初心者のクラシック

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セルゲイ・ラフマニノフ(第2話)

2007年03月27日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はセルゲイ・ラフマニノフ(第2話)です。


≪作曲家ゆかりの曲≫
ラフマニノフ:ピアノ三重奏曲第2番
クニャーゼフ(アレクサンドル), ベレゾフスキー(ボリス), マフチン(ドミトリー), ラフマニノフ, ショスタコーヴィチ
ワーナーミュージック・ジャパン

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【Sergey Vasilievich Rachmaninov】

さて、従兄ジロティの勧めでモスクワ音楽院に進学する事になったラフマニノフですが、モスクワでは無事に音楽を学ぶ事ができるのでしょうか?今日はその続きからです。

(第2話)【モスクワでの学生生活】
従兄のジロティの勧めにより、モスクワ音楽院へ入ったラフマニノフはジロティの師でもあるニコライ・ズヴェーレフを紹介し、ズヴェーレフの家に下宿してそこからモスクワ音楽院へ通うのでした。更にズヴェーレフはラフマニノフから授業料も取らず食費や生活費はもちろん、ラフマニノフが聴きに行くコンサートチケット代まで面倒をみてくれるほどの、まさに至れり尽くせりの教育を受ける事ができたのでした。

一方ズヴェーレフ家での下宿生活はいいことずくめばかりではなく、毎日早朝からの練習は絶対に欠かすことは許されず、音楽院に出かける前に必ず練習をする事が義務付けられていたようです。
そんな厳しい練習をズヴェーレフ家でこなしていくラフマニノフですが、ズヴェーレフ家には休日になると有名な音楽家が訪れるため、ラフマニノフを始め下宿生たちの演奏をを直接聴いてもらいその評価をしてくれるという得点もあったようです。

従兄のジロティが言った「恵まれない環境」というのはこの事だったのかもしれません。(有名音楽家の指導は恵まれ過ぎかもしれませんが。)ちなみにこのときモスクワ音楽院の同級生には若き日の作曲家スクリャーピンも在籍していたようです。
そんな、恵まれた環境で日々の練習を続けるラフマニノフでしたが、音楽を学ぶうちにその興味はピアノ演奏ではなく作曲の方に傾いていくのでした。

1889年、ラフマニノフが作曲に強い関心を持ってピアノ練習をおろそかにしていた事をズヴェーレフが強く指摘すると、やがて口論となり、遂にはラフマニノフに手を上げてしまったようです。これをきっかけにラフマニノフはズヴェーレフの下宿を出て行くのでした。

ズヴェーレフの下宿を去ったラフマニノフは当時モスクワに居た父方の叔母を頼って、そこから音楽院に通うのでした。叔母の家には何人か兄弟がいたようですが、ラフマニノフも実の息子のように接してくれ、暖かく受け入れられたのでした。

こうしてラフマニノフは様々あった学生生活を終え、1891年18歳でモスクワ音楽院のピアノ科を主席で卒業するのでした。(スクリャーピンは次席だったようです。)こうしてピアノ科を卒業すると、作曲科で学びピアノ協奏曲第1番を作曲し、モスクワ音楽院を勧めてくれたジロティに献呈するのでした。この作品は当時の新聞にも取り上げられ、まずまずの評価を受けていたようです。
そして翌1892年には作曲科を卒業します。卒業制作として作曲した歌劇「アレコ」が好評になると、これがチャイコフスキーの目にとまり、チャイコフスキーの推薦で1893年にはボリジョイ劇場で演奏されるまでの評価を受けるのでした。

ところが、同1893年の秋、ラフマニノフが尊敬して止まなかったチャイコフスキーが亡くなるのでした。作曲科としての目標にしていたチャイコフスキーの死はラフマニノフにも大きく影響を与えます。ラフマニノフはチャイコフスキーの死を悼んでピアノ三重奏曲「悲しみの三重奏曲」を作曲するのでした。

これはチャイコフスキーが友人(ルヴィンシュタイン)の死を悼んで作曲した「偉大な芸術家の思い出」を強く意識して作曲した作品と言われています。




ペテルブルクでは「恵まれない環境」でうまく音楽を学ぶことができませんでしたが、モスクワではピアノの師ズヴェーレフとも喧嘩別れしてしまいましたが、優秀な成績で無事に卒業する事ができました。敬愛するチャイコフスキーは亡くなってしまいましたが、その後の音楽活動はどうなるんでしょう?このつづきはまた明日。

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