに今回話題にしている国立競技場と、三井ガーデンホテル、双方が映った写真です。

    
    

 2枚目は、青山墓地の中央を貫く「桜並木」。
都心のど真ん中にあるとは想像し難い、まるで森のように見える並木です

    


 そして「オマケ」の2枚です。木、森そのものの真髄、とでも言うのでしょうか
コロナが始まってまもなく、久しぶりに上高地に行った時の、早朝の2ショット。歩きながら、目の前に現れたこの風景に息を飲みました。

    

       

 いろいろと物議をかもしている「大阪万博」。
そのシンボルともなる巨大な木の大屋根「リング」。最初、このニュースを見た時、私は「本当に無駄遣いだよなあ… こんなにお金をかけて、開催後は解体するのでしょう?」と大きなマイナスイメージを持ったものでしたが… 
 図らずも、朝のウォーキングから「木」の持つ意味「人を魅了し、人を癒す力、パワー」を実感し、あらためて「是非とも大阪万博の会場で、木の大屋根、リングを見てみたい 実際に行って、その中に立ち、深呼吸をして感じてみたい」とワクワク、考えるようになりました。
 大阪は、私と夫の生まれ育った郷里とは言え、今では4人の親達は亡くなり、実家もなくなり、その上、私の実家のほうでは、叔父達が墓じまいをしてしまった今、すっかり大阪は遠いところになってしまいました 母の生前は、毎月2泊3日で帰省をしていたのにね、笑。
 でも、是非、ホテルをとって、万博会場に通ってみたいと思います。その木の大屋根を見て、感じるために

 

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言葉の発達で考えること

2024年07月10日 | 考える ひとしずく

 孫が2歳になり、どんどんと話す言葉が豊富になってきました
我が子を育てている時は、24時間体制で母親をしていたはずなのに、きっと気持ちの余裕もない上、目の前のことを主観的に見ながら子育てをしていたのでしょう 孫を見ている「祖母」の立場の今ほど、いろいろなことを考える時間も、余裕がなさすぎて感じることも少なかったように思います
 まあね、もっとも、当時には「まどか先生」としての30年間の経験があたわけではありませんからね。今のように、孫を含め、「子ども達の一挙手一投足」に目が留まり、感じ、響くことはなかったのも仕方のない事ではあります、ふふふ

 先日、「とても面白い」と感じたことがありました
前日から発熱し、保育園を休んだ孫を、午後から半日みた時のことです。
 幸い熱も下がり、少し楽になったのか、孫はたっぷり、しっかり、デュプロブロックで遊びました。そして、夕食の時間になりました 遊んでいる孫に「キッチンでご飯の支度をするから、その間、一人で遊んでね」と伝え、娘が支度をしたメニューを整えた後、声をかけました

 「ご飯の支度ができたよ ご飯、食べようよ」すると、孫が返事をしました。
 「たべなーい」いつもは大食漢。微熱のため、食欲があまりないのか?と思いつつも、遊び足りないから「食べない」といったのかもしれないなあと思い、もう一度声をかけました。
 「おかあさんがね、あなたの好きなおうどんの支度をしてくれてるのよお。お豆腐もチキンもあるわよ。おいしいよー 食べたくないの?」と。
 すると、今度は「たべなーい。たべたくないよー。」という返事。
その返事を聞いて、私は考えました・・・「たべなーい。たべたくないよー。」

 まだ2歳になりたてで、やっといろいろと話し始めた幼い子どもではあっても、彼の頭の中には、すでに「たべない」というボキャブラリーはあるのだな、と。
 でも、彼が「たべない」と言った後で、少し間をおいて言った「たべたくないよー」という言葉は、明らかに声のトーンも、言葉の滑らかさも「たべない」という言葉を発した時とは違いました

 そうです 彼が「たべなーい」の言葉に続けて言った「たべたくないよー」は、私から彼に対して言った「食べたくないの?」という問いかけの言葉を真似て、リピートした言葉だったのでではないか?いや、きっとそうだ

 ごめんなさいね… いったい私が何を言いたいのか?が、よくわからないかもしれません
それでは、違う表現をしてみます。

 食べない=I don’t eat. 食べたくない=I don’t want to eat.

「食べない=I don’t eat.」は、食べるeatという行為をしない、という意味ですね。
それに対して、「食べたくない=I don’t want to eat.」です。この表現を使う時には、語り手の意志、eatという行為をしたくないという思いを表しています。

 孫が現時点で話せている他のボキャブラリーから推測しても、また、この時に「たべたくないよー」と言った彼の声のトーンからも、彼にはまだ「自分の意思を言葉に込める術を知らない」ということが明らかでした。
 つまり、彼が発した「たべたくないよー」は、I don’t want to eat. と言ったわけではなく、単に私の言葉を真似てリピートした、したかった、ということ。
 こうして、彼はその時、「たべたくないよー」という、「don’t want to」という意志を表す言葉を新たに学習した
 ああ、幼児期は、こんなふうに言葉を覚えて、話せるようになっていってるんだなあ・・・何だか、私は大きな発見を「自分でし得た」ことに感激してしまいました

 この「~たくない」という表現を理解し、会得することによって、これから彼は「しない」だけではなく「したくない」、「行かない」だけではなく「行きたくない」という表現をしていくのだろう、と思いました
 子どもの話す力の成長って、すごいと思いませんか?
小学生くらいになれば、母国語力は向上してきます。当然、大人は自由自在に母国語を話すようになります。(まあ、母国語力でさえ、人によって「高い、低い」はあるとは思いますが、汗)そう、母国語を会得した後で学ぶ他の言語は、母国語に置き換えて学んでいきます。
 でも、幼い子ども達、真っ白な子ども達は、言葉そのものを、まさに「聞いて」「真似て」「覚えて」「使う」ようになっていく!

 しつこいですが 私は「きゃーーーーーーすごーーーーい」という思いになり、病み上がりとは言え、少しでも夕食を食べさせるほうが良いよな、なんてことはそっちのけで、「そっか、食べたくないのか。食べたくないのね。わかったわかった」と笑顔で応え、「〇くんは、食べたくない♬ 〇くんは、食べない 〇くんは、食べたくない♬ 〇くんは、食べない」と節をつけて歌いました。
 孫も、何だかよくわかんないけれど、ばばちゃんは上機嫌だとわかり、一緒に彼も「たべない♪、たべたくない」と歌い…

 ほんと、我が子の時には、こんな余裕というか、悲壮感のない子育ては出来なかったですねえ… いつも、良く言えば一生懸命。悪く言えば、理想を追い求め、子どもに自分の好みを強いていたんだなあ、と振り返り、苦笑いです

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前向き!の心意気

2024年06月30日 | 考える ひとしずく

 雨が降り続く… というのが「梅雨」のイメージですが、これからは、梅雨も様子が違ってくるのでしょうか?毎日、毎日、しとしと降り続く雨の中、傘をさして出かける、というのはうれしいことではありませんが、だからと言って、まるで夏のような暑さの日や台風並みの豪雨など、気候変動による新手の梅雨の様子にはまだ慣れず、不思議な感覚です

 私が雨女であることは周知のこと。そんな私は、昔から「傘」が好きです
若い頃は、いろいろな色合い、大きさの違いやカーブの違う傘を数本持っていて、その日の気分によって使い分けていました そんな数本の中で、私の一番のお気に入りは… 単なる無地で、とりたてて特徴のない傘。「お嫁入り道具」(もう、死語でしょうか、笑)の一つであった、真紅のフォックスの傘でした。傘と同色のタッセルがついていて、クルっと巻くと、ステッキのように細くなる…英国王室にも愛される、というこの老舗の傘は良く使いましたねえ。豪雨の日にさすと、傘から水漏れするまで使いました

 でもね、身長の低い私にとって、長傘は電車の中では悩みの種。腕にひっかけていても、その物によっては、傘の先っぽが床についてしまう 結局、ここ10年ほどは、長い傘は「持っている」だけで、たとえすでに雨が降っていても、出かける時には大抵、折り畳み傘ばかりになりました。
 そんな私が先日、とってもとっても久しぶりに、長傘を購入 風にも強いように、骨の数が多めで、そして鮮やかなオレンジや黄色、朱色、というカラフルなデザイン。買い物中でもなく、ただ歩いている時、強烈に目に留まった傘でした いかにも「気分をアップさせる」雰囲気に魅せられたのです。なので、まるで子どものように「この傘を使いたいから、雨が降れば良いなあ」なんて思っていました

 さて、みなさんは「ヘバーデン結節」をご存知でしょうか?
これは病気、というほど深刻なものではないのですが、40歳を過ぎた女性が発症しやすい、と言われています。症状としては、手の指の第一関節の部分が膨らんできて、たいていが痛みを伴う、というもの
 残念ながら、根本的な治療方法はなく、痛みがひどい時には鎮痛剤で痛みを軽減させる、という程度。膨らんでしまった関節は、もとに戻ることはありません

 10年ほど前、いつも一緒に旅行に行っている友人が、このヘバーデン結節になりました。私はそれまで、この病や症状については全く知りませんでしたが、仲良しさんが罹ったことで知ることになったのでした
 罹患した友人のMさんは、よくジュエリーのフェアにも来てくれます 少しずつ変形してくる関節を見て、私のほうが密かに落ち込んでいたのですが、彼女はいつもこんな風に言っていたのです。「心配しないでね 指がなくなっちゃうってわけじゃないじゃない?痛いのには閉口するけど、でも、その痛みだってずっとずっと我慢できない痛さか?と言われればそうでもないのよ。問題なし
 そして彼女は、ジュエリーのフェアに来ると、ネックレスやピアスよりも、ずっとずっとリングに興味を持って、いろんなリングを試してくれます
 そんな彼女のネイルアートは、いつもとってもとっても素敵でね。私はMさんの心意気、前向きな姿勢に感動していました

 そのヘバーデン結節。じつは、私も3年前に罹患。
最初は右手の中指の関節、次は薬指の関節に強い痛みた出てきて、物を握った時や、包丁を使う時に、時々不便を感じるようになりました 第一関節は、みるみるうちに膨らんできたのでした。
 ここ半年は、左手の方にも痛みが出てきたので、そろそろ、左の中指や薬指の第一関節も膨らんでくるのでしょう
 さあ、今度は私の番です
私はいつも、両手の薬指にリングをしています 右手と左手、気分で同じリングを付けているわけではなく、私の中では「右手用の指輪」と「左手用の指輪」があります。右手につけるリングのほうがメイン、主役級、というのでしょうか なので、その日の装いにピタリと来るものを選んで右手に付け、左手はそのサポート役かな。
 コロナを期に、私はネイルアートをすることを止め、ずっと自分でマニキュアを塗っています。大好きな「OPI」というブランドのネイルカラー 約1週間で塗り替えます。

 もし私に、こんなジュエリーのエネルギーを信じる心と、指先のマニキュアの楽しみがなかったとしたら… きっと、膨らんでくる第一関節を眺め、悲しい思い、辛い思いをしていたのだろうなあ、と思います やっぱり、変形していく関節は、決して美しくはありませんからね…
 でも、そんな指を優しく優しく労わるように、いろいろな色、様々なデザインのリング達と好みの色のマニキュアとが私を楽しませてくれています

 金曜日、初めて新しい傘をさしました 足元の悪い日であっても、鮮やかなビタミンカラーの傘は、やっぱり私の気分をうきうき、華やかにしてくれましたよ

 気持ちの持ち方、って本当に大事ですね。
現実は好転はしない、かもしれませんが、それでも、悲しい悲しい辛い辛いと嘆くよりも、前向きになれること、前向きになれる意識を見つけ、自分を鼓舞し、清濁共に甘受し、毎日を過ごす 私はそんな心意気を大切にしたいと思います。

 さてさて、今週はどんな色のマニキュアを塗りましょうか?オレンジ色に近いピンクのマニキュア、という気分、かな
 明日の指輪は、どんな指輪にしようかな、ふふふ

 

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