たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(第10話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Peter Ilyich Tchaikovsky】
バレエ音楽「眠りの森の美女」を成功させて、勢いに乗るチャイコフスキー。今日はその続きからです。
(第10話)【悲愴】
様々な曲を生み出し、作り上げてきたチャイコフスキー。チャイコフスキーが旅行をしながら、優雅に作曲に専念出来た生活を送ることができたのも、フォン・メック夫人の資金援助があってこそだと言うことが出来るかもしれません。
ところが、1890年9月、フォン・メック夫人から手紙が届きます。「経済的な事情のため、今後の資金的援助を打ち切り、文通も以降は打ち切りにします。」という内容のものでした。
チャイコフスキーは文通だけでも続けようと、持ちかけますが、断られてしまいます。この頃のフォン・メック夫人は精神的に病んでいたようで、自分が破産したためにチャイコフスキーに援助打ち切りの連絡を送っていたようですが、チャイコフスキーはフォンメック夫人の破産が“嘘”(事実ではない)事を知ると、そうとう憤慨していたようです。
結局、チャイコフスキーは生涯に一度もフォン・メック夫人と会う事無くその関係は終わりを迎えてしまいます。
しかし、この頃のチャイコフスキーは世間にも認められる作曲家になっていましたから、フォンメック夫人の資金援助は必要とはしていなかったようです。
それを裏付けるように、1991年、アメリカからの招待を受けます。カーネギーホールの設立を記念して、こけら落としの主賓としての演奏会でした。
カーネギーホールでも大喝采を浴びると、アメリカには1ヶ月ほど滞在してロシアに戻ります。劇場監督から依頼を受けていた「くるみ割り人形」を完成させると、1892年12月にマリインスキー劇場で初演されます。
この頃のチャイコフスキーはヨーロッパ各地で演奏活動をしていたようですが、何所へ行っても大人気を集めていたようです。
1893年には交響曲第6番「悲愴」を作曲し、10月に自らの指揮でペテルブルクで初演を行いますが、初演での評判はあまり良くは無かったようです。そして、その初演から10日も経たない内に、コレラにかかって、あっさりと死んでしまうのでした。
そう突然の死だったようです。チャイコフスキーはペテルブルクに住む弟モデストの家で生水を飲んだため、当時、流行っていたコレラにかかって亡くなってしまうのでした。享年53歳の、突然の死を迎えてしまうのでした。
【突然の死因】
コレラによって急死したとされるチャイコフスキーですが、他にも有名な説がありますから少し・・・、ロシア人貴族が、その甥と関係があったチャイコフスキーを皇帝に訴えようとします。貴族は訴状を高官のヤコビに託しますが、実はこのヤコビは法律学校時代のチャイコフスキーの同級生だったのです。ヤコビは法律学校の名前が汚される事を恐れ、チャイコフスキーと同窓生を数人呼び出し、「名誉法廷」を開催します。
名誉法廷で出された結論はチャイコフスキーの自殺です。そのため、チャイコフスキーは自ら毒を含んで自殺し、それを病死に見せかけたというのでした。
チャイコフスキーの死後、自殺の噂もすぐに流れたため、最後の交響曲「悲愴」と共にヨーロッパをはじめアメリカにまで、あっと言う間に伝わっていたようです。
作曲家としても絶頂の時期にあったチャイコフスキーのあまりにも突然の死は、当時でなくても残念ですが、それでも多くの作品が残されていますから、フォン・メック夫人の存在も彼にとっては大きかったと言えるんだと思います。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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チャイコフスキー : 交響曲第4番ヘ短調 / 第5番ホ短調 / 第6番ロ短調 (悲愴)ザンデルリンク(クルト), ベルリン交響楽団, チャイコフスキーコロムビアミュージックエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
バレエ音楽「眠りの森の美女」を成功させて、勢いに乗るチャイコフスキー。今日はその続きからです。
(第10話)【悲愴】
様々な曲を生み出し、作り上げてきたチャイコフスキー。チャイコフスキーが旅行をしながら、優雅に作曲に専念出来た生活を送ることができたのも、フォン・メック夫人の資金援助があってこそだと言うことが出来るかもしれません。
ところが、1890年9月、フォン・メック夫人から手紙が届きます。「経済的な事情のため、今後の資金的援助を打ち切り、文通も以降は打ち切りにします。」という内容のものでした。
チャイコフスキーは文通だけでも続けようと、持ちかけますが、断られてしまいます。この頃のフォン・メック夫人は精神的に病んでいたようで、自分が破産したためにチャイコフスキーに援助打ち切りの連絡を送っていたようですが、チャイコフスキーはフォンメック夫人の破産が“嘘”(事実ではない)事を知ると、そうとう憤慨していたようです。
結局、チャイコフスキーは生涯に一度もフォン・メック夫人と会う事無くその関係は終わりを迎えてしまいます。
しかし、この頃のチャイコフスキーは世間にも認められる作曲家になっていましたから、フォンメック夫人の資金援助は必要とはしていなかったようです。
それを裏付けるように、1991年、アメリカからの招待を受けます。カーネギーホールの設立を記念して、こけら落としの主賓としての演奏会でした。
カーネギーホールでも大喝采を浴びると、アメリカには1ヶ月ほど滞在してロシアに戻ります。劇場監督から依頼を受けていた「くるみ割り人形」を完成させると、1892年12月にマリインスキー劇場で初演されます。
この頃のチャイコフスキーはヨーロッパ各地で演奏活動をしていたようですが、何所へ行っても大人気を集めていたようです。
1893年には交響曲第6番「悲愴」を作曲し、10月に自らの指揮でペテルブルクで初演を行いますが、初演での評判はあまり良くは無かったようです。そして、その初演から10日も経たない内に、コレラにかかって、あっさりと死んでしまうのでした。
そう突然の死だったようです。チャイコフスキーはペテルブルクに住む弟モデストの家で生水を飲んだため、当時、流行っていたコレラにかかって亡くなってしまうのでした。享年53歳の、突然の死を迎えてしまうのでした。
【突然の死因】
コレラによって急死したとされるチャイコフスキーですが、他にも有名な説がありますから少し・・・、ロシア人貴族が、その甥と関係があったチャイコフスキーを皇帝に訴えようとします。貴族は訴状を高官のヤコビに託しますが、実はこのヤコビは法律学校時代のチャイコフスキーの同級生だったのです。ヤコビは法律学校の名前が汚される事を恐れ、チャイコフスキーと同窓生を数人呼び出し、「名誉法廷」を開催します。
名誉法廷で出された結論はチャイコフスキーの自殺です。そのため、チャイコフスキーは自ら毒を含んで自殺し、それを病死に見せかけたというのでした。
チャイコフスキーの死後、自殺の噂もすぐに流れたため、最後の交響曲「悲愴」と共にヨーロッパをはじめアメリカにまで、あっと言う間に伝わっていたようです。
作曲家としても絶頂の時期にあったチャイコフスキーのあまりにも突然の死は、当時でなくても残念ですが、それでも多くの作品が残されていますから、フォン・メック夫人の存在も彼にとっては大きかったと言えるんだと思います。
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似た内容では「幻想交響曲」(ベルリオーズ)こちらも人生経験をテーマにした曲ですね。
チャイコフスキーの死後、ナプラヴィニクの指揮による2回目の演奏でこれはチャイコフスキーがレクイエムとして作ったと認められて成功したそうです。
そう考えると、悲しげなメロディに崩れるように終わるラストも納得ですね。
切なく感傷的なメロディがこころに響くのもそのせいなんですね。何か言い残したように終わる「悲愴交響曲」が魅力的に聴こえるのも、誰もが知らず知らずのうちに、レクイエムとして聴いていたからなのかもしれませんね。