ケスケラの読書と旅の日記

主に哲学・思想関係の本について要約紹介します。書き方のスタイルごとにカテゴリーを変えています。

『存在と時間(一)』(その11) ハイデッガー著 熊野純彦訳

2016年10月16日 | 哲学研究
手もとにある或るものによってどのような適所性がえられるかは、そのつど適所全体性にもとづいてあらかじめ素描されているのである。(401頁本文)

日常性と常識は相伴うものであると常識的に思うのだが、ハイデッガーの非常識なところは日常性と常識が相反することである。ハイデッガーが日常性を考察の出発点とする理由は、むしろ物事を対象として把握するという先入観に捕らわれた常識から脱却するためである。
したがって、ハイデッガーの用語が日常的だからといって、常識的に考えてはならない。
少なくとも対象性という観点が排除されていることには常に留意する必要がある。
そういう観点でこの引用を読むと「適所性」というのは存在論的概念であって、対象Xが事物として存在してそれが所を得ているということではない。所を得ていること自体が対象Xの存在であるということだ。さらにその「適所性」ですら「適所全体性」に基づいているということである。
常識的に考えると、ドアの把手が部屋へ入るためにあり、部屋は人が住むためにある。これらの適所全体性のために把手が存在すると考えるのは何の不思議もない。
熊野訳注では「ハイデッガーの論のすすめかたは存外カント的である」(403頁)としているが、私見として自由に言わせてもらうと「論のすすめかた」がたとえ似ていても、ハイデッガーが「なににとって」「なにによって」「なにのために」などという言葉を使う場合、それらは存在論として使われているのであって、対象Xを手段としたり目的としたりするというカント的な発想とは無縁のように思われる。
ハイデッガーが言っていることはそんなことではない。把手の存在そのものが適所性だと言っているのである。不正確な比喩はあまり使いたくないのだが、あえて言えば存在を量子力学のように場で根拠づけているのだ。(うわジジむさっ! すぐに忘れてほしい、あくまで比喩です)道具存在が対象ではなく適所性だというのはそういう意味である。私は何度も強調したい。対象性に捕らわれて読んでいる限り、ハイデッガーの言うことはあくびが出るような平凡なことのように見えてくる。そこには何の驚きもない。存在から対象性を排除せよ。そのときハイデッガーの思考は希有の輝きをもつ。


手もとにあるものの存在としての適所性そのものは、そのつどただ、なんらかの適所全体性があらかじめ覆いをとって発見されていることにもとづいて発見されている。

この適所全体性が、世界への存在論的な関連をうちに蔵しているのである。適所をえさせることは、存在者を適所全体性にもとづいて開けわたす。

周囲世界的に手もとにあるものが<それにもとづいて>開けわたされているこのもの、しかも、手もとにあるものがはじめて世界内部的な存在者として接近可能となるように開けわたされているこのものは、それ自身は、覆いをとって発見されるという存在のしかたをそなえた存在者としては把握されることができない。私たちはこんご、覆いをとって発見されているありかたを、現存在でないすべての存在者が有するひとつの存在可能性をあらわす述語として確定する。(以上①②③409頁本文)

引用が長くなったが、たいへん興味深くかつ難解な部分である。
特に③の「それ自身は、覆いをとって発見される存在」ではないと否定しているところが最初は何度読んでみても分からない。「<それにもとづいて>開けわたされているこのもの」は素直に読めば「適所全体性」のことであろう。(原佑・渡辺二郎訳では「基盤」と訳されている)
だが①で「適所全体性」は「あらかじめ覆いをとって発見されている」と言っているのではないか! 何を言うとるのだと真意が図りかねるのである。
そこで②において、「適所全体性」が「世界」への存在論的な関連をうちに蔵しているという所に着目してみると、「世界」は「世界内存在」として現存在の存在体制でもある。問題は次の「適所をえさせること」である。原文ではDas Bewendenlassenと中性名詞扱いしているが、妙なドイツ語である。いったいこの適所をえさせている主体は何だ?
ハイデッガーは明記しないのだが、どうも世界内存在としての「現存在」をほのめかしているようである。つまり適所全体性は暴露されているのだが、適所全体性を成り立たせる「適所をえさせること」は現存在として暴露されないと言っているように思われる。ハイデッガーが生きていれば質問したいところだが、私は「適所全体性」はカテゴリーだが、「適所をえさせること」は実存カテゴリーではないかと思う。ハイデッガーはこっそりそれを挿入したのだ。
すると③の「<それにもとづいて>開けわたされているこのもの」の「このもの」は適所全体性ではなく、「適所をえさせること」にすり替わっているのではないだろうか。そう解すると、ハイデッガーがここで言っていることは、現存在が「覆いをとって発見されるという存在のしかたをそなえた存在者」ではないということになる。そうすると、後段の現存在でないすべての存在者が、覆いをとって発見されているありかたを有することとうまく整合するのである。
私の語学力では断定できないのだが、どうもこのDas BwendenlassenはDaseinのことじゃないかと推測している。

私は<その7>において、「世界」は実存カテゴリーであり、道具の指示連関はカテゴリーであるから、世界と道具との間には溝があり、道具存在のみでは世界に到達しえないこと、そのことにハイデッガーも薄々気がついていたようだと指摘した。(ハイデッガーはこれで世界の了解が少しでも可能になっただろうかと何度も自問している)そうだ、確かに適所全体性はカテゴリーとして実存カテゴリーである世界に到達しないのだ。だから「存在論的な関連」と言うのである。だが、もし「適所をえさせること」が現存在(世界内存在)として実存カテゴリーであるとしたらどうだろう。そのとき、「適所全体性」は「適所をえさせること」によって世界に到達するのではないだろうか。だがそこにもなお「適所全体性」Bewandtnisganzheitと「適所をえさせること」Bewendenlassen との間に薄い膜がある。ただ問題が核心まで煮詰まっているのは確かだ。
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