たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はジャン・シベリウス(第2話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Jean Sibelius】
ヴァイオリニストを目指して音楽を学ぶシベリウスでしたが、音楽院で学ぶうちに作曲家に転向していきます。今日はその続きから。
(第2話)【作曲家として】
1889年シベリウスは24歳でヘルシンキ音楽院を卒業すると、卒業作品の室内楽が評価され、ベルリンへ留学することになります。ここで作曲技法を学びます。
この頃、R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の初演を聴くと、これに非常に感動し、興味を持っていたようです。また、当時の指揮者ハンス・フォン・ビューローのピアノ演奏にも直接聴く機会があったようです。
1890年、フィンンランドへ帰国すると、アイノ・ヤルネフェルトと婚約します。アイノはフィンランドの将軍の娘で、教養もあり5ヶ国語を話す才女だったようです。婚約を済ませたシベリウスは、今度はウィーンに留学し更に作曲を学んでいきます。
ウィーン留学中には、ブラームスとも知り合う機会があったようです。1892年留学を終えてフィンランドへ帰国すると、母校ヘルシンキ音楽院から教授として迎えられ、作曲とヴァイオリンを教えるようになります。
そして、この年アイノと結婚します。新婚旅行はフィンランド東部のカレリア地方を訪ね、この時に祖国フィンランドに対する想いを深めていったようです。
旅行でインスピレーションを受けると、そのとき依頼を受けていた劇音楽「カレリア」を作曲していきます。「カレリア」は1893年ヘルシンキで自らの指揮で初演されるますが、評判は悪く、シベリウスもこれを失敗作として廃棄してしまいます。
1894年にはイタリア旅行に出ると、本場イタリアオペラからも様々な刺激を受けていたようです。この頃からフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」に基づいて作られた「レンミカイネン」組曲の作曲に取り組んでいきます。
単独でも有名な交響詩「トゥオネラの白鳥」を含んだこの組曲が1896年にヘルシンキで初演されると聴衆からも好評を得ることになります。
こうして着実に作曲家としての実績を重ねるシベリウスの実力を政府も認めるところとなり、1897年からは31歳にして終身年金を受け取るようになります。
年金を受け取るようになって、作曲にも時間が取れるようになったシベリウスは次々に曲を生み出していくのでした。そして、彼の代表作とも言える交響詩「フィンランディア」が作曲される事になります。
作曲家としてベルリン、ウィーンに留学し着実に実績を積んでいくシベリウス。交響詩「フィンランディア」を作曲していきますが、このつづきはまた明日。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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今日はジャン・シベリウス(第2話)です。
≪作曲家の肖像≫
ディア・シベリウス~ザ・ベスト・オブ・シベリウス~オムニバス(クラシック),ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団,ベルグルンド(パーヴォ),シベリウス,ハレ管弦楽団,バルビローリ(ジョン),フィルハーモニア管弦楽団,カラヤン(ヘルベルト・フォン)EMIミュージック・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
ヴァイオリニストを目指して音楽を学ぶシベリウスでしたが、音楽院で学ぶうちに作曲家に転向していきます。今日はその続きから。
(第2話)【作曲家として】
1889年シベリウスは24歳でヘルシンキ音楽院を卒業すると、卒業作品の室内楽が評価され、ベルリンへ留学することになります。ここで作曲技法を学びます。
この頃、R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の初演を聴くと、これに非常に感動し、興味を持っていたようです。また、当時の指揮者ハンス・フォン・ビューローのピアノ演奏にも直接聴く機会があったようです。
1890年、フィンンランドへ帰国すると、アイノ・ヤルネフェルトと婚約します。アイノはフィンランドの将軍の娘で、教養もあり5ヶ国語を話す才女だったようです。婚約を済ませたシベリウスは、今度はウィーンに留学し更に作曲を学んでいきます。
ウィーン留学中には、ブラームスとも知り合う機会があったようです。1892年留学を終えてフィンランドへ帰国すると、母校ヘルシンキ音楽院から教授として迎えられ、作曲とヴァイオリンを教えるようになります。
そして、この年アイノと結婚します。新婚旅行はフィンランド東部のカレリア地方を訪ね、この時に祖国フィンランドに対する想いを深めていったようです。
旅行でインスピレーションを受けると、そのとき依頼を受けていた劇音楽「カレリア」を作曲していきます。「カレリア」は1893年ヘルシンキで自らの指揮で初演されるますが、評判は悪く、シベリウスもこれを失敗作として廃棄してしまいます。
1894年にはイタリア旅行に出ると、本場イタリアオペラからも様々な刺激を受けていたようです。この頃からフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」に基づいて作られた「レンミカイネン」組曲の作曲に取り組んでいきます。
単独でも有名な交響詩「トゥオネラの白鳥」を含んだこの組曲が1896年にヘルシンキで初演されると聴衆からも好評を得ることになります。
こうして着実に作曲家としての実績を重ねるシベリウスの実力を政府も認めるところとなり、1897年からは31歳にして終身年金を受け取るようになります。
年金を受け取るようになって、作曲にも時間が取れるようになったシベリウスは次々に曲を生み出していくのでした。そして、彼の代表作とも言える交響詩「フィンランディア」が作曲される事になります。
作曲家としてベルリン、ウィーンに留学し着実に実績を積んでいくシベリウス。交響詩「フィンランディア」を作曲していきますが、このつづきはまた明日。
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