シューマン:レクイエムOp.148/ミニヨンのためのレクイエムOp.98b
指揮:ミクローシュ・フォルライ
管弦楽:ハンガリー国立管弦楽団
独唱:ソプラノ=ジュジャ・バルライ他
合唱:ブダペスト合唱団
CD:アルファエンタープライズ(三洋電機貿易) HUNGAROTON HDC 11809-2
シューマン(1810-1856年)は、死の4年前の1852年にミサ曲とこのレクイエムを作曲した。シューマンの晩年の作曲である。それだけ充実した内容となっており、このレクイエムについて、私はシューマンの最高傑作と考えている。このCDで初めてシューマンにレクイエムがあることを知り、その全容を音で確かめることができたのである。今、シューマンのレクイエムのCDがどのくらい発売されているのかは私は知らない。少なくともコンサートで演奏されることはめったにないと思う。何故だろうか。どうも専門家の評価が「彼の別の作品より宗教的でない」(ライナーノートから)という判断に立ち、評価が高くないためらしい。しかし、このCDを先入観なしに聴いてみると、あの誰でも知っているフォーレのレクイエムに優れるとも劣らない傑作であることがたちどころに理解できよう。実に静かで敬虔さに満ち溢れ、誰が聴いても分かりやすい、親しみの持てるレクイエムなのだ。
レクイエムというと、モーツアルトのレクイエムを引き合いに出すまでもなく、時としてその激しさが奔流となって聴くものに襲い掛かってくる。しかし、シューマンのレクイエムはそういったことはない。過去を振り返って、今の自分を考え直すような、深い情感を漂わせた一種の叙事詩のような趣がある。聴いているうちに、傍にシューマンが座って祈っているような気さえする。ご存知のとおりシューマンは、幻想漂うロマン派の本流を歩むかのような作品をつくり続けてきた。時として付いていけないという
程に叙情的な面のみを追求してきた作曲家だ。晩年になり、そんな過去の自分の歩んできた道を振り返り、もう一段高いところから自分を見つめなおしたのが、このレクイエムとはいえまいか。この曲を聴くとロマン派としての自我といおうか個人主義と、宗教というある意味で非ロマンの世界とが、一段上の世界に昇華しているようにも感じられる、他に例のないレクイエムだ。
ところで、よくCDに録音されたりコンサートで演奏される曲と、そうでない曲が存在する。この原因の一つに専門家の評価が大いに影響をしている。専門家がいいといえばCDが多く出るし、コンサートでも演奏される。専門家が評価しないとその逆の現象が起きる。これは特にクラシック音楽に顕著のようだ。専門家は難しい曲や変わった曲を評価しがちなところがある。その結果、一般のリスナーとの間に乖離が起きる。このままではクラシック音楽界は先細りして、だんだん力を失うことだって大いにあり得る。クラシック音楽は失われた名曲の宝庫だ。たくさんの名曲が埋もれたまま演奏されずにいる。一般のクラシック音楽リスナーが、いい曲はいいと言える場があってもいいと思う。このシューマンのCD(1976年録音)の演奏はまことに充実したもので感心した。このCDには「ミニヨンのためのレクイエム」も収められているが、これも“失われた名曲”で、声楽と管弦楽の曲の最高峰に位置づけられよう。私が言ったことが本当かどうか、シューマンの「レクイエム」「ミニヨンのためのレクイエム」のCDを買ってきて(すぐ入手できるかどうかは知りませんが)ご自分の耳で確かめてほしい。(蔵 志津久)