初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

ロベルト・シューマン(第2話)

2007年01月12日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日はロベルト・アレクサンダー・シューマン(第2話)です。

≪作曲家の肖像≫
シューマン:ミサ曲
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 サヴァリッシュ(ヴォルフガング), サバリッシュ(ボルフガング), ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, 白井光子, ザイフェルト(ペーター), ロータリング(ヤン・ヘンドリック), デュッセルドルフ楽友協会合唱団, シューマン
東芝EMI

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【Robert Alexander Schumann】

家族を失ったシューマン大丈夫なんでしょうか、心配なその続きからです。

(第2話)【弟子入り】
 若くして父親と姉の死に触れることになったシューマンはかなり落ち込んでいたようです。(当然ですよね、残された者のこころのやり場がないですよね。)
そんなシューマンを温かく受け入れてくれたのがこの街の医者であるカルス家でした。カルス夫人のアグネスは音楽の教養があり、シューマンのピアノ伴奏で歌を歌ったり共にピアノを弾いたりと、シューマンの閉ざされたこころを、ゆっくりと解きほぐしてくれていたようです。

 1828年、18歳になるとシューマンもいよいよギムナジウムを卒業する歳になりますが、母親はやはり、音楽家では安定性がなく将来が不安ということで、将来の安定が見込める法律を学ばせるべく、ライプツィヒ大学の法学科へ入学させる事になります。

 大学入学の前にシューマンはギムナジウムの同級生と旅行に出かけます。文学を通じて親友になったふたりは、既に亡くなった尊敬するジャン・パウルをめぐる旅行に出かけるのでした。バイロイトにジャン・パウロの未亡人を訪ねると、墓前では1時間近く瞑想にふけっていたというふたりはそうとうジャン・パウロに心酔していたようです。

 バイロイトからミュンヘンに足を運んだ二人は詩人ハインリッヒ・ハイネを訪ねています。ハイネの詩に深い感銘を受けたシューマンは後にハイネの詩にメロディを付けた歌曲を作曲する事になるのでした。

 旅行から帰って、いよいよ大学生活が始りますが、元々法律にはほとんど興味の無いシューマンは、大人しく法学の勉強をするはずもなく、一番熱心に取り組んだはやはり音楽でした。バッハの「平均律クラヴィア集」をはじめ、シューベルト、メンデルスゾーン等の曲を研究し、自らも作曲に取り組んでいきますが・・・、やがて自分の音楽についての知識が浅く独学では限界があると感じたシューマンはピアノの師を求めて、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りする事にしたのでした。

 シューマンが弟子入りしたフリードリヒ・ヴィークは当時の名ピアニストであり、彼の下でピアノを学ぶ弟子には、娘のクララや後に大指揮者となるハンス・フォン・ビューローなどもおり、ピアノの師としてはこれ以上申し分のない人物でした。
フリードリヒの指導のもとでピアノの腕を次第に上げていくのでした。

 しかし、いくらピアノの名門のフリードリヒに弟子入りしたとはいっても、実際には、法学科の学生の身分ですから、本来なら音楽よりも法律を学ばなければならないハズでした。そんな良心の呵責にさいなまれたのか?翌1829年にはハイデルベルク大学へ転入するのでした。学校を変えて心機一転で再スタートするつもりだったんでしょうか?

 ところが、移ったハイデルベルク大学でも「作曲の出来るピアノの得意な学生がいるらしい」という噂が立ってしまい、あっという間に学内でも有名な学生になってしまうのでした。

 しかも、法学科のティボー教授は音楽好きで講義の途中でもよく音楽について話をするのでした。次第にシューマンもティボー教授の家に足を運ぶようになっていきました。

 そんなある日、いつものようにティボー教授宅に訪れていたシューマンは教授から「君に法学家の道は向いていない、君にはやっぱり音楽家が向いているだろう。」と改めて言われてしまうのでした。



法学科の教授にまで「音楽が向いてる」なんて言われたらこれはもうやるしかないでしょう!せっかく弟子入りしたんだから早く曲を作ったりして欲しいですが・・・、このつづきはまた明日。


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