
昨年9月のミーダーン(パレスチナ・対話のための広場)の結成集会で、ヨルダン川西岸バラータ難民キャンプの日常に取材した『キャンプに太陽は輝かない』というドキュメンタリー・ビデオを観た(バラータの制作者のサイトはこちら)。
その中で、教師であり障害者委員会の役員である女性が、カメラを通して、英語でこう訴えていたのが印象に残っている。
──私は、イギリスの人達、アメリカ合州国の人達、そして世界中の人達に、ぜひ知ってもらいたいことがあります。
つまりそれは、私たちはお金が欲しいわけではない、ということです。
私たちが他の人々に対して「支援をしてほしい」と言うときでも、それは義援金ということではありません。
私たちは、私たちのことを信頼してほしいのです。「分かりました。私たちは皆さんの側に立ちます(Yes,we are with you)」と。1人のパレスチナ人としての私にとっては、もうそれで十分なのです。──(スクリプトより引用)
圧制や侵略と正面から闘っている人々は、しばしばこんな風に語る。「私たちは物もらいではない」「私たちは共闘を求めているのであって、援助が欲しいのではない」。メキシコのEZLN(サパティスタ民族解放戦線)の場合は「私達は人としての尊厳のために闘っている」と表現した。沖縄の基地反対派住民の感覚にも相通ずるものだと思う。
古くは、本多勝一の『戦場の村』で、ベトナム解放戦線の兵士が語った同様の言葉が思い出される。本多氏らが長期にわたって取材したジャングルの奥深くの拠点を立ち去る際、日本の反戦団体から何か送ってもらいたい物資等があるかと聞くと、幹部将校は「何もありません、心配しないでください」と言って、こう続けた。
「日本人が自分の問題で、自分のためにアメリカのひどいやり方と戦うこと、これこそ、結局は何よりもベトナムのためになるのです」
もちろん、彼らがいかなる援助とも無縁だったわけではない。彼らが手にしていた銃や無線機その他は、当時のソ連や中国などから直接・間接に受け取っていたものだろう。だがそれは、気の毒な人達だからと恵んでもらったのではない。良し悪しは別として、それら武器供給国との共闘関係という、一種の契約に基づいたものだったはずだ。
この時の解放戦線の将校が日本人に求めたものも、一種の「共闘」だったと解釈してもいいはずだが、大事なポイントは、それを自分達の問題として闘えるか、というところだった。
本当にせっぱつまった飢餓線上の人々は別に存在する。その人達にはお金であれ食料であれ医薬品であれ、緊急に必要なことは言うまでもない。しかしその場合ですら、上から下への、与える側が精神的優位に立つような援助・ボランティアなら、さしあたっての人命救助という側面をのぞいて、長い目で見れば功罪の「罪」の方が大きい。
昔から指摘されていることだが、そのような助ける者・助けられる者の構図が固定化されてしまうそもそもの原因が、人命の救済という、誰も文句のつけられない善行によって覆い隠されるという、皮肉な構造がある。なおかつ、固定化した方が都合がいい連中は、「私たちは援助によってみんなが豊かになる未来を目指してまーす」という欺瞞で、この議論の全体をコーティングする。
彼らの言う「豊かさ」とは、相対的な豊かさのことである。どこかに自分達より貧乏な者がいて、自分達の「豊かさ」の前にひれ伏してくれない限り、自分達が豊かであると認識できない「豊かさ」なのだ。「みんなが豊かになる」ことを、彼らの「豊かさ」が原理的に肯定できるはずがない。
本当に必要なのは、一義的な「豊かさ」なんぞ存在しない世界、ただ困っている者同士が助け合うのが普通である世界のはずなのだ。単なる抽象的な原則論でそう言うのではなく、現実に世界の進歩的な人々は、1960年代のカウンター・カルチャーを大きな足がかりに、最近の世界社会フォーラム(WSF)の動向に至るまで、それを模索し続けているのではないだろうか。市民レベルの「共闘」というのも、今ではそこにつながるべきものだろう。
日本政府案による「平和と繁栄の回廊」構想は、そうした共闘もしくは助け合いの発想とは、真逆である。パレスチナ人の側はもちろん、良心あるイスラエル人の側にもいない。ただイスラエル占領当局とアメリカ政府の側に立つだけの、見せかけの「平和と繁栄」押しつけ構想である。ちょうど連中が国内においては国民の側に立たず、アナクロ国家主義者と新自由主義者の都合に合わせて改憲や共謀罪、残業代不払い法を押しつけようとしているのと同じ構図である。現在の日本政府とイスラエル政府は似た者同士である。両者がタッグを組むのは、まさに時代の必然というやつだ。
国内での押しつけに抵抗するだけでも疲れているのに、そのうえ国外での策動にまで目を光らせなきゃいけない──ではない。この二つは同じ根から来ている。そしてはからずも露呈しているのは、我々が、僕やあなたが、結局パレスチナ人と同じ側にいるということなのだ。
もちろん同じ側と言ったって、我々はパレスチナ人のように、日常において銃弾を打ち込まれる側にいるわけではない。しかし、意図せずして銃弾を打ち込む側に加担したくないと思った瞬間に、我々の前には2つの立場しかない。一つは世界への徹底的無関心を決め込む立場、もう一つは本来同じ側にいることを意識して、「Yes,we are with you」を選び取る立場である。
前々回(1月17日)のエントリーからの続きですが、上記「平和と繁栄の回廊」特集記事内に、関係者への抗議のメール・FAXの送り先があります。
当ブログ内でPalestine/Israel関連カテゴリーを新たに分けました。イスラエル核査察を求める署名も続行中です。また、弱い文明HP内のリンク特集「イスラエルに対する経済制裁およびボイコットのアピール」およびコラムの関連記事もご参照ください。










