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Phls氏の「返答1」に答える

2008年04月07日 | 死刑制度廃止
 これは先々月、2月16日の死刑について、異論に答える─1に寄せられたPhlsさんという方のコメント、「返答1」(3/2付)に対して書いた、僕の側からの返答である。
 続きの「返答2」がありそうだったので、しばらく待機していたのだけど、音沙汰がない。別にそのこと自体は構わないのだけど、せっかく「返答1」に対するレスを考えてあるし、あるいは氏もその僕のレスを読んでからの方が、次の返答へと話を進め易いこともあろうかという気がしてきた。もし「返答2」を用意してあるのなら、行き違いのような形になる可能性もあって申し訳ないのだけど、その時はその時で承り、なんとかこちらで一つにまとめるようにするつもりなので、今回とりあえず「返答1」に対する僕の返答を掲載してしまうことにする。
 くり返すが、返答の続きが来ないことに対してのあてつけのような意図は一切ない。むしろ、多分に「リアクション芸人」の資質が濃い僕としては、せっかくまとめた考えを発表できないのがもったいないという、貧乏根性の発露もないとは言えないと、白状しておく(もちろん、第三者が読んで役立つ面だって少しはあろうという期待も持っているけど)。裏を返せば、それくらいPhlsさんのツッコミからいい刺激を受けた、ということだろう。

 丁寧な反論、ありがとうございます。
 僕もPhlsさんが提起されている問題について、確固とした再反論が常にできるほどの状態ではないので、不完全な答えにしかならないかも知れませんが、なるべくちゃんと書きます。

 始めに、カントの書いたことと翻訳者の「要約」をごっちゃにしたところは、半分意図的な、僕のミスです。
 半分意図的というのは、その違いをわかってはいたんですが、なんとなく「カントが言うような」としても大差ないだろうと思って、勢いにまかせて書いてしまったということです(どっちにしろ僕は原文を読めませんが)。でも、違いがわかるように書き分けることができなかったわけでもないですから、その意味ではミスであると認めるにやぶさかではありません。すいませんでした。


 冤罪の問題をどう考えるかについて。
 これをコスト・ベネフィットの問題に帰することができるのかについて、いろいろ考えたのですが、やはりかなり難しいと言わざるを得ません。
 一つにはよく言われるように、社会の側から「コスト・ベネフィット」と割り切ることができても、冤罪被害者の本人は割り切ることなどできるはずがないこと。冤罪の可能性が全事件の仮に0.001%だとしても、冤罪に会った本人にとっては掛け値なしの「100%」である、ということですね。この重みをコスト・ベネフィットを言い立てる側は本当に受け止めているのか。
 加えて僕にとっては、この場合コスト・ベネフィットの「ベネフィット」がさっぱり見えてこない、ということがあります。つまり、誤判逮捕や拘置までは仕方ないと言えるにしても、死刑にまでしなければ手に入らないベネフィット=社会的恩恵が理解できない。最悪それは無期懲役で達成できているようにしか思えないわけです。
 さらにさらに加えて、冤罪の可能性を認めながら死刑の適用をコスト・ベネフィット論によって正当化するということは、突き詰めていけば凶悪犯罪に巻き込まれて命を落とすことも、社会の側からはコスト・ベネフィットとして了解されうるのではないか、という疑いが生じてしまう。これについては、利己的動機に基づく犯罪と公的な刑罰を同次元で語るのはナンセンス、という反論が当然立つでしょう。ですが、広く人間のやることを「必要悪」みたいな観念で割り切っていくことに、僕は相当な危険性を感じます。この第三点はこれだけで長い議論になりそうで、ここではつっこんだ考察をする余裕がないので、とりあえず忘れてくださっても結構ですけど。

 今度は仮に百歩譲って、コスト・ベネフィットの問題に帰することができる──というより、帰するという現状を受け入れるしかない場合、というのをあえて考えてみます。すると、その前提条件として、その国の人間が「冤罪死刑は起こりうる」ということを、それこそ「交通事故死は起こりうる」のと同じくらい、当たり前に認識していることが最低限必要ではないか、と思えてきます。しかし実際、何割の「世論」がこの条件を受け入れることができるのでしょう?
 さらに、交通事故は交通の主体になっている人々自身の努力によって(原理的には)防げるという前提があるのに対して、誤認逮捕~誤判は本人の主体的努力ではいかんともし難い部分がはるかに大きいわけですし、本来そんな努力をする義務は市民の側にはありません。となれば、警察や司法組織が今より段違いに透明性を確保し、被疑者の冤罪をはらそうとする努力がスムーズに反映するような仕組みが機能していることも、前提条件として必要だと思います。
 その二点が達成されていて初めて、コスト・ベネフィットの問題は議論できるのではないか。しかし日本の警察・司法の現状はそこからまったく、お話にならないくらいに遠い、と僕は思います。

 以上のように様々な角度から検討して(本当はもっとあるはずですが)、コスト・ベネフィット論は冤罪の問題の答えとして適切でない、と結論づけていいと僕は考えます。

(ちなみに一点、これは死刑の話とは外れるので、やはりここではあまりつっこみたくないですが、原発の是非にコスト・ベネフィット論を適用するのも無理があると思います。「事故」のケース一つとっても、他の電源、たとえば火力発電所の事故と比べて、原発の事故の深刻さは質においても量においてもあまりにも桁外れで、同列で扱うことができません。原発の問題性とは、それがコスト・ベネフィットを突き抜けてしまうからこそ「問題」なんだと思います。)


 次に、欧州では死刑存置の考え方は一種「克服」されている、と僕が書いたことについて。

>その「一種」というものがどういうものか、が重要なのです。おそらく日本も世界の流れに抗せず死刑を廃止するでしょう。しかし、私はそうなるとしても納得して死刑廃止になってほしいのです

 どちらかといえば同感です。だから僕もあえて「一種」と書き添えたんです。
 Phlsさんの、その気持ちは否定しません。ただ僕は、国民の多数が「納得」しなくても、死刑の廃止された日本をこの目で見たい。それも正直な気持ちとしてあります。
 実際に廃止されて月日が経てば、廃止が妥当だったことを実感する国民は必ず増えると信じています。もちろん、そうならない人も、必ず無視できないほどに残るのも間違いありませんが。
 欧州でさえ、死刑廃止に納得していない人はいまだにたくさんいます。フランスだと、廃止前には約6割が、廃止後の今でも約4割が「納得」していないようです(「廃止先進国」のイタリアなんかでは、もっとぐっと少ないようですが)。
 その意味では、フランスの死刑廃止は政治的文脈から強行されたと言い切ってもいい。が、理論的文脈が皆無だったわけではもちろんない(大体民主国家において、そんなことは不可能です)。ただ、理論的文脈において解決されていなくても、政治的文脈がリードして制度を変えることが正当である場面がある。死刑廃止は、まさにそのような類の政治的決断たりえると思います。
 だって、考えてもみてください。人を「殺そう」と決断するのではありません。「殺すのはよそう」と決断するのです(より正確には、「殺すのだけはよそう」と決断するのです)。理論においてどっちが正しいか判定がつかない時に、「殺さない」方を選ばない政治って、恐ろしくないですか?

 それは、理論が現実にどう反映するかを吟味するのに、先に現実を用意してしまえ、そうすれば妥当性がわかる、という一種の荒療治かも知れません。しかし、実際には闇雲に導入するわけでなく、たとえば諸外国の先例をじっくり考慮したり、自国の刑法との整合性や代替刑などの対策とセットで導入するわけで、そこには刑法や社会学をめぐる最新の理論が補助的にでも反映されているのが普通でしょう。 その意味ではフランスにしろ他の廃止国の例にしろ、理論をないがしろにしたものとまでは言えないだろう、と僕は考えます。


 理論的文脈を政治的文脈から切り離して追求したいというお考えには、それはそれで敬意を表します。ですが、現実は理論だけで動くものではありません。それを嫌というほど思い知らされているのは、我が国に関して言うと、存置派ではなく廃止派の方です。
 その意味で、

>理性的根拠の欠如に納得がいかない、ということは別におかしなことではない

のは、実に当然です。ただ僕にしてみれば、それは存置側が廃止側に言うことなのか?という点が腑に落ちないわけです。
 僕は死刑廃止の考えを、もっぱら理性的根拠によって学んだつもりであり(それだけでは不十分だということも最近学びましたが)、それが欠如しているのはむしろ存置側の大多数ではないか、という印象が拭えません。そこから、

>>「容認派には感情論しか残っていない」というのは、僕の今までの死刑論議の見聞や、自ら参加する中から出てきた実感です。

という、Phlsさんが疑義を提起された問題の文へとも、つながるわけです。このあたりは、コメントをいただいた2/16のエントリーだけでなく、死刑廃止のタグのついた他のエントリーも併せて読んでもらえば、ある程度以上納得いただけると思います。
 ちなみに、僕自身は「理性的根拠」によって死刑廃止を学ぶ以前、感情的にはむしろ死刑賛成の側にいた者です。「理性的根拠」を学んだ後でも、感情は賛成の側と反対の側に引き裂かれるという形で、まだ賛成の側にも残っていますし、残り続けることでしょう。


 最後の、「戦争と死刑の親近性」について。
 僕はこれを「親近性」という言葉で表現することに、やや抵抗を覚えます。「親近」というより、明らかに同じ根っこから生えている二本の木のようなものだと思っているからです。釘を刺しておきますが、これは「好戦的な国では死刑が多い」というような、短絡的なこじつけのイメージとは関係ありません(大体、それは事実と違うし)。
 しかし、これは大きく、難しいテーマで、今の僕にはしっかり論じ切るゆとりがありません。日々の暮らしの中で少しずつ考え足したり、直したりしている最中です(当該エントリー「死刑について、異論に答える―1」でも触れましたとおり)。その上で、

>「死刑肯定論」は「正戦論」になぞらえるべきであり

というところは、基本的には「そうだと思っている」とお答えしておきます。
 ただそれに続く、

>正戦論が絶対平和主義に向ける批判、絶対平和主義の持つ弱者への過酷さに対する批判が、(形を変えるとしても)廃止論に対しても成立するのではないでしょうか?

 この中の「絶対平和主義の持つ弱者への過酷さ」というのがピンとこないのですが。ここでの弱者というのは具体的にどんな人達ですか?死刑論議で言えば、犯罪被害者のことでしょうか?いつかもう少し説明を願えれば、と思います。
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8 コメント

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Phlsさんのコメントを読んで思った事は (うろこ)
2008-04-09 10:54:23
「この人頭でっかちなのかな?」
でした。あんまり人と会話していない人のように感じました。人に分かってもらうように自分の言葉を紡ぎだす、事をしていないような印象を受けました。
「人の言葉」ではなく、「本の言葉」のような…
Phlsさんの感情や心が言葉に感じられないんですよ。
知識をそのまま出すのではなく、一度自分の懐に入れてから出して欲しいな~と私は思いました。
今日また執行が (所沢の人)
2008-04-11 01:34:57
今晩は。

今日死刑が執行されたという発表がありました。この大臣の下ではなされるであろうということはある程度予想されたことなので驚きはありません。ただこのニュースをヤフーで知ったときに執行賛成のコメントが異様に多いことには驚かされました(おそらく普段の10倍くらいはあったと思います)。

私自身は世間における社会不安の現れであると考えています。そしてこうした傾向はますます強まっていくのかもしれません。以前このブログのコメント欄で物凄い社会防衛論を唱えていた方がいましたが、あのような意見は考えている以上に多いのではないでしょうか。

ではそうした社会不安を取り除くものは何かという答えを見出すことは難しい。私は宗教と家族が鍵になってくるのではないかと思っています。もちろん旧来の教条的・制度的なものではなくもう少し原始的な部分を見直すことが重要なのではないかと考えています。

日本以上に格差が進んだアメリカ社会では、以前から映画(アメリカンビューティーなど)で旧来の家族の崩壊後を描くようになってきています(ゲイが通常のこととして描かれるようになりました)し、善く生きることを強要する保守的なキリスト教を離れ仏教に改宗する人が増えてきているという話を聞いたことがあります。

自分の力ではどうにもならない運命との向き合い方や扶養を超えた人間関係の重要性をもっと考える機会があればなあと思うのですが、日本社会はますます実利を追う社会になってしまっているような気がします。冤罪被害者についてコスト・ベネフィット論で語るなんてのはその典型でしょうか。

私は今みたいな時代にキンクスの「アーサー…」なんかが流行ると良いのになあと思ってしまいます。それなりに生きていくのが幸せだなんていうのは上昇志向の強い今の若者には受けないかもしれませんが。

脱線しまくってしまって失礼しました。
遅くなってごめんなさい (レイランダー)
2008-04-12 20:38:39
どうも近頃頭が“春眠”モードで・・・・ちょっと込み入ったことを考えるだけでも億劫な日が続いてまして・・・・原因不明の下痢も続いておりまして・・・・酒だけはしっかり飲んでますが(原因はそれだろ)。

>うろこさん

>人に分かってもらうように自分の言葉を紡ぎだす、事をしていないような

こんな言い方はアレかも知れないけど、Phlsさんはまだいい方だと僕は思うんですよね。もっとあからさまにひどいのにも出くわしますから。ネット界隈に限らず、日常生活でも。
でもこれは常に自分自身への戒めにもしたい言葉です。実際、そこにこだわって書いてるつもりだからこそ「肉体労働」に近い体力を使ってしまってバテるんですけど、僕の場合。

>所沢の人さん

ヤフーは近年、国内ニュースのトップ項目を読売や産経中心に持ってくることが多くなってゲロゲロなので、僕は昨年スタートページから外しました。「社会不安」を煽ってるのはまさにこうした大手新聞であり、そうした大手と提携関係にあるヤフーでもあるんですよね(まあ煽りの最大手は「国」ですが)。
だから今回の死刑執行に賛成の声がいつもより多いように見えても、それ自体はあまり気にすることでもないと思います。多いといえばいつも多いし、そのうちの大多数は、かといって死刑制度が自分らの安全を守ってくれると確信しているわけでもない。ありもしない「安全」とか「癒し」とかを求めて、これからもメディアに振り回されていくことでしょう。

時々思うんですが、日本で死刑を真正面から取り上げて歌うロック・シンガーでも出てくれば面白いと思うんですけど。
なぜ出てこないのか?袋叩きに会うのが怖いんですかね?自分らの国の問題も取り上げないで、「戦争反対」とか「自然を守れ」とか歌ってるような連中は、ロックの名に値しないですね。たとえばキンクスは『アーサー』その他で常に「英国問題」を見据えて歌い続けてきたわけで。

忘れてましたが、パオロ・マッツァリーノの『反社会学講座』、メチャメチャ面白かったです!良い本を教えてくださり、ありがとうございました。
こんばんは (月の子)
2008-04-15 23:20:18
春が来る直前に、小さな畑を耕していると、あやまって冬眠中のカエルを地中から掘り出してしまうことがあります。もちろん、グッスリ睡眠中なのでぼよよーんとした状態で、だらーんと地中に放り出されるわけですが、こちらはビックリして、慌てて地中に戻すのですが、後の祭り。そのまま天国にいっちゃうんでしょうね。ごめーん、合掌なのです。
わたしは忙しさもあって、死刑廃止運動にはほとんどかかわれないのですが、先日の死刑執行で殺されてしまった岡下香さんのお別れ会を、わたしが関わっている山谷にある教会で執り行うことになり、参加しました。遺影は若い頃の写真なのですが、棺の中の彼は、まだ61歳なのに、随分と歳をとっているように見えました。支援者とご遺族で、思い出を語りながら見送りました。遺体はご本人の希望で献体するということで、防衛医大へと送られました。
こういう場に立ち会ったのは初めてでしたので、何ともいえない気分でした。岡下さんは、死刑が確定しからそれほど時間がたっていなかったので、執行は非常に早かったという感じがします。
彼に殺された人の無念も、死刑になった岡下さんの無念も、秤にかけることは出来ない。
わたしはやはり、殺すことを問われない国家による死刑には賛同できない、、、。
>月の子さん (レイランダー)
2008-04-18 15:16:01
こちらも遅くなりまして。

いいですね、耕す畑があるって。僕も子供の頃、近所の空き地(前のエントリーで書いた)にちょっとした家庭菜園みたいのを作って、きゅうり・トマト・ナスなんかを育てたことがあります。見た目はしょぼくても、その日取れたての野菜って、店で買ってきた野菜なんかより断然うまいんだってことを実感しました。

死刑囚が死後の遺体の献体を希望するっていう話はよく聞きますね。ほとんどの人がそうなんでしょうか。手塚治虫のブラックジャックにも、そういう死刑囚の物語が出てきて(「死者との対話」とかってタイトルだったかな)、特に忘れられない話の一つです。
ちなみに、防衛医大は去年僕が入院した病院です。僕は生きて出られましたが(笑)、死んであそこに向かう人もいるんですね・・・。
遅くなりまして申し訳ないです (Phls)
2008-04-27 22:41:17
>続きの「返答2」がありそうだったので、しばらく待機していたのだけど、音沙汰がない。

すいません。ブログ主さんが返答してから、それに対する応答という形で書こうと思っていたので・・・。でも確かに「返答"1"」なんて書き方したら、続きがあると思いますよね。
申し訳ないです。


>次の返答へと話を進め易いこともあろうかという気がしてきた。
お気づかいありがとうございます。
期間が空いてしまいましたが、再開のきっかけをいただきましたので返答させていただきます。

ただ、ブログ主が提示した論点すべてに答えると分量が膨大になりますので、さしあたって、一点だけにしておきます(これだけでも長いんですけども)。

一種の克服について

あのですね、

>ただ、理論的文脈において解決されていなくても、政治的文脈がリードして制度を変えることが正当である場面がある。死刑廃止は、まさにそのような類の政治的決断たりえると思います。
 >だって、考えてもみてください。人を「殺そう」と決断するのではありません。「殺すのはよそう」と決断するのです(より正確には、「殺すのだけはよそう」と決断するのです)。

ということと、

 >それは、理論が現実にどう反映するかを吟味するのに、先に現実を用意してしまえ、そうすれば妥当性がわかる、という一種の荒療治かも知れません。

ということは全く別のことなんですよ。

>理論においてどっちが正しいか判定がつかない時に、「殺さない」方を選ばない政治って、恐ろしくないですか?

という言い分は理解できます(個人的に異論はありますが)。だから、死刑の存廃で決着が『ついていない間』、死刑の執行を『一時停止』するべきだ、という主張はそれなりの説得力があり、引用部分の前半「政治的文脈~決断するのです」は(一時停止の主張として読むとして)「政治的に」正しい措置であるかもしれません。

しかし、後半はとても正しいとは言えません。
私が間違っているのかもしれませんが、廃止論者が望んでいる『廃止』は「死刑廃止は逆行不可能であるべきだ。死刑再開なんてあってはならない」という前提に立っているように思えます。
この推測が正しいとして(正しいと思いますけども)、「荒療治をする」というのは、理論的な決着が廃止論の勝利に終わった場合に、そしてその場合に「のみ」正当化される(逆行不可能な廃止という)政策を行う、ということを意味するわけでしょう。

最新理論がある程度用いられてることを勘案しても、私は理論で決着がついておらず、国民の少なくない割合の人が賛成している中で政治「だけ」で決着をつけるのは、危険だと思います(もちろん、この批判はある種の肯定論にも当てはまりますけども)。

これは、
>コスト・ベネフィットの問題に帰することができる──というより、帰するという現状を受け入れるしかない場合、というのをあえて考えてみます。(中略)警察や司法組織が今より段違いに透明性を確保し、被疑者の冤罪をはらそうとする努力がスムーズに反映するような仕組みが機能していることも、前提条件として必要だと思います。

という意見にも関わってきますけども、冤罪に関して私に向けられた他の異論を括弧に入れるとして(ご不満はあると思いますが、ここは今だけ譲ってください)、何故「透明性が確保され、被疑者の冤罪を晴らそうとする努力がスムーズに反映する仕組み」が整うまでモラトリアムを置くべきだ、と言わずに「廃止すべきだ」という強い主張になるのか(ちなみに私の立場は、5~10年のモラトリアムを置いて集中的に制度と運用の欠点を改めるべきだ、というものです。前回説明をしなかったので、欠点を放置したままの肯定論者と見られても仕方ありませんが)

更に言えば、制度改善の間のモラトリアムなり理論的決着がつくまでの政治的棚上げなりにしても、それにも暫定的・一時的な死刑停止ということからくる、満たすべき条件というものはあるはずです。
例えば、5年に1回、制度の透明性を検証するとか、10年後に国民投票を行うことを前提とするとか、状況が変わって肯定論が有利になった場合に死刑を再開できる保証、少なくとも再開しやすい保証が必要だと思います(逆に廃止論が有利になった場合、死刑を一時停止したり、停止を延長することを保証する措置も必要だと思います)。

理論的な決着を括弧に入れて、政治的な措置を言うのであれば、廃止論側の言い分を受け入れてもこの辺が穏健で妥当だと思いますが、「一時停止ではダメだ、廃止なんだ」と(少なくとも一見したところそう主張しているように見えます)言われるのが、私はどうしてもこの辺が納得いかないわけです。

勿論、ブログ主様は、「廃止」を「一時停止」の意味で用いていて私が勘違いしているだけなのかもしれません。そのときは非礼をお詫びします。


その他の回答に関してはまた後日させていただきます。


>Phlsさん (レイランダー)
2008-04-29 12:32:41
返答ありがとうございます。

このたびのPhlsさんの反論のポイントをかいつまんでまとめますと、
廃止論は強すぎる主張なので受け入れ難い、
なぜ「一時停止」を主張しないのか、
ということだと思います(違ってたら改めて反論をよろしく)。

まず、これはこれまでの僕らの間のやりとりでは出てきていない、新しい論点だということを確認しておきます。

その上で考えを言わせもらえば、まず僕自身は、死刑の一時停止は廃止の前段階として必要なもの、という認識を持っています。
なぜ必要かと言えば、言うまでもないことですが、現在我が国では民意の多数派は死刑の存置を望んでいる。その意味では、現状の制度は民意を反映している。僕はその民意の中身に多大な疑問を抱いている者ですが、そうは言っても、民意に変更を迫るには、段階的な措置が実際には必要だろうと思います。
だからいきなり廃止が実現できなくても、「一時停止」が実現されれば、それは廃止に向けての(最も重要な)一歩前進です。なにしろ近代日本の誕生以来、一度も実現しなかったことなんですから。

ところで、すべての廃止論者の考えを代弁することはできませんが、死刑廃止論者と言われる人のほとんどが、上と同じ考えを持っていると僕は認識しています。少なくとも、「一時停止」でお茶を濁すくらいなら存置の方がいい、なんて主張する廃止論者を、僕は知りません。
たとえば超党派の国会議員から成る「死刑廃止議連」の法案「重無期刑の創設及び死刑制度調査会の設置等に関する法律案」は、重無期刑の導入と併せて、まさに一時停止の実現を求めています。一時停止の間に死刑制度調査会を発足させ、死刑についての議論を活性化していくことが一つの狙いのようです。
http://www.jca.apc.org/stop-shikei/data/shikkouteishi.html
(一番下のほう、第三章・第四章をご覧ください)

そういうわけで、廃止論者が、実際の政策として、まず一時停止の可能性を追求するのは今に始まったことではなく、ごく普通のことです。韓国や台湾でも「廃止」ではなく「停止」の状態が続いているそうですが、国連の勧告もできれば廃止を、できなければまず停止を、という呼びかけ方になっているわけです。

で──何が問題なんでしょう?

>廃止論者が望んでいる『廃止』は「死刑廃止は逆行不可能であるべきだ。死刑再開なんてあってはならない」という前提に立っているように思えます。

これは、まさに前提として、原則として当たり前ではないですか?「死刑廃止は逆行可能である──再開が必要な時はいつでも再開を」なんて廃止論は「廃止論」とは呼べないでしょう。
現実にはなかなか「廃止」は難しいから「停止」から入る。だからといって、廃止という原則までも「停止」に変える必要はない。現実には段階的な措置を受け入れているのに、それに加えて原則までを変えないからと、廃止派が責められなきゃいけないいわれはないですね。

いざ死刑再開の世論が大きくなったら(Phlsさんの言葉を借りれば「肯定論が有利になった場合」)再開できる保障を法案に盛り込むべき云々というのは、僕は別段反対はしませんが、それは民主主義体制下の国会が機能しているかどうかの問題であって、死刑論、廃止論の本体とは関係のないことです。
民主主義においては、改正不可能な法律なんてものは原則としてないはずです。憲法ですら改正されようとしているこの国にあっては、言うまでもなく。
廃止の立場からすれば、当たり前すぎるほど当たり前の話です。だって、今に至るまで「肯定論が有利になった場合」が、我が国では延々続いているんですよ。それを押し切って廃止あるいはその前段階の「停止」までこぎつけるために、どれほどの妥協が必要か、本当の廃止論者ならば、知らないはずがない。ここに至って、廃止論に懐疑的な立場の人から「肯定論」への目配りを要求されなきゃならないなんて、正直なところ片腹痛いです。

僕は死刑廃止論とは別に、独立した「停止論」のようなものが必要だとは思いません。でも必要だと思うなら、Phlsさん、あなたが率先してその「停止論」者になって、各所でアピールしてくださることを希望します。実際にその「停止論」は「廃止論」ともかぶるところ大ですから、こちらにとっては心強いんです。


どちらかというと付け足しですが、

>「荒療治をする」というのは、理論的な決着が廃止論の勝利に終わった場合に、そしてその場合に「のみ」正当化される(逆行不可能な廃止という)政策を行う、ということを意味するわけでしょう。

このあたりはどうもピンと来ないんで。たとえば「理論的な決着」という言葉にこだわってらっしゃるけれど、その決着を判定するのは誰なんです?あるいは何をもって決着がついたとお考えで?
廃止論者の中では「廃止論の勝利」で理論的な決着はついているんですよ。ただその理論の妥当性をより多くの国民に納得してもらうために、政治がリードして政策として実行する、そのことを「荒療治」と表現したわけです。政治は時にこういう「荒療治」を必要とします。ただこの場合のそれは、社会に害を及ぼす可能性よりも前に、(殺さないという選択をすることで)歴然と人の命を救う「荒療治」であるだけに、本来かなりポジティヴに試行を検討されていいはずなのに、というのが僕の考えなわけです。
同じ文脈で、

>私は理論で決着がついておらず、国民の少なくない割合の人が賛成している中で政治「だけ」で決着をつけるのは、危険だと思います

というのは、死刑に限ってではなく、政策全般として同感です。だけど、そんな「決着」は山ほど世の中にあふれていますね。
たとえば裁判員制度の導入なんて、「理論で決着」どころか、そんな理論聞いたこともない、という話がいきなり実現しちゃうし。まああれは極端な例だとしても、山ほどある政治「だけ」の決着(実は政治「不在」の決着も混ざってるんですが)の中で、死刑の廃止が特にその観点から危険視されなきゃならない理由があるんでしょうか。具体的に、死刑が政治「だけ」の文脈で廃止された場合、どんな危険性があるのか、できればお考えを聞かせていただきたいと思います。


続きの返答もお待ちしてます。
返答:長いです。すいません。 (Phls)
2008-05-18 13:38:39
>このたびのPhlsさんの反論のポイントをかいつまんでまとめますと、廃止論は強すぎる主>張なので受け入れ難い、なぜ「一時停止」を主張しないのか、

ちょっと誤解があるようです。
ブログ主様が以前

>ただ、理論的文脈において解決されていなくても、政治的文脈がリードして制度を変えることが正当である場面がある。

と述べたので、「理論的文脈において解決されていない」という前提で政治的な正しさによって死刑廃止を正当化できるとすれば、(ブログ主様が命名した)「停止論」までではないのですか、というのが言いたかったことです。
ですので、Blog主様が
>廃止論者の中では「廃止論の勝利」で理論的な決着はついているんですよ。ただその理論の>妥当性をより多くの国民に納得してもらうために、政治がリードして政策として実行する、そのこ>とを「荒療治」と表現したわけです。
という前提なのだとしたら、私の意見は確かに「片腹痛い」ものだと思います。
この点私は誤解して論を進めたかもしれません。申し訳ありませんでした。
それと「政治的文脈」の話はもう終えようと思います。前提が違えば議論する意味がありませんので。


>これは、まさに前提として、原則として当たり前ではないですか?「死刑廃止は逆行可能>である──再開が必要な時はいつでも再開を」なんて廃止論は「廃止論」とは呼べない>でしょう。
(中略)
>だからといって、廃止という原則までも「停止」に変える必要はない。現実には段階的な>措置を受け入れているのに、それに加えて原則までを変えないからと、廃止派が責めら>れなきゃいけないいわれはないですね。

死刑廃止論と言っても一枚岩ではありません。従ってブログ主さまの死刑廃止論がどのような死刑廃止論なのかによって私が言えること/言うべきことというのは変わってきます。ですので、お立場の確認をさせて頂いたのです。
それと

>それに加えて原則までを変えないからと、廃止派が責められなきゃいけないいわれはないですね。

という発言への返答ですが、私は原則を変えるべきだとは一言も言っておりません。廃止論にもよりますが、“原則を変えなくても”廃止論の立場から一定の条件が成立すれば死刑をすべきだ、再開すべきだという結論は得られますので先のコメントをしたのです。

例えば「死刑は抑止力がないから止めるべきだ」という意見があります。しかし、少なくとも私が知る限りでは死刑廃止論は“殺人罪に対する死刑”は抑止効果がない、という論でしかありません。“死刑がそれに対して抑止力を持つような犯罪”が存在すれば、その犯罪に対して死刑を適用すべきだ、というのがこのタイプの死刑廃止論者の結論になるはずです。本当に彼/彼女が死刑の抑止力の欠如を根拠としているならば。
また例えば、死刑執行人の心理的な辛さを論拠として死刑廃止を訴える人もいます。しかし技術が発展して自動死刑執行装置ができたとすれば(私は既存の技術で可能だと思っていますが)、執行官の心理的な苦しみが原理的に存在しなくなる状況ができれば、死刑は執行なり再開なりすべきだ、というのがこのタイプの廃止論者が受け入れなければならないことのはずです。本当に彼/彼女が執行官の心理的な負担を廃止の根拠としているならば。

私見では、「ガチガチ」の死刑廃止論、無条件に、どんな代償を支払っても、例えば刑罰全体を廃止しても(*)死刑は廃止されるべきだ、という廃止論を信じている人は非常に少数であると感じています。ですので、(同じことの繰り返しになってしまうかもしれませんが)、

>これは、まさに前提として、原則として当たり前ではないですか?

は当たり前であるとはとても思えません。

*例えば、もし死刑に抑止力がないから止めるべきだ、という論理が正しいなら、そして、もし刑罰全部が抑止力を持たないならば、刑罰全体は廃止されるべきだ、がこのタイプの廃止論者の結論となります

>その決着を判定するのは誰なんです?あるいは何をもって決着がついたとお考えで?
これについてはまだ十分整理ができていませんので、網羅的な回答になります。ご容赦ください。
1.「誰が」について
これは個々人がそれぞれの考えに従ってとしか言いようがありません。ただし、その個々人が肯定論と廃止論のどちらが正しいのかと判断するに際して、肯定論と廃止論のどっちが各々に課せられた課題に誠実に向き合っているかが、 ひとつの有力な判断根拠となることは期待できると思います(そして各々の立場がどのようなものであっても各々に課せられた課題が何かは、理解できると思っています)
例えば肯定論者は冤罪の可能性や執行官の心の辛さにどう向き合うか、が課せられています。 
逆に廃止論者には(少なくとも「国家による」殺人だから反対というタイプの廃止論者)には、「誰が処罰する権限をもっているか」ということと、「どのような刑罰が正しいか」ということは別のことだ、という批判に対して答えなければなりませんし、(死刑制度の欠点を論拠とする廃止論を支持する人は)死刑「制度」がどんな欠陥を持っていたとしても、「制度の弊害」をなくすように制度を改善するという選択では何故いけないのか、という批判に答えなければなりません。



2.「何をもって」について
私は、死刑が「正義に適った刑罰」だと「考える」から、死刑でないと「不公正であるような犯罪がある」、あるいは起こる可能性を排除できないと「考える」から、死刑存知論者なのです。
従って、私にとっては、死刑「思想」が克服されたとき、「死刑は(公正としての)正義にかなった刑罰」であるという「考え」が原理的に克服されたとき、「どんな罪を犯しても、どんなに重い責任を負っても、死に値することはない」という「考え」が正しいと証明されたとき、「加害者の命は被害者の命よりも重要なのだ」ということが証明されたときに決着が着いたと考えます。

この点は、

>具体的に、死刑が政治「だけ」の文脈で廃止された場合、どんな危険性があるのか、できれば>お考えを聞かせていただきたいと思います。

という質問への回答とも関わってきます。

結局のところ死刑廃止は「何を廃絶することなのか?」。それは「公正としての正義」という理念、人間の生命の価値は平等なのだという理想を(それが先鋭に問われているところで)放棄すべきだ、というのが廃止論者がそういう考えをもっていないとしても、廃止論の帰結ではないのか。「公正としての正義」を(少なくとも公共的には)否定することを国家・社会が基礎づけることを意味するのではないのか。

政治だけの文脈で死刑廃止が行われるのだとしたら、上の疑念が実現することだと考えるからです。


最後に宿題の部分的な回答

>この中の「絶対平和主義の持つ弱者への過酷さ」というのがピンとこないのですが。こ>こでの弱者というのは具体的にどんな人達ですか?死刑論議で言えば、犯罪被害者のこと>でしょうか?いつかもう少し説明を願えれば、と思います。

弱者というのは殺された被害者のことを意味しています。そして「ある種の」死刑廃止論が被害者に過酷だということを示して、宿題の部分的な回答とさせていただきます。

以下アムネスティの高橋哲哉氏の講演会からの引用です
「国家の暴力 - 戦争・死刑・人権」 報告 」
http://homepage2.nifty.com/shihai/report/041023takahashi/1.html
の4ページ目より引用します。

―引用開始―
それなら「極刑に処してほしい」という遺族の感情はどうなるんだ、そういう反論が必ず予想されますよね。この議論はなかなか難しいので、もちろん私もここで結論を申し上げることができるとは言えないのですが、しかし、ひとつ言えるのは、復讐感情、応報感情と言います、しかし、遺族は殺されていないんですよね。家族を殺されている、あるいは、殺された人の友人であったり恋人であったり、いろいろするかもしれませんが、そういう人が極刑を望む、「殺したんだから殺されて当然ではないか」というふうに極刑を望む復讐感情・応報感情というのは、果たして根拠があるんだろうかと。こういうことを言えば猛反発がくるだろうと思います。

殺されたのは、殺された人なんですよ。犠牲者なんですよ。ですから、殺されたから殺す権利があるとすれば、被害者だけだと私は思います。もちろん遺族の人は大変苦しみを受けることになったでしょう。そうだとすれば、その苦しみについては応報感情・復讐感情を持つということが自然かもしれない。そこから論理的に「死刑」というのは出てこないんですよ。
―引用終了―

上記引用部の「殺されたのは、殺された人なんですよ。犠牲者なんですよ。ですから、殺されたから殺す権利があるとすれば、被害者だけだと私は思います」という箇所に注目してください。ここで高橋氏は「殺す権利があるとすれば」という条件法の書き方をしているという留保が必要ですが、殺された被害者には報復の権利を認めているわけです。しかし、「ではその被害者はその権利を行使できるのか?」。答えは明らかに否です。
従って高橋氏の死刑廃止論は「殺人の被害者が報復の権利を行使できない状況におかれていること」を無視した廃止論なのです。この意味で彼の廃止論は被害者に過酷だと思います。こう言って悪ければ「ずるい」と思います(もちろん彼の議論はさまざまな要素を含み、検討すべき所も幾つもあるので、単純に弱者・被害者に過酷な死刑廃止論と言って切り捨てるわけにはいきませんが、そして彼の死刑廃止論に当てはまることが死刑廃止論一般に当てはまるわけではありませんが、部分的には私の主張の正しさが示せたと思います)。

残りはまた後日に返答させて頂きます。

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