酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「愛の夢とか」~孤独と喪失の糸で紡がれた物語

2017-01-04 22:53:15 | 読書
 強烈な初夢だった。薄暗い倉庫内に佇む俺の前に、ベッドが搬入されてくる。寝ているのは何と、冷凍保存された自分自身ではないか。暗証番号をインプットすると解凍される仕組みらしいが、思い出せない。焦っているうちに目が覚めた。

 寝正月を地でいく年明けだった。チャンネルを替えながらテレビを眺めていたが、元日夜に放映されたNHKスペシャル「トランプのアメリカ~世界はどうなる」は興味深い内容だった。白人中間層を重視すると主張して当選しながら、〝ウォール街の錬金術師〟を次々に閣僚に据えるなど、「トランプの動向は予測不能」と専門家は口を揃える。

 トランプ勝利の欧州への波及に、〝知の巨人〟ジャック・アタリが警鐘を鳴らしていた。アタリは著書「21世紀の歴史」でAIGとシティー・グループを絶賛し、労働者に優しいフランスの伝統を一刀両断するなど、グローバリズムの旗振り役だ。ポピュリズムと排外主義を批判するのは当然だが、グローバリズムを克服する<ローカリゼーション>、<分散型資本主義>、<脱成長とミニマリズム>を一顧だにしていない。

 麻雀に興じたり、猫のミーコと遊んだり、瞬く間に時は過ぎ、帰りの新幹線でようやく「愛の夢とか」(川上未映子著、講談社文庫)を読了した。川上の作品を紹介するのは「ヘヴン」、「すべて真夜中の恋人たちへ」に次いで3作目だ。「ヘヴン」が追求した絶対的な純粋さ、「すべて――」に描かれた希望と背中合わせの淡い絶望……。両作の色調が「愛の夢とか」にちりばめられていた。

 7作の短編が収録されているが、読み進むにつれて濃度は増し、♯7「十三月怪談」は愛の意味を突き付ける。1作を除き3・11後に発表されたこともあり、孤独、別離、喪失感が主音になっている。とりわけ感銘を覚えた3作について記したい。

 まずは♯4「日曜日はどこへ」から。惹かれたのは設定だ。「ヘヴン」の主人公である僕とコジマは7年後(1999年)の再会を約束していた。「日曜日はどこへ」は、作家の死を伝えるニュースから始まる。主人公の女性はかつての恋人との約束を思い出した。ともにファンだった二人は、その作家が死んだら思い出の場所で会うことを誓う。14年前の約束を彼は覚えているだろうか。

 「ヘヴン」で斜視の手術をした僕は、<はじめて世界が像を結び、世界には向こう側があった>と慨嘆する。コジマを失った僕は、世界を獲得したのだ。「日曜日はどこへ」は<誰も知らない世界なんて、どうやったって辿りつけるわけがなく、そんな場所はこの世界のどこにもありはしないのだ>というモノローグで結ばれる。10代と30代では見える景色が変わってくるのだ。

 ♯6「お花畑自身」はアイデンティティーを巡る寓話といえる。主人公の女性は豪邸を丹精込めて整えていた。子供がいない彼女は趣味もないから、自分の感性を全て家に注ぐ。とりわけ花畑が彼女の自慢だった。夫が経営する会社が破産し、家を売らなければならなくなる。買い手として姿を現した女性は、彼女にとって悪魔だった。

 淡々と綴られる彼女の家への思いは、川端康成の登場人物の如く狂気の色を帯びてくる。純度が高まるほど、愛は狂気に近づいていく。<それからあなた、あなたにも言いそびれておりましたが、わたしは悪魔ではありません>……。買い手と鉢合わせした彼女の言葉で閉じられた先、何が起きたかは読者の想像に委ねられている。

 ♯7「十三月怪談」は死と生を繋いでいる。時子は難病で死に、夫の潤一がひとり残されたマンションに、時子の魂も居残っている。もちろん、言葉を交わすことも触れ合うことも出来ない。死後も潤一を深く愛する時子、そして悲嘆にくれる潤一……。だが、少しずつ潤一の生活に変化の兆しが表れる。

 生死を超えた愛が、ズシリ心に響いた。だが、地震で時空にバイアスが掛かったせいなのか、それともパラレルワールドに迷い込んだのか、時子の見た光景と、後半で語られる潤一の生涯に食い違いを覚える。近いうちに知人に貸して、読み解いてもらうつもりだ。

 川上は女性としての繊細さと生理を最も感じる作家で、がさつで女心を読めない俺にはハードルが高いというのが実感である。とはいえ、読み初めには相応しい作品だった。
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