初心者のクラシック

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フェリックス・メンデルスゾーン(第6話)

2007年05月21日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(第6話)です。

≪作曲家の肖像≫
メンデルスゾーン:オラトリオ「パウロ」
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(第6話)【ライプツィヒにて】
1835年メンデルスゾーン26歳の年、ライプツィヒで管弦楽団の指揮者に就任すると、さっそく演奏会を行います。自作の序曲「静かな海と成功した航海」やウェーバーの作品・そしてベートーヴェンの交響曲第4番などをプログラムに入れた演奏会は大成功を収めます。

更に、ベートーヴェンやモーツァルト、ハイドンなどドイツの音楽家を中心に次々と演奏会を開くと、いずれも大好評を博すのでした。メンデルスゾーンはそれまでの指揮者と違い、初めて指揮棒を持って指揮をした人だとも言われています。
更にメンデルスゾーンはその卓越した記憶力から、演奏会のフルスコアを暗記して、当日までに暗譜して指揮を振ったすがたが、当時の人にもすごくカッコよく移ったらしく。彼の指揮姿を見ようと多くの人が演奏会に訪れていたようです。

ライプツィヒでようやく指揮者としての実力を花開させたメンデルスゾーンでしたが、この時、訃報が伝わります。父アブラハムが他界してしまうのでした。
幼い頃からあらゆる面で最高の教育を与えてくれた父親の死には、当然メンデルスゾーンも大きくショックを受けます。父親が心待ちにしていたオラトリオ「聖パウロ」を完成させる前に父親が逝ってしまった事もあり、書きかけていたこの曲に一層力を入れるようになります。

1837年、演奏活動に更に力を入れていきます。ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏する事になりましたが、実は以前ライプツィヒでこの曲が前任の指揮者が一度演奏を行ったようですが、そのときの演奏会は大失敗に終わっていたため、ライプツィヒの聴衆はこの曲にそれほど、高い評価を与えていなかったようです。

ベートーヴェンをこよなく敬愛したと言われるメンデルスゾーンは、この事が我慢できなかったのかもしれません。おそらくベートーヴェンの名誉回復のためという意味もあったんでしょう。自らの指揮で再度「第九交響曲」を指揮すると、これが大成功を収め、ライプツィヒの聴衆にその真価を認めさせるのでした。

その後、父の悲願であったオラトリオ「聖パウロ」を完成させると、これをデュッセルドルフの大きな音楽祭で初演します。壮大なこの曲を聴衆も大いに評価し、大喝采を浴びていたようです。
また、この曲を聴いたシューマンもこれを高く評価していたようです。

デュッセルドルフでの音楽祭が終わると、今度はフランクフルトに向かいます。と言うのもこの町の聖チェチーリア協会の指揮者が病床に伏せていたため、その代理として指揮をして欲しいとの依頼を受けるのでした。

演奏会ではバッハのカンタータが演奏されたようですが、このときメンデルスゾーンはチェチーリアの合唱団にいてソプラノを担当していた女性セシル・ジャンルノーと親しくなり、二人は恋へ落ちていくのでした。


デュッセルドルフからライプツィヒへ来て指揮者に就任したメンデルスゾーンでしたが、演奏会は次々に成功を収めていきます。父親の死からオラトリオを生み出していきますが、フランクフルトで出会った女性とのその後のつづきはまた明日。


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