ケスケラの読書と旅の日記

主に哲学・思想関係の本について要約紹介します。書き方のスタイルごとにカテゴリーを変えています。

『存在と時間(一)』(その7) ハイデッガー著 熊野純彦訳

2016年10月12日 | 哲学研究
間違いない。『存在と時間』はゆっくり読むと凄いことになっている。
いまだかつて誰も問わなかったことを初めて問うているのである。そんなに簡単に読み過ごせるものではない。
『存在と時間』を読み過ごすとは、例えば、世界がなぜ存在するのかということについて道具存在の指示連関から世界適合性が閃いてくるということであっさり納得するような読み方である。いかにも分かったような説明だが、その背景にハイデッガーの抗議と苦悩があることを読み過ごしてはならない。
ハイデガーの抗議とは、世界についてカントもフッサールも誤解しているということである。

カントは「世界」を「現象の総合の全体性Totaltät」と規定し(中略)フッサールは「「世界」とは「可能的な経験と経験的認識の諸対象の総体Gesamtinbegriff」にほかならない」としている。(351頁訳注)

これに対しハイデッガーは、次のように存在者の総計としての世界を否定している。

そうした存在者を取りあつめてみても、その総計として「世界」といったものが生じるのではない。(348頁本文)

「そうした存在者」というのは「手もとにあるありかた」のことであり、それが「目のまえにあるありかた」より根源的であるとしても、それでもなお、「世界現象の存在論的了解に対してほんのすこしでも得るところ」(同上頁)がないというのである。せっかく道具存在というそれ自体で存在を示すものを見出したにも関わらず、世界がなぜ存在するのか分からない。これがハイデッガーの苦悩である。この部分を読むと、道具存在という偉大な発見ですら捨ててかえりみない思考の厳しさに心を打たれる。
ここで根本的な問題を提起してみたい。ハイデッガーの言う「世界」とはカテゴリー的存在なのか、それとも実存カテゴリー的存在なのか。
ハイデッガーは世界の多義性を四つに分類しながら、三番目の分類を世界の定義として使用すると述べている。その三番目というのは「前存在論的に実存的な意義」を有しているのであるから、明らかに実存カテゴリーであろう。
もしハイデッガーの言う「世界」が実存カテゴリーであるとすると、カントやフッサールのようにカテゴリーとしての「世界」ではないのだから、同じカテゴリーの存在者の総計では到達しうるはずがないのも当然である。
そこでハイデッガーは禁じ手を使う。事物(目のまえ存在)から道具(手もと存在)へ、認識対象からそれ自体の存在へ接近したにも関わらず、それらがカテゴリーとしての存在者である限り世界の現象(存在)に到達しないのであれば、現存在それ自体に目を向けるしかないということである。
これは現存在の存在体制(世界内存在)からすると本来不可能なことである。比喩的に言えば、見る存在者が直接自分自身を見ることが不可能であることに似ている。
だがたとえ不可能であっても、現存在が漠然とした存在了解をもつ限り、何らかの世界了解があるはずだというのである。


現存在は存在的に世界内存在によって構成されており、現存在の存在には、じぶんの自己についての存在了解が-どれほどなお未規定的なものであれ-おなじように本質からしてぞくしている。そうであるなら現存在は、世界をめぐるなんらかの了解を有してはいないのだろうか。(349頁本文)

現存在が配慮的に気づかいながら、手もとにある道具のもとに没入するとき、その没入の圏内で現存在自身が或る存在可能性を、つまり、配慮的に気づかわれた世界内部的存在者とともに、この存在者の世界性がなんらかの様式で現存在に閃いてくるような存在可能性を有しているのではないだろうか。(350頁本文)

この二つの引用①②は謎めいている。どちらも「有してはいないのだろうか」で終わっているが、内容はまったく異なる。私の過去の読書では、①にまったく気づいていなかった。その後の展開も②のみであるように誤解していた。
今回①を前提に②を読むと、明らかに世界性が道具存在だけで閃いてくるのではなく、現存在の漠然とした存在了解と<ともに>閃いてくるということが分かる。
このことは、いくら道具存在の指示連関を強調しても、それはカテゴリー的存在だから、それのみでは実存カテゴリーとしての世界に到達しえないことにハイデッガーが気がついていたということを示している。そこには溝がある。
だからと言って現存在の存在から直接世界を導出することもできない。それは漠然とした存在了解であり、<私が世界のなかに存在する>などと言ってみても無内容である。
そこで、現存在の存在了解と道具存在の指示連関とが双方で絡み合っていると説明するのである。だから「世界適合性」というのである。
私が謎めいていると感じるのは、ここに「現存在の時間性」と「存在一般の有時性」とのカップリングがほのめかされているように思われるからだ。
そうした目でこの引用を読むと、ハイデッガーはこのカップリングを指摘するだけで、結局その橋渡し(媒介)を見出すことができなかったのではないかと思われる。それが未完に終わった理由ではないか。だからこの部分が異様にスリリングに感じられるのである。特に②の引用文にある「この存在者の世界性」という言葉の「この存在者」が何を指しているのか分からない。素直に読むと道具を指しているようだが、現存在も存在者であるので、現存在を指しているとも受けとれる。熊野訳では「この存在者の」とあるが、念のため原文を参照すると、dessen Weltlichkeitであり、dessenは関係代名詞derの男性・中性2格であるが、現存在Daseinも道具Zeugもともに中性名詞なので、文法的にみてもどちらを指しているのか分からない。だがもしdessenが「この存在者」であるとして道具であるなら、それはカテゴリー的存在であるから、実存カテゴリーである「世界性」とは結合しないはずである。「道具」であればinnerweltlichkeitとするべきところを、innerが省略されている。このどちらともとれる曖昧さは、引用文の①と②との関係の曖昧さが背景にあるような気がしてならない。この部分が『存在と時間』の危機的な箇所だと思う。だが即断せずに、その溝が埋められたのか否かこれから見ていくことにしよう。
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