ケスケラの読書と旅の日記

主に哲学・思想関係の本について要約紹介します。書き方のスタイルごとにカテゴリーを変えています。

『存在と時間(一)』(その14) ハイデッガー著 熊野純彦訳

2016年10月19日 | 哲学研究
現存在はそのつどすでにつねに、或る<なにのゆえ>から一定の適所性の<それによって>へと、じぶんを指示している。つまり現存在は、じぶんが存在しているかぎりそのつどすでにつねに、存在者を手もとにあるものとして出会わせているのだ。(412頁本文・熊野訳)

前回の私の解釈に対して、否、ハイデッガーの言っていることはもっと単純なことだと反論されるかもしれない。
例えば、家に住むというのも現存在(人)のあり方の一つである。そして住む家がない場合は、家に住むということが現存在の「存在可能」の一つとなる。
その「存在可能」のゆえに、現存在(人)は家を建てる必要があるので、ハンマーや釘などの道具の適所性へ向かうのである。上の引用文はそういう意味だというわけである。
なるほど家に住むために、家を建てるうえでハンマーが要る。それは確かだ。
だがこの引用文で「適所性(略)へとじぶんを指示している」とは、目的を達成するために個々の道具存在と交渉することであろうか。家を建てるためにハンマーを手にとると言っているのだろうか。仮にそう解するとしても、それが何か存在論的に重要な解明となっているだろうか?
適所性へと「じぶんを指示している」とは、じぶんを道具存在(適所性)へ方向づけるということであって、道具を手にするということではない。むしろ道具を手にとるに先だって、じぶんの方向づけによって道具と出会う空間を「すでにつねに」開いているのだ。
引用文の前段が言っていることは、目的によって手段としての道具を手にとるということではなく、目的によって道具と出会う空間を「すでにつねに」開いていると言っているのである。
後段はそのことを「つまり」として言い換えている。
「現存在は、じぶんが存在しているかぎり」とある。それは存在しないこともありうることを前提としている。だから「現存在の存在可能は」と言い換えることができる。
「存在者を手もとにあるものとして出会わせている」とは何か。道具存在と出会うことなのか? この「出会わせている」の用法は既出である。

適所をえさせるとは、(略)存在させることにほかならない。(略)「存在」させるとは(略)存在者の存在を出会わせることである。(404頁本文)

例によって長いハイデッガー節なので中間を省略したが、枝葉をそぎ落とすと、「適所をえさせる」は「存在を出会わせることである」
だから後段は現存在の存在可能は、道具存在者の適所をえさせていると解することができる。それが前段を言い換えている。つまり現存在の目的が道具と出会う空間を開いていることと等しいということだ。
以上のように解すると、確かに現存在の存在可能とは現存在の目的であり、道具存在の適所をえさせることは、道具存在と出会う空間を開いていることと一致する。
そしてそれらが「すでにつねに」とはすべてに先だっているのである。個々の具体的な出会いに先だって、すでにつねにそうした場が開かれているということである。
現存在の個々の具体的な経験に先だって、現存在の存在可能が「すでにつねに」経験の場を開いているということである。
現存在の存在可能は様々である。「家に住む」「食事する」「遊ぶ」「スポーツする」「勉強する」「哲学する」・・・「存在する?」
例えば「食事をしていない」現存在が「食事する」存在可能へ向かう場合、いきなり目の前のものを口にするのではない。食空間(自宅、調理器具、食材等々の連関)において存在する食べ物を口にするのである。その食空間は、食事する目的によってあらかじめ開かれているのだが、それは現存在の一つの存在可能(食事する)によって開かれているということだ。
「勉強する」「哲学する」は難しいが、まあ、机、本、言語など何らかの道具連関が開かれるであろう。(正確には様々な道具存在の適所をえさせている)
問題は「存在する」という存在可能である。
思えば「家に住む」「食事する」「遊ぶ」・・・は「住んでいる」「食事している」「遊んでいる」であり、「~いる」ことについて漠然とした存在了解を含んでいる。もし存在了解がまったくないならば、それは本質定義上、現存在ではないだろう。
すると「存在する」とはまさに「類比の統一」ではないが、それらの様々な存在可能のすべてであり、ということは現存在が存在了解により存在可能へむかうとき、様々な道具連関のすべてである世界全体が開かれる、というか「すでにつねに」開かれているのである。可能性が現実性よりも優位にあるとはそういう意味であると思う。

現実性よりも高く、可能性が位置している。(215頁本文)

以上のように説明すると分かり易い。ではなぜ、ハイデッガーはそう説明しなかったのか。
以上のような説明では疑問が生じるのである。それではハイデッガーは、現存在(人)が道具存在を存在させていると言っているのか? 言い換えれば現存在が世界を創造しているのか?
ここに「適所をえさせること」という概念の複雑さがある。
私は以前、この「適所をえさせること」が実存カテゴリーではないかと推測した。そして道具の存在である「適所性」がカテゴリーであるかぎり、両者の間に薄い膜があると指摘した。
どうもハイデッガーの「適所をえさせること」の説明を読むと、無から有を生じさせているのではない。だが道具の存在である「適所性」も単独で存在しているのではなく適所をえさせることに<もとづいて>存在しているようだ。
ここはまだ私にも正直なところ理解が十分ではない。だが、何を究明すればよいか方向は見えてきた。

適所をえさせるとは、存在的には、或る手もとにあるものを、事実的な配慮的気づかいの内部でそれがいまや存在しているとおりに、またそのことによってそのように存在しているとおりに、これこれのように存在させることにほかならない。(404頁本文)

「手もとにあるもの」(道具存在)を「存在しているとおりに」「存在させる」・・・ 誰か分かる人がいたら説明してほしい。
一つ言えることは、ハイデッガーは現存在の「運命」に言及していることだ。
現存在が道具存在を一方的に存在させるのであれば、「運命」はない。世界が現存在の意のままにならないから運命があるのだ。現存在は世界が意のままにならないとおりに世界を存在させると言っているようだ。
そうだ「適所をえさせること」は主観と客観を接着する便利のいい概念ではない。それこそが現存在の「運命」の別名ではないか。
事の当否は別として、これが現段階において私の理解しているハイデッガーの存在観である。

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