たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。
今日はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(第1話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Peter Ilyich Tchaikovsky】
【ロシア】
【1840~1893】
【ロマン派】
バレエ音楽やピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲など数々の名曲を残したチャイコフスキー。日本人にもファンが多いチャイコフスキーはどんな生涯を送っていたのでしょうか。
(第1話)【ガラスのような子供】
1840年、モスクワからはるか東に約700km離れたヴォトキンスクという片田舎の町にチャイコフスキーは生まれます。彼の父イリヤはこの地方を監督官として治める貴族で、母親はイリヤにとっては2度目の妻アレクサンドリアです。
最初の妻は父イリヤとの間に長女を生んでから数年後に病に倒れてなくなってしまったようです。
父イリヤと母アレクサンドリアにはチャイコフスキー(次男)の他に長男のニコライ、妹のアレクサンドラ、そして三男のイッポリートと、双子のアナトーリイとモデストの6人の子供を授かっていました。
1844年、母アレクサンドリアはニコライのためにペテルブルクから若いフランス人女性のファンニを家庭教師として迎えますが、まだ4歳のチャイコフスキーも、「ボクも一緒にべんきょうしたい」とかなんとかせがんだらしく、兄弟は仲良くファンニに教わり、その甲斐あって、6歳になる頃にはフランス語とドイツ語を読むことが出来るようになっていたようです。
家庭教師ファンニはチャイコフスキーの繊細で感受性の強い性格から彼を「ガラスのような子供」と呼んでいたようです。5歳になった頃からピアノを習いはじめます。
しかし1848年、父イリヤが監督官の地位を失うとチャイコフスキー一家はヴォトキンスクを離れ、モスクワを経由してペテルブルクへ向かいます。ここで再びピアノを習いはじめます。
更に兄ニコライと共に寄宿学校に入りますが、引っ込み思案で繊細なチャイコフスキーは学校になじむ事ができず、体調を崩してしまいます。生まれ育った田舎町とは違い、それに比べるとある程都会だったペテルブルクの環境が、チャイコフスキーには合わなかったようです。
ちょうどその頃父イリヤは、ヴォトキンスクから更に東へ300kmほど離れた田舎町アラパーエフスクに工場管理の仕事を見つけたため、チャイコフスキー一家は再びペテルブルクを離れて、1849年には彼の地へ向かいます。
しかし、この田舎町アラパーエフスクの環境がチャイコフスキーにとってはプラスに働き、体調も回復し元気を取り戻します。
両親はチャイコフスキーに再び家庭教師をつけます。今度は法律学校に入るための勉強をさせるためで、チャイコフスキーは法律学校へ入学するための勉強をしていく事になるのでした。
田舎町に育ったチャイコフスキーは感受性が強く繊細で「ガラスのような子供」でしたが、ペテルブルクから再び田舎町アラパーエフスクに戻ってきましたが・・・、
ピアノは少し習っているようですが、法律の勉強って・・・、こんなんで音楽家になれるんでしょうか?このつづきはまた明日。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。
今日はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(第1話)です。
≪作曲家の肖像≫
チャイコフスキー:三大バレエ・ハイライツフィストラーリ(アナトール), ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団, チャイコフスキーユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
【Peter Ilyich Tchaikovsky】
【ロシア】
【1840~1893】
【ロマン派】
バレエ音楽やピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲など数々の名曲を残したチャイコフスキー。日本人にもファンが多いチャイコフスキーはどんな生涯を送っていたのでしょうか。
(第1話)【ガラスのような子供】
1840年、モスクワからはるか東に約700km離れたヴォトキンスクという片田舎の町にチャイコフスキーは生まれます。彼の父イリヤはこの地方を監督官として治める貴族で、母親はイリヤにとっては2度目の妻アレクサンドリアです。
最初の妻は父イリヤとの間に長女を生んでから数年後に病に倒れてなくなってしまったようです。
父イリヤと母アレクサンドリアにはチャイコフスキー(次男)の他に長男のニコライ、妹のアレクサンドラ、そして三男のイッポリートと、双子のアナトーリイとモデストの6人の子供を授かっていました。
1844年、母アレクサンドリアはニコライのためにペテルブルクから若いフランス人女性のファンニを家庭教師として迎えますが、まだ4歳のチャイコフスキーも、「ボクも一緒にべんきょうしたい」とかなんとかせがんだらしく、兄弟は仲良くファンニに教わり、その甲斐あって、6歳になる頃にはフランス語とドイツ語を読むことが出来るようになっていたようです。
家庭教師ファンニはチャイコフスキーの繊細で感受性の強い性格から彼を「ガラスのような子供」と呼んでいたようです。5歳になった頃からピアノを習いはじめます。
しかし1848年、父イリヤが監督官の地位を失うとチャイコフスキー一家はヴォトキンスクを離れ、モスクワを経由してペテルブルクへ向かいます。ここで再びピアノを習いはじめます。
更に兄ニコライと共に寄宿学校に入りますが、引っ込み思案で繊細なチャイコフスキーは学校になじむ事ができず、体調を崩してしまいます。生まれ育った田舎町とは違い、それに比べるとある程都会だったペテルブルクの環境が、チャイコフスキーには合わなかったようです。
ちょうどその頃父イリヤは、ヴォトキンスクから更に東へ300kmほど離れた田舎町アラパーエフスクに工場管理の仕事を見つけたため、チャイコフスキー一家は再びペテルブルクを離れて、1849年には彼の地へ向かいます。
しかし、この田舎町アラパーエフスクの環境がチャイコフスキーにとってはプラスに働き、体調も回復し元気を取り戻します。
両親はチャイコフスキーに再び家庭教師をつけます。今度は法律学校に入るための勉強をさせるためで、チャイコフスキーは法律学校へ入学するための勉強をしていく事になるのでした。
田舎町に育ったチャイコフスキーは感受性が強く繊細で「ガラスのような子供」でしたが、ペテルブルクから再び田舎町アラパーエフスクに戻ってきましたが・・・、
ピアノは少し習っているようですが、法律の勉強って・・・、こんなんで音楽家になれるんでしょうか?このつづきはまた明日。
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