たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。
今日はロベルト・アレクサンダー・シューマン(第1話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Robert Alexander Schumann】
【ドイツ】
【1810~1856】
【ロマン派】
「子供の情景」~トロイメライ・クライスレリアーナなど親しみのあるピアノ作品から、流麗な交響曲まで多岐に渡る作品を残したシューマン。昨年は没後150年で少し話題になりましたが、そんなシューマンは一体どんな生涯を送っていたのでしょうか?
(第1話)【音楽と文学】
1810年、ドイツのザクセン地方ツヴィカウで生まれたシューマン。父親は出版業を営むフリードリヒ、母親はヨハンネ・クリスチアーネといい、外科医の娘だったようです。(お嬢さんだったんですね。)この二人にはシューマンの前に既に長男1人と3人の姉が生まれておりシューマンは末っ子としてこの家に生まれたのでした。
シューマンも他の作曲家がそうであったように幼い頃から音楽に関心があったようです。母ヨハンネは歌が得意で美しい声の持ち主だったようですが、息子シューマンもその影響を受けたようで、美しい声持っており、幼少期にはボーイソプラノとして歌っていたようです。
そんな息子の才能を育てようと両親はシューマンが6歳で小学校に入学すると翌年には、地元のオルガニストだったヨハン・ゴットフリートにピアノを学ばせます。
1820年、10歳でギムナジウム(大学進学を目指す中高一貫教育の学校)の編入試験に合格し、入学すると校内で音楽好きの同士を募りオーケストラを結成します。11歳になるとこのオーケストラのためにオラトリオやオペラを作曲するなど、作曲家としての片鱗を見せ始めます。
それを見た父親は、元々音楽好きと言うこともあり、息子を音楽家にしようとその師を探します。当時「魔弾の射手」が大ヒットしてその名を響かせていたカルロ・マリア・フォン・ウェーバーに弟子入りさせようとしますが、ウェーバーはイギリスへ渡航予定があったためこの話を断ったようです。
しかしピアノについては引き続きヨハン・ゴットフリートから学び続けるのでした。
父親は息子を音楽家にすべくいろいろと熱心に手を尽くしていたようですが、母ヨハンネは音楽家の職業が不安定な事を心配し、息子が音楽家になる事をひとり反対しているのでした。
また父親の出版業という職業柄もあり、幼い頃から音楽と共に文学にふれる機会の多かったシューマンは古典文学からゲーテ、シラー、更にはバイロン、ジャン・パウル等など数々の文学に触れ文学少年でもあったようです。
それらの文学作品を読みあさり、やがて詩を書くようにもなっていったようです。しかし、多くの芸術作品に深く傾倒していったため、夢うつつになり現実世界と文学の架空の世界との境界があやうくなり、空想や、夢想の世界を夢見る一種うつ病的な少年になってしまうのでした。
そんな少年シューマンに予期せぬ不幸が訪れるのでした。1826年、シューマンが16歳になる年に姉エミリーが精神に異常を来たして自殺してしまうのでした。さらにその数ヵ月後には父フリードリヒが以前から患っていた神経病のためこの世を去ってしまうのでした。
一気に二人の家族を失ったシューマンの精神は更に鬱(うつ)状態い陥ってしまうのでした。
昨年、没後150年のアニバーサル・イヤーだったシューマンを送ればせながら、お送りしようという事ではじめてみたシューマンですが、いきなり若くしてふたりも家族を失ってしまったシューマンは大丈夫なんでしょうか?このつづきはまた明日。
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有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。
今日はロベルト・アレクサンダー・シューマン(第1話)です。
≪作曲家の肖像≫
シューマン:ピアノ協奏曲アシュケナージ(ウラジミール), シューマン, セガル(ウリ), ロンドン交響楽団ユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
【ドイツ】
【1810~1856】
【ロマン派】
「子供の情景」~トロイメライ・クライスレリアーナなど親しみのあるピアノ作品から、流麗な交響曲まで多岐に渡る作品を残したシューマン。昨年は没後150年で少し話題になりましたが、そんなシューマンは一体どんな生涯を送っていたのでしょうか?
(第1話)【音楽と文学】
1810年、ドイツのザクセン地方ツヴィカウで生まれたシューマン。父親は出版業を営むフリードリヒ、母親はヨハンネ・クリスチアーネといい、外科医の娘だったようです。(お嬢さんだったんですね。)この二人にはシューマンの前に既に長男1人と3人の姉が生まれておりシューマンは末っ子としてこの家に生まれたのでした。
シューマンも他の作曲家がそうであったように幼い頃から音楽に関心があったようです。母ヨハンネは歌が得意で美しい声の持ち主だったようですが、息子シューマンもその影響を受けたようで、美しい声持っており、幼少期にはボーイソプラノとして歌っていたようです。
そんな息子の才能を育てようと両親はシューマンが6歳で小学校に入学すると翌年には、地元のオルガニストだったヨハン・ゴットフリートにピアノを学ばせます。
1820年、10歳でギムナジウム(大学進学を目指す中高一貫教育の学校)の編入試験に合格し、入学すると校内で音楽好きの同士を募りオーケストラを結成します。11歳になるとこのオーケストラのためにオラトリオやオペラを作曲するなど、作曲家としての片鱗を見せ始めます。
それを見た父親は、元々音楽好きと言うこともあり、息子を音楽家にしようとその師を探します。当時「魔弾の射手」が大ヒットしてその名を響かせていたカルロ・マリア・フォン・ウェーバーに弟子入りさせようとしますが、ウェーバーはイギリスへ渡航予定があったためこの話を断ったようです。
しかしピアノについては引き続きヨハン・ゴットフリートから学び続けるのでした。
父親は息子を音楽家にすべくいろいろと熱心に手を尽くしていたようですが、母ヨハンネは音楽家の職業が不安定な事を心配し、息子が音楽家になる事をひとり反対しているのでした。
また父親の出版業という職業柄もあり、幼い頃から音楽と共に文学にふれる機会の多かったシューマンは古典文学からゲーテ、シラー、更にはバイロン、ジャン・パウル等など数々の文学に触れ文学少年でもあったようです。
それらの文学作品を読みあさり、やがて詩を書くようにもなっていったようです。しかし、多くの芸術作品に深く傾倒していったため、夢うつつになり現実世界と文学の架空の世界との境界があやうくなり、空想や、夢想の世界を夢見る一種うつ病的な少年になってしまうのでした。
そんな少年シューマンに予期せぬ不幸が訪れるのでした。1826年、シューマンが16歳になる年に姉エミリーが精神に異常を来たして自殺してしまうのでした。さらにその数ヵ月後には父フリードリヒが以前から患っていた神経病のためこの世を去ってしまうのでした。
一気に二人の家族を失ったシューマンの精神は更に鬱(うつ)状態い陥ってしまうのでした。
昨年、没後150年のアニバーサル・イヤーだったシューマンを送ればせながら、お送りしようという事ではじめてみたシューマンですが、いきなり若くしてふたりも家族を失ってしまったシューマンは大丈夫なんでしょうか?このつづきはまた明日。
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