ケスケラの読書と旅の日記

主に哲学・思想関係の本について要約紹介します。書き方のスタイルごとにカテゴリーを変えています。

『存在と時間(一)』(その10) ハイデッガー著 熊野純彦訳

2016年10月15日 | 哲学研究
指示は存在論的に、しるしに対する基礎となるはずなのだから、したがって指示そのものは、それ自身しるしとしては把握されることができない。指示が手もとにあるありかたそのものを構成するのであるから、指示は手もとにあるものが存在的に規定されたありかたではない。(393頁本文)

ハイデッガーの言う「指示」とは存在論的概念である。対象Xが対象Yを指し示しているというようなことを言っているのではない。第一、ここでは対象などは全然問題とならない。そのような「目のまえ存在」が問題となっているのではないからだ。
前回、私は道具存在の目立たなさは、対象性を欠いているということであり、対象でない以上、空間といっては言い過ぎだが何かモヤーッとしたものであると述べたが、それを存在論的概念として明確にしたのが「指示」である。道具存在が「何かのために」存在しているということは、道具が対象存在ではなく、非対象の指示存在であるということだ。だから存在としてモヤーッとしている(対象性がない)のである。
したがって<しるし>もまた一箇の道具である以上、非対象の指示存在であるということだ。「指示は存在論的に、しるしに対する基礎となる」とはそういう意味である。
<しるし>が目立っているのは、<何か気懸かりなこと>全体が目立っているのであって、道具としての<しるし>が目立っているのではない。もし道具が目立つとそれは道具でなくなる。漢字が目立つと漢字でなくなるのと同じだ。
「指示」と<しるし>が似ているからといってごっちゃにしてはならない。前回読んだとき、私は<しるし>が指示するものと誤解していたが、それでは上の引用文は何を言っているのかさっぱりワケが分からなくなる。
「指示そのもの」は道具存在の存在論的性格であり、それは「目立たない」のである。
「指示が手もとにあるありかたそのものを構成する」とはそういう意味である。「手もと存在」とは非対象の目立たないあり方である。それを指示が構成しているということである。
だから「指示そのものは、それ自身しるしとしては把握されることができない」のである。
「しるし」は一箇の道具であるから、その道具を存在として成り立たせている指示が「しるし」でないことは自明である。
この短い引用文は、これまでのハイデッガーの道具存在に関する存在論的解明をふまえて記号<しるし>という道具の存在論的解明を行ったものとなっている。
だがハイデッガーはこの段階では「しるし」を与えられたものとして前提しており、なぜ「しるし」があるのかということは不問にしている。それはこれから解明されるのかもしれない。

世界内部的に出会われるものは、配慮的に気づかう目くばり、つまり考慮に入れることに対して、じぶんの存在において開けわたされている。(395頁本文)

ハイデッガーが「開示」とか「開けわたされている」とかいう場合は要注意であって、それは日本語の語感と異なり、決して明晰に目のまえにあるという意味ではない。誤解を恐れずに言えば、むしろ視野の周縁で手探りで出会うものを掴んでいるという感じである。それが「配慮的に気づかう目くばり」の意味である。決してジロジロ見つめているのではない。ドアの把手を掴むのは、部屋へ入るためであって、把手が何であるかを確かめるためではない。「目くばり」とは対象としての把手を見ているのではなく、「把手」→「部屋」の指示連関を見ているのである。対象ではなく「指示」そのもの。それが世界内部で最初に出会う自体存在だというのである。
すると「指示」そのものとはいったい何か。

しるしが「示すこと」、ハンマーを手にしてそれを「振るうこと」は、だが、存在者の属性ではない。(397頁本文)

ハイデッガーの考察は異様に繊細である。読み手としては、その繊細さにとことん付き合う覚悟が必要である。道具の存在性が「指示」だからといって、単純に道具が指示しているのではないのである。もしそうなら、存在論的解明はそこで止まるであろう。
「存在者の属性ではない」とは、道具自体が指示しているのではないということである。
すると「指示」はどのようにして可能となるのか。

適所性とは世界内部的な存在者の存在であり、それにもとづいて、存在者はそのつどすでに開けわたされている。(400頁本文)

また「開けわたされている」である。例えば部屋へ入るために意識せずにドアの把手を掴むとき、その把手は「開けわたされている」のである。そのとき、把手は所を得ている。それが「適所性」である。逆に把手が壊れていると、それはただちに押しつけがましい「目のまえ存在」となる。そのとき把手は所を得ないものとして「適所性」を失う。道具の「指示」が可能となるのは、この「適所性」だということである。妙な用語だがこれは、道具存在の存在論的規定である。
ハイデッガーは明言しないが、こうした考察が暗に主張していることは、逆に把手を金属製の事物として科学的に原子レベルまで分析してみても、把手の存在は絶対につかまえられないということである。なぜなら、そのとき把手は「開けわたされて」いないからであり、存在との交渉が失われているからである。
こうしてみるとハイデッガーの思考には非知への傾きといったようなものが感じられる。
それは別種の思考である。何かが対象として明晰になるというものではない。
だが明晰であるということは愚かしいことかもしれない。そのとき存在は失われている。
そうだ、明晰であるよりもむしろ真面目な思考というものが確かにある。
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