環境色彩デザインを考える人へ

長年の経験と実践の中から、色彩デザインに役立つ情報やアイデアを紹介して行きます。

建築家と「白」について-対談を終えて

2011-07-25 18:52:05 | 対談・レクチャー
7月23日(土)、浜松にて開催されたuntenor主催/地域の関係学特別講座、“建築家と「白」について”という対談形式のレクチャーに登壇させて頂きました。土曜の午後、暑い中お越し下さいました皆様本当にありがとうございました。また学生も多く参加してくれましたが、前期末ということもあり相当疲れが溜っていた様子、それでも後で色々な感想を伝えてもらったこと、今後の大きな励みになります。ありがとうございました。

まず登壇者双方の色彩を軸としたプレゼンテーションのあと、それぞれの感想、対談、そして会場からの質疑という形式で進められました。あっという間の3時間半でした。

Studio Velocityのプレゼンテーションは、空間を生成するプロセス、形態を決定づける最終的な要因、白を選択する理由…それぞれが大変興味深く、お話を聞くほどに自身の方法論と意外なほど重なる部分や異なる部分が一つ一つ明確になっていきましたが、私が一番強く思ったのは、『建築家とはかくも孤独な職業である』ということでした。建築家の孤独、については以前内藤廣氏の著書で拝読したことに起因するのですが、最終的にはすべてを一人で判断しその責任も全て一人で追うものなのだという内容に、文章に触れた時以上の孤独の深淵を感じずにはいられませんでした。

Studio Velocityのお二人は建築を抽象化するための方法の一つとして白を扱っていらっしゃいます。何者でもなくあること、存在感の透明化。人工的な建築物は決して自然そのものには成りえないという思想、そして空間・形態の外形を仕上げ材で覆うことは生成のプロセスの否定に繋がりかねず、外部を表層的に扱うことは自然を含め周囲との調和を図ることとは単純に考えることが出来ないのでは、という相当な葛藤の様子が感じられました。

また、空間の成り立ちを詰めていく際、色という要素を考える・決める要因が止むを得ず後半の部分になってしまい、色が初期に介入するとどうしても空間や形態の生成があいまいになってしまう、とも考えていらっしゃるご様子でした。それは決して安易に検討を後回しにしているということではなく、竣工後にその場で発生する人の動きや季節の変化など、動く色が映える空間の創造に向けての大変丁寧かつ緻密な作業の集積が行われており、それが全体の構成を決定づけているのだという印象を持ちました。

つまりお二人の選択した白には、建築の抽象化を目指していると同時に相当量の情報が詰まっており、それがある強度を持って建築の成り立ちを支えている、と言えるのではないかと思います。

私は建築家の仕事が(Studio Velocityのお二人に限らず)限られた敷地の中で出来るだけ外に開いて行く・どこまでも外に繋がっていこうとしているものであるにも関わらず、その作業がそれほどまでに孤独なものであるということにどうしてもある種の哀しみを禁じ得ません。それが建築家の使命である、と言われればそれまでかも知れません。しかし、このような考えがおこがましいことは百も承知の上で述べさせて頂くと、環境色彩デザイン(あるいはランドスケープデザイン)という職能が建築に介入することにより、都市やまち、周囲の人々の思いをもう少し緩やかに・おおらかに繋ぐことができるのではないか、という希望を改めて強く感じました(もちろんアプローチしたところで拒絶される可能性も覚悟の上ですが…)。

内から外への思想を極める建築に対し、環境色彩デザインは広域な視点や場の特性から個(単体)へと的を絞って行く、というアプローチの大きな違いがあります。双方がプレゼンテーションを終えた後、建築は地・色は図、という構図が出来上がっていて、私自身はそのように捉えてはいませんでしたが、確かに方法論を追っていくとそのような位置づけになる、というようにも思いました(ずいぶんいい加減に聞こえるかも知れませんが…)。ですが質疑の段階で会場から『環境色彩の事例は色を扱っていながら地になり、背景になっているように感じる』という意見が出たときは、自身の仕事の目指すところが伝わったように思い素直に喜びを感じました。

色を扱う、ということはとかく足し算であると認識されがちです。環境色彩デザインにおいては、単なる配色の善し悪しだけではなく、総合的に見え方を整理するという意識がありますから、周辺との関係性においてまずは主張する必要がないのにいたずらに目立っている要素があればその“見え方を整える”こと=周囲に別の色を配することにより、違和感を和らげる工夫を考えること、それが計画の始まりです。
周辺環境の現状から色彩を考える段階では、白という選択肢が上がることは滅多に、否ほとんどありません。建築家が考える抽象化と、群における見え方を強く意識する環境色彩の抽象化の大きな違いがそこにはあります。

私は常々『建築の“色は”もう少し背景で良いのではないか』と考えています。それは決して『建築が背景で良い』、という意味ではありません。環境色彩デザインにおけるまちなみの形成を考えるとき、穏やかな調和やリズミカルな変化、時に新鮮な刺激。これらはすべて一つ一つの協調により生みだされるものであり、何がしかの調和感を形成するための工夫や配慮が必要です。

今回の対談では建築家の放つ言葉を以前よりも実感を持って理解できたように思います。では果たして自身が建築家に限らず、都市やまちの生成に係わる人々、そしてまち行く人々に対し響く言葉を発せられているだろうか…という点はまだ全く納得が行きませんし、恐らく自身にとっては永遠の課題であると思われます。

主催者の一人である403architecture dajibaの辻さんからは、このような問いも頂きました。
『白を(積極的に)使うことで、身体的な感覚としてどう感じるかというよりも、意味としてどのように作用するか、更には背景としての白の意味、に可能性を見出したい』。

…む、難しい課題です。考えた結果、白を積極的に使うことでどのような現象が起こるのかということを、抽象化のプロセスや結果としてではなく、また消去法的な選択の結果やミニマリズムの象徴(の代弁?)としてではない方法論の中で可能性を導き出したい、ということなのかなと受け取りました。

抽象化の概念としてではなく積極的に白を選択することにより、私は例えばその場にそれまでなかった“そこにあったはずなのに今まで気づかなかったまるで新しい余地”のような空間が生み出されるように感じます。それが住宅であれば住まい手の手や意志が積極的に加わること、また道行く人が自然に介入するような、思わず“何かを描きたくなるような創作の気持ちを掻き立てるベース”のようなイメージです。建築が、否建築そのものがとは限らず、よりARTに近接していくような感覚もあるのかも知れません。それが風景としてどのように見え、またまちなみとしての多くの人の共感や評価に値するものであるか否かを、私自身の側の可能性として考え続けて行きたいと思います。

こうして建築家と色について(公の場で)語るという自身にとっての初めての試みは大変刺激的で、多くの視座に富むものでした。このような企画を企てて下さったuntenorのメンバー、辻琢磨さん・吉岡優一さん・植野聡子さん・永井浩敏さんにこの場を借りて改めて感謝の意を述べさせて頂きます。お招き頂きまして、本当にありがとうございました。
また、地域の関係学=ひとの繋がりが地域を育てる、というセルフイントロダクションズのプログラムの一端として、微力ながらお役に立てたことを心より嬉しく思っています。この繋がりがどのように広がって行くのか、私自身にも大きく影響をもたらすであろうこと、大変楽しみにしています。

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