ケスケラの読書と旅の日記

主に哲学・思想関係の本について要約紹介します。書き方のスタイルごとにカテゴリーを変えています。

『存在と時間(一)』(その13) ハイデッガー著 熊野純彦訳

2016年10月18日 | 哲学研究
いま名ざした、たがいに関連しあう連関を理解することで現存在は、現存在そのものが<そのゆえに>存在している、なんらかの-明示的あるいは非明示的につかまれた、また本来的あるいは非本来的な-存在可能から、或る<のために>へと指しむけられている。この<のために>によって、或る<そのために>があらかじめ素描されており、この一定の<そのために>が、<そのもとで>適所をえさせることの可能なものとして、或るもの<によって>構造にそくして適所をえさせるのである。(412頁本文)

やはり熊野訳は素晴らしい。一読ワケの分からない悪文のように見えるのだが、じっくり読み込むとこれまでの読書で読み過ごしてきたところが分ってくる。読みにくいがゆえにかえって細部が精読できるのである。
これまで私は道具存在の適所全体性の<何のために>が人間である現存在を最終的に指し示しており、それで世界内存在の「世界」に道具の「適所全体性」が繋がると理解していた。だが、こういう理解だと万物は人間のために創造されたという世界観に似てくる。
だが、熊野訳を読むとそうではないことが分かる。似ているが微妙な差があり、その差が重要である。
不正確だが「神」を想定すれば分かり易い。人間は「神」のために存在している。自分の存在が「神」に指しむけられていることを了解することにより、人間は他の万物の存在が「何かのために」存在していると理解することができる。そしてのその「何かのために」の連関によって世界が開示される。
このように見ると道具存在の適所全体性が最終的に指示しているのは、人間ではなく「神」ということになる。道具全体が自分のために存在していることで、道具の指示連関を世界として了解しているのではない。自分が神のために存在するからこそ、道具の<何のために>の連関を世界として了解できるのだ。引用文の論理はそうなっている。
ハイデッガーはこの「神」を現存在の「存在可能」に置き換えているのだ。これは人間中心主義ではない。ここは微妙なところだ。最終目的が「現存在」ではなく「現存在の存在可能」であることがそれほど大きな違いだろうか。引用文の次の部分を読むと、それは大きな違いのように思われる。
「現存在そのものが<そのゆえに>存在している(略)存在可能」
そしてその「存在可能」によって、現存在は「或る<のために>へと指し向けられている」
そうだ現存在よりもなお上位の<そのゆえに>が現存在の「存在可能」なのだ。
ハイデッガーは現実性よりも可能性を優位に置いたとされている。長い間、その理由が分からなかったが、この引用文で理解できた。
現実の世界を了解できるのは、私が私の存在可能性により、何かのために存在していると了解しているからだ。いきなり人生論になってしまったが、まあ、哲学とはそういうものだろう。

さて、再び冷静に思索を続けるならば、それではその「存在可能」っていったい何だ、という疑問が生じるだろう。どうもハイデッガーにとっては「神」に等しいもののようだ。
なにしろ引用文の論理では現存在の世界了解がすべてその「存在可能」から生じるのだから。そう簡単には説明できないのだろう。
それを無理に説明しようとして、引用文では「明示的あるいは非明示的につかまれた、また本来的あるいは非本来的な」という挿入となり、たいへん読みにくくなっている。
「本来性」はこの後で詳細に説明されるので、「明示的」「可能性」という用語が既出であったか振り返ってみよう。

存在への問いが明示的に設定され、問い自身が完全に見とおされながら遂行されるべきである。(93頁本文)
この存在者は、私たち自身がそのつどそれであるものであり、またとりわけて問うという存在可能性を有するものである。(94頁本文)

こうしてみるとハイデッガーは現存在の「存在可能」を存在への問いに結びつけているようだ。そして存在を問うことが可能なのは、存在了解が漠然としているからである。
(その1)で触れたように探究のアポリア(知っていることは探究しないが、知らないことは探究できない)を回避するためには、知っているのに知らないという条件が必要である。漠然とした存在了解はまさにその条件を充たしている。
「存在可能」自体が存在するかどうかという疑問は、この漠然とした存在了解という事態が答を出している。存在をまったく了解しないのであれば、<現存在>自体が存在しなくなる。だから存在了解の強度が存在の可能性である。
ただ、この引用文でハイデッガーは「存在可能」に新たな意味(方向)を付加したようだ。それは現存在が「存在可能」によって「或る<のために>へと指し向けられている」ということである。
このことは、存在への問いそれ自体が、現存在を或る<のために>へと指し向けるということだろうか。もっとよく読んでみることにしよう。
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