たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(第4話)です。
≪作曲家ゆかりの曲≫
【Felix Mendelssohn Bartholdy】
(第4話)【選挙】
明けて翌1831年、ナポリからローマへ戻りミラノへ滞在します。ミラノでの演奏会も人気を集めていたようです。
イタリアを離れると、スイスへ向かいます、ここではアルプスの山を歩き、気に入った景色をみつけると、その絵を描いたりしたようです。
スイスを離れるとミュンヘンからパリへ入ります。12月ごろにパリで行われた演奏会では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番のピアノ演奏を披露し、これは好評でしたが、メンデルスゾーンの完成したばかりの交響曲「宗教改革」を演奏しようとするとパリ音楽院の管弦楽団から「理屈っぽい」と言われてしまい、演奏を拒否されてしまいます。
この頃ちょうどポーランドから来てパリでデビューを果たしたショパンが演奏会を開いていますが、メンデルスゾーンもこの、ショパンのデビュー演奏会を見に行っていたようです。
翌1832年、パリを後にすると春には再びロンドンへ向かいます。ロンドンで序曲「フィンガルの洞窟」を演奏すると、こちらではパリとは違い、大好評を受けます。
ロンドンで手応えを掴むんでいると、ベルリンから訃報が届きます。幼い頃から音楽を教えてくれていた師ツェルターが亡くなった報せが伝えられたのです。
この報せを受けてベルリンに戻ると、メンデルスゾーンは師の死をその思い出と共に悼んでいたのでしょう。
その後ベルリンでは完成したピアノ協奏曲第1番を演奏会で弾き、ベルリンでピアニストとしての本格的なデビューを果たします。
1833年1月、メンデルスゾーン24歳の年、ベルリンジングアカデミーではツェルターの死後、空位になっていた指揮者の選挙が行われる事になります。
すると、メンデルスゾーン自身はそれほどノリ気では無かったようですが、家族や周囲の人に勧められてこの指揮者の選挙に立候補する事になりました。
しかし、結果は落選。当選したのはツェルター亡き後その代理を務めていたフリードリヒ・ルンゲンハーゲンでした。まあツェルターの代理をしていた人間がそのまま選ばれた訳ですから、順当と言えば順当なんですが・・・、落選理由はそれだけでは無かったようです。ひとつは若干24歳という年齢が指揮者としては若すぎるというのがその理由ですが、もうひとつの理由は・・・、彼がユダヤ人だから…というものでした。
幼い頃から、言われていたこの言葉が少なからずメンデルスゾーンを傷つけるのでした。周りに勧められて選挙には出てみたものの・・・、指揮者になれるとは思ってはいなかったものの・・・、改めて突きつけられたような現実が彼を襲うのでした。
思えば幼い頃から裕福な家庭で何不自由なく育ったメンデルスゾーンでしたが、ユダヤ人として生まれたという事実を曲げる事はできません。
かなりショックだったメンデルスゾーンは、その後当選したルンゲンハーゲンから代理役を依頼されますが、この話を断ります。
また、仲の良かった姉ファニーに至っては「家族の名誉を傷つけられた」としてジングアカデミーを脱退してしまうほどでした。

ジングアカデミーの識者になる選挙に出馬したメンデルスゾーンですが、あえなく落選してしまいます。姉ファニーまでアカデミー脱退したりして・・・、ちょっと心配なこのつづきはまた明日。
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今日はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(第4話)です。
≪作曲家ゆかりの曲≫
![]() | メンデルスゾーン:交響曲第3番「イタリア」/同第5番「宗教改革」/他18世紀オーケストラ, メンデルスゾーン, ブリュッヘン(フランス)ユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
(第4話)【選挙】
明けて翌1831年、ナポリからローマへ戻りミラノへ滞在します。ミラノでの演奏会も人気を集めていたようです。
イタリアを離れると、スイスへ向かいます、ここではアルプスの山を歩き、気に入った景色をみつけると、その絵を描いたりしたようです。
スイスを離れるとミュンヘンからパリへ入ります。12月ごろにパリで行われた演奏会では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番のピアノ演奏を披露し、これは好評でしたが、メンデルスゾーンの完成したばかりの交響曲「宗教改革」を演奏しようとするとパリ音楽院の管弦楽団から「理屈っぽい」と言われてしまい、演奏を拒否されてしまいます。
この頃ちょうどポーランドから来てパリでデビューを果たしたショパンが演奏会を開いていますが、メンデルスゾーンもこの、ショパンのデビュー演奏会を見に行っていたようです。
翌1832年、パリを後にすると春には再びロンドンへ向かいます。ロンドンで序曲「フィンガルの洞窟」を演奏すると、こちらではパリとは違い、大好評を受けます。
ロンドンで手応えを掴むんでいると、ベルリンから訃報が届きます。幼い頃から音楽を教えてくれていた師ツェルターが亡くなった報せが伝えられたのです。
この報せを受けてベルリンに戻ると、メンデルスゾーンは師の死をその思い出と共に悼んでいたのでしょう。
その後ベルリンでは完成したピアノ協奏曲第1番を演奏会で弾き、ベルリンでピアニストとしての本格的なデビューを果たします。
1833年1月、メンデルスゾーン24歳の年、ベルリンジングアカデミーではツェルターの死後、空位になっていた指揮者の選挙が行われる事になります。
すると、メンデルスゾーン自身はそれほどノリ気では無かったようですが、家族や周囲の人に勧められてこの指揮者の選挙に立候補する事になりました。
しかし、結果は落選。当選したのはツェルター亡き後その代理を務めていたフリードリヒ・ルンゲンハーゲンでした。まあツェルターの代理をしていた人間がそのまま選ばれた訳ですから、順当と言えば順当なんですが・・・、落選理由はそれだけでは無かったようです。ひとつは若干24歳という年齢が指揮者としては若すぎるというのがその理由ですが、もうひとつの理由は・・・、彼がユダヤ人だから…というものでした。
幼い頃から、言われていたこの言葉が少なからずメンデルスゾーンを傷つけるのでした。周りに勧められて選挙には出てみたものの・・・、指揮者になれるとは思ってはいなかったものの・・・、改めて突きつけられたような現実が彼を襲うのでした。
思えば幼い頃から裕福な家庭で何不自由なく育ったメンデルスゾーンでしたが、ユダヤ人として生まれたという事実を曲げる事はできません。
かなりショックだったメンデルスゾーンは、その後当選したルンゲンハーゲンから代理役を依頼されますが、この話を断ります。
また、仲の良かった姉ファニーに至っては「家族の名誉を傷つけられた」としてジングアカデミーを脱退してしまうほどでした。

ジングアカデミーの識者になる選挙に出馬したメンデルスゾーンですが、あえなく落選してしまいます。姉ファニーまでアカデミー脱退したりして・・・、ちょっと心配なこのつづきはまた明日。
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