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◇オペラ聴き比べ連載
◇民主主義崩壊と人命軽視(安倍独裁、マスメディアの劣化、原発再稼働・放射能汚染等)のアーカイブ化

6月29日(水)のつぶやき

2011年06月30日 01時49分25秒 | 日記
03:02 from goo
水戸光圀誕生にまつわる秘話(その2) #goo_classicfan51 http://goo.gl/3zECu
03:08 from HootSuite
水戸光圀誕生にまつわる秘話(その1) http://blog.goo.ne.jp/classicfan51/e/f6d47a4f2c99594199768049868994e6
12:06 from HootSuite
ジャック・アタリ著(林昌宏訳)「国家債務危機」2011年作品社 勉強なう: 金融資本主義批判、企業の社会的責任を問う、欧州最高の知性。「主権国の流動性と持続可能性を維持する公的債務の『健全なレベル』は、ほとんど政治的な概念である・・・経済学とは、結局のところ”政治学”にすぎない」
22:11 from HootSuite
NHK極上美の饗宴-東山魁夷の旅「第3回 祈りの山河」を観て: 黒姫山と紅葉、黒の野尻湖が印象的な「光昏」。肉親を総て失った画伯の思い等が多面的、科学的に分析され、感動しました。(参考 http://ow.ly/5sRgF )残念なことは、テーマ音楽と音響効果が相応しくなかった。
22:55 from web
RT @ishtarist: 【拡散希望】blog 2011年3月20日 隠蔽された3号機格納容器内爆発: http://t.co/lilpTrM 関東地方の莫大なフォールアウトの汚染源が、東電・政府がこれまで隠蔽してきた、3/20の(おそらく再臨界を伴う)3号機格納容器 ...
22:55 from HootSuite
RT @tsokdba: 「6/28 柏などの3/21の汚染源は3/20夜の爆発だった?という新説の紹介」 でブログを更新しました。こちらをご参照ください。 http://fc2.in/ky8eBE #genpatsu #nuclearJP
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水戸光圀誕生にまつわる秘話(その2)

2011年06月29日 03時00分04秒 | 水戸光圀

3.三木之次/武佐夫妻の功績

(1)武佐夫人(1658年没、享年88歳):後陽成天皇の女御・中和門院の侍従(天皇:夜話ノ侍従ト称スベシ)。妹・岡崎は徳川頼房(水戸初代藩主、家康11男末子、伏見城で誕生)の乳母、頼房5歳の時に病死。家康は姉の武佐が岡崎に似ていることから武佐を頼房付きにしたいと、天皇の許しを得て慶長12年駿府に迎えた。「武佐は品格と学識を兼ね備えたよほどの賢夫人だったにちがいない」(鈴木氏)。

(2)三木之次の仕官の糸口:乳母・岡崎の姉・武佐の婿に当たるところから家康の命で、慶長9年、1604年(42歳)500石を給され、養育係として頼房に仕えた。

(3)三木之次の役職:同11年、家康の命で頼房(4歳、常陸国下妻藩10万国城主)に代わり、藩士の知行割りを行う。頼房が家臣に封禄を与えた最初の仕事となった。同14年7歳の頼房は25万石水戸城主。引き続き仕え、大番頭となり、老中を兼ね、1619年、1000石の重臣。光圀が世子となった翌年には、さらに500石を加えられて1500石という、「水戸ではそう例のない高級の家臣となった」(瀬谷氏)。

(4)兄・頼重、弟・光圀の命の恩人:頼房から、共に「水子」にせよと、之次は命じられたが、頼房の養母・英勝院と相談して内証で、母・谷久子(久昌院)を三木邸に引き取り、三木夫妻の子として出産、育てた。三木邸は後に中御殿といわれ、水戸家の別邸となった。

(5)三木夫妻の忠誠心:三木夫妻は男子がなく娘二人だけであったが、長女は京都の公家・滋野井大納言季吉(すえよし)夫人、次女は水戸藩家老・伊藤友玄(ともはる)夫人。

1) 武佐の器量:頼房が若気の過ちから、将軍秀忠の勘気を被ったとき、武佐は老中土井利勝の邸に出向き、ねんごろに申し開きしたことから秀忠の怒りを解いたと伝えられている。

2) 光圀の正室・泰姫(後水尾天皇の姪御)のお輿入れ:父(威公)頼房-武佐夫人-伊藤友玄-滋野井大納言-近衛尚嗣(泰姫の兄)という線で、頼房の養子を迎える手順で幕府の了解を得て、実際は光圀夫人としてお輿入れ。武佐の身内で縁談をまとめ上げている!

3) 光圀の実子・頼常(第2代高松藩主)の命の恩人: 光圀は兄・頼重の嫡子を自分の世子とするために、男児であれば死産を命じていたが、伊藤友玄夫妻が自宅で出産させ、頼重が高松に引き取った。

(6)三木之次の子孫:次女・伊藤友玄夫人の子、高之が跡を継ぎ、その子之常も相次いで光圀に仕えた。その後、本系は男子がなく絶えたが、三代之常の弟・佐太夫之幹が光圀の引退後、近侍として御小納戸役をつとめ、その子孫は家禄800石を受けて代々小姓頭、大番頭などの要職についたが、幕末維新の際、若年寄となった七代之経は幕府方の軍隊に敵対して行方をくらました。維新後、水戸に戻り、藩政最後の重職、権大参事に任命され72歳で天寿を全うし、従四位を贈られている(瀬谷氏)。

(7)三木之次/武佐夫妻の墓所:妙雲寺(水戸市見川2-103-1、水戸市指定文化財、社宅の近く)

    山本氏は義公を取りまく婦人-父頼房の養母・英勝院/祖母・養珠院/生母・久昌院/更に「義公を育てた三木武佐」に焦点を当て調査している。那珂湊市在住の末裔の方が、よく墓参りに見えているとのこと(昭和28年当時、山本氏が住職夫人から聞いた話)。


光圀(19歳)は、「三木之次をいためる詞」と題して和歌12首、漢詩2編を贈り、哀悼の意を表している。その和歌12首の頭文字を右から読むと、南無妙法蓮華経となる。頭文字「な」の歌:

 ◇なき人のかたみにのこす水くきのなかれのとまらぬ泪なりけり

「夫の死を誰よりも悲しんでいるはずの妻・武佐が熱心な日蓮宗の信者であったことを思い起こすと、光圀のひとかたならぬ心配りが察せられる」(鈴木)。


 三木之次は一向宗門徒である。寛政の改革で「有名な白川藩主・松平定信は、人口増加策として、一向宗の女性との結婚を奨励したことがあったと言われているように、一向宗の信者は堕胎や生児を間引くことはしなかった。三木家の中に、人の命を大事にする血が流れていた。光圀出生についての、一つの新しい見方とならないだろうか」(瀬谷氏)。

 

4.光圀と三木市の意外なつながり

   大日本史の編纂事業を始めた光圀は、19歳の時に史料収集のために家臣・人見ト幽を京都に派遣し、冷泉為景(下冷泉家)の好意により貴重な書物を見せてもらったのが縁で、光圀と為景との6年間の文通が始まり、尊皇精神を懐くことになる。幕末の尊皇攘夷運動の源は光圀が始めた水戸学にある。

この冷泉為景は、有名な儒学者・藤原
惺窩の子である(ウィキペディアWikipedia1561年生、1619年没 生れは、下冷泉家の所領であった播磨国三木郡(美嚢郡)細川庄(現兵庫県三木市))。

   光圀21歳の時、家康の33回忌法要が日光東照宮で営まれ、37歳の為景は勅使随員の一人として下向し、帰京に先立って小石川の水戸藩邸を訪ねている。為景は41歳で病没しているから、これが生涯一度の面会となった。別れに臨んで光圀は、詞を詠んで、為景の体調を案じていた(鈴木氏)。

                                以上



 

三木之次/武佐夫妻の墓所・妙雲寺
(水戸市見川2-103-1、水戸市指定文化財)

上記のブログ記事は、2009年11月21日の livedoorブログ

http://blog.livedoor.jp/classicfan51/archives/cat_50041489.html
からの転載です。




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水戸光圀誕生にまつわる秘話(その1)

2011年06月29日 02時40分15秒 | 水戸光圀

下記のブログ記事は、2009年11月19日の livedoorブログ

http://blog.livedoor.jp/classicfan51/archives/cat_50041489.html
からの転載です。

 

水戸の三名君として、第2代藩主徳川光圀公、第9代藩主徳川斉昭公とその子、徳川慶喜公は皆様もご存じと思います。しかし、光圀公の実像はどうも黄門様としてTVで登場する人物像とは違うようです。

「水戸学」は戦後、司馬史観の影響により完全否定された感じもありますが、光圀公は学者としての側面もあり、史実を重視する科学的思考の持ち主でした。光圀公は「大日本史」編纂のため、史局員の儒学者・佐々介三郎宗淳を全国各地に派遣しています。また、光圀公は考古学の先駆者です。水戸光圀公の考古学 日本の考古学那須に始まる栃木県教育委員会,栃木 ...

  徳川光圀関係の書籍を調べ、私が光圀公に懐いたイメージは古代ローマの最後の五賢帝でストア派哲学者でもあったマルクス・アウレリウス・アントニヌス 塩野七生さんに寄れば、「複雑な性格」)に重なりますローマ人の物語 賢帝の世紀Ⅸ 塩野七生 新潮社

 

但し、マルクス・アウレリウスとの決定的違いは、後継者の選定でした。初代ローマ皇帝アウグストゥスはカエサルの養子であるように、四賢帝はすべて養子を後継者に選び、古代ローマの全盛期を築いたのに対して、マルクス・アウレリウスは、実子・コンモドゥスを後継者に据え、古代ローマ衰退の端緒となりました。一方、光圀公は、お兄さんから二人も息子を養子として迎え、水戸藩主三代目はお兄さんの血筋を確実にしたことです。日本の歴史上でも極めて希なことではないでしょうか。

 

光圀公にお仕えしていた人は、「複雑な性格で、何を考えておられるか分からない」との記録を残しています。

 光圀公は、隠居後ただ一度の上京の際に、水戸徳川家江戸家老・藤井紋太夫を能楽の席で手打ちにするという激しい気性を示されています。その反面、漢詩・和歌による優しい気遣いの心も持っておられました。この優しさは、後述する三木夫妻の愛情に育まれた養育の賜でしょう。18歳の時、司馬遷の史記「伯夷列伝」を読み、これまでの放蕩生活から一転して、自分の立場を反省する鋭い感受性もお有りでした。 

 

 

 私は、ひょんなことから水戸光圀と関わりを持ち、昨年、開催された「三木高校15回卒業生45周年記念同窓会」で、

「郷土の偉人 三木仁兵衛之次-水戸光圀(第2代水戸藩主)、松平頼重(初代高松藩主)兄弟の命の 恩人、育ての親」と題して、講演しました。

 地元の三木市でもほとんど知られていなく、出席の同窓生(市議会議長、元地元中学校長など)も初めて聞く話のようでした。


 ちなみに、三木城は戦国時代、豊臣秀吉による中国攻めの際、約2年間にわたる籠城後、藩主・別所長治の切腹をもって陥落しました。家臣一同の命は秀吉によって救われ、大阪の陣で活躍した剣豪・後藤又兵衛は三木藩士でした。

 それでは、2回に分けて掲載します。



 

郷土の偉人 三木仁兵衛之次(にへえゆきつぐ、1646年没、享年72歳)

 義公・水戸光圀(第2代水戸藩主)、松平頼重(初代高松藩主)兄弟の命の恩人、育ての親 

平成20年6月22日

     藤 原 幸 一   

1.はじめに

(1)端緒:たまたま、インターネットで、神戸新聞・東播磨版(2006/10/13)「水戸黄門との縁を冊子に 三木の郷土史家・福本さん」の記事が目に止まり、三木市観光協会から冊子を取り寄せ、郷土の偉人:三木仁兵衛之次の存在を知ることとなった。

(2)自己紹介(不思議な縁):私の赴任地、住居は常に水戸徳川家にゆかりの場所。

1) 最初の赴任地 電電公社茨城電気通信研究所、住居 水戸市(終の棲家)

2) NTT子会社(東京)、住居 東京都文京区小石川(水戸藩江戸屋敷、徳川慶喜終焉地は近所)

3) NTT孫会社(徳島)、住所 徳島市(第8代阿波藩主は光圀の子孫、頼重の曾孫)

 

2.三木之次の出自(謎)

  茨城県立/水戸市立図書館には、徳川光圀関係の書籍が、15冊以上あるが、三木之次の出自については下記のように記述(原典:水府系纂)されているのみで、詳細は不明である。

1) 瀬谷義彦著「水戸の光圀」(昭和60年発行):「父を寂然といって、源氏赤松の庶流で別所氏の一族。父は播州(今の兵庫県の西南部)光善寺の住職、寺は一向宗(浄土真宗)であったという。」

2) 山本秋広著「水戸光圀公」(昭和36年発行):「武佐の夫は、播磨の国三木郷(兵庫県美嚢郡三木町)にある善光寺の寂然という住職の子。」

3) 鈴木暎一著「徳川光圀」(平成18年発行):「之次の父は播磨国の光善寺の住職で寂然といい、之次の兄長然が同寺を継いでいる。」 

   一方、福本さんによれば、「三木之次の父・別所安之は三木城主・別所安治の弟、三木合戦の時は、三木城に籠城していた。三木城陥落後、安之は家族と共に東国へ移って行った。その後、長男は三木仁兵衛之次と名乗って水戸藩に下級武士として仕官した」とされている。別所安之が寂然であるとすると、三木之次は別所長治の従兄弟にあたり、三木合戦1578年の時は、4歳である。

   尤も、別所安之=寂然の真偽は確かめていませんが、福本さんの冊子には大きな間違いが多数あり、史実を分かる範囲内で正しく伝えたいと考え、15冊以上の書籍を調べ、主に上記の3資料を引用しながら、郷土の偉人の姿をまとめました。


つづく

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6月28日(火)のつぶやき

2011年06月29日 01時48分26秒 | 日記
05:52 from HootSuite
@tsokdba サブドレン水の放射能レベルと降雨量との相関解明は、懸念されている「燃料棒がすでに格納容器の底部を貫通して原子炉建屋の底のコンクリートに達している」証左になりそうですね。分かりやすく、勉強になりました。 http://ow.ly/5rqqL  #genpatsu
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6月27日(月)のつぶやき

2011年06月28日 01時45分27秒 | 日記
06:01 from HootSuite
不思議な縁: 大震災で被害を受けたひたちなか海浜鉄道湊線が、7月3日に勝田~平磯間で復旧予定。そこには08年に廃線となった三木鉄道の車両が走る。江戸初期に、水戸光圀の命の恩人:三木城落城の落ち武者の子供・三木兵衛之次が水戸藩で活躍したように! http://ow.ly/5qFrP
06:19 from HootSuite
RT @HayakawaYukio: エリートパニックという言葉があるのか。おもしろい。2011年4月25日 坪井 久人 http://charity-japan.com/archives/836
10:26 from HootSuite
心配していたことが現実に! 家族を守るためにサーベイメータは必需品? 生涯、放射能とどう折り合いをつけるか?RT @sanga_kodomo_en :市販の腐葉土から高い放射線 http://t.co/5SCAfb7 ・・・早急に販売を中止させないと汚染が全国の家庭に拡散します。
12:49 from HootSuite
RT @PeacePhilosophy: 東葛周辺5市に不安
千葉県、混乱の連鎖危惧 放射線の野田市基準
http://t.co/FWp5fDX 1mSvを基準とし行動している野田市は正しいと思う。それを「スタンドプレー」、「混乱の連鎖を危惧」などと否定的に表現するの ...
by classicfan51 on Twitter
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