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死刑について、異論に答える―1

2008年02月16日 | 死刑制度廃止
 このところ立て続けに書いた死刑関連のエントリーに対して、さまざまなコメントをいただいた。その都度レスをつけていたのだが、一番最近の(2/16現在)お二方のコメントには、僕の文章も「反論」の形をとる必要から、それなりに分量がかさむ見積もりとなったので、独立したエントリーの形で答えることにした。
 まずこの「1」ではDHさんの吉祥寺で死刑制度についての討論会(2/6)につけられたコメントに対して。

 順番に。
 他の人へのコメントの中で、僕が「容認派には感情論しか残っていない」と述べたことに対して、DHさんは
>一方的な決め付けですね。確かに容認派の中には情緒的な人もいるでしょうが、100%そのような人ばかりではないと思います
と指摘された。

 「容認派には感情論しか残っていない」というのは、僕の今までの死刑論議の見聞や、自ら参加する中から出てきた実感です。そして、その感情論こそが実に一番手強い、なにしろ自分も共感するところ大であり・・・・というのも実感でして、だからこそ悩ましいところなんです。
 それでも、それは「感情論」と呼ぶにふさわしいものには違いない、という考えは、やはり変わりません。森達也の『死刑』には、全国犯罪被害者の会の幹事さんと、日本で一番遺族への取材をこなしたとされるジャーナリスト・藤井誠二氏へのインタヴューが収録されていて、この二つは共に、僕がこれまでに読んだ存置論の中でも最も印象的で「手強い」ものでした。それでも、僕はじっくり考えてみて、それらはやはり「感情論」であるという結論に立ちます。
 そういう意味で、軽はずみな“決めつけ”をしたつもりは、僕としてはありません。
 死刑存置を訴える「人」が情緒的かどうかは別にして、DHさんから見て、その人達が言うことの中にこれは確かに納得できる、死刑はやはり必要だ、と感じたロジックがありましたら、一つでいいから教えてください。僕は出会ったことがありません。出会っていたら、今、廃止論者を自認していないでしょう。

>死刑制度がある国においては「人を殺せば自分も命を奪われる可能性がある」ということなのですから、死刑判決を出させない、更に言えば死刑が執行されないようにするためにも(引いては死刑制度そのものをなくすためにも)人を殺してはいけない、と教えることはできるのではありませんか。

 これはちょっとどうかと思います。「死刑になりたくないだろ?だから人を殺しちゃいけないんだ」と子供に教えるのと何が違うのですか?それじゃ窃盗も、「刑法第○○条に触れるから、しちゃいけないんだ」と教えるようなもんです。それが倫理ですか?
 もちろん、そういう教え方も「できる」という、制度に依拠した原理的な可能性を指摘なさっただけだということは分かりますが、僕はそんな制度の有無に拠らずに殺人を否定する社会に暮らしたいし、子供達にもそういう社会を残してやりたいです。

 ただ、その後で指摘された、

>死刑があるから子どもに人を殺してはいけないと教えられないのであれば、死刑のみならず軍隊をも否定しなければ同様に(殺してはいけないと)教えられないことになってしまう

というのは、正論だと思います。
 僕は実際「死刑のみならず軍隊も」否定する者です。2/6のエントリーで紹介したアンジェロさんはどうなのか、聞いてません。アンジェロさんの母国イタリアには軍隊があります。日本の死刑を否定するならイタリアの軍隊も否定すべきでは?と、彼にはいつか聞いてみましょう。
 僕は個人的に、これは重要なテーマだと考えています。誰かが言っていたけれど、死刑と戦争はコインの裏表、っていうのは、当てこすりなんかじゃなく、死刑の秘密の一端につながっているように思います。死刑を廃止したいくつかの国で、「ただし戦争時のような国家非常事態は除く」っていう例外規定を設けてあるのも、とても深い意味があるはずだと。ここでは深く考えることはよしますが。

 しかし、DHさんがなさっているような、イタリア軍を含むNATO軍と、日本の自衛隊との対比は無意味です。NATO軍が戦闘に参加して人を殺しているのに対し、日本の自衛隊がまだ一人も殺していないからといって、「NATO軍の方が野蛮」という言い方ができるわけではありません。自衛隊は憲法の縛りによって戦闘参加が禁じられ(または極度に抑制され)ているだけであって、軍隊としての本質はどこの国の軍だろうと、何の違いもないのですから。
 また、自衛隊の軍隊としての性質がどんなものであれ、それが日本の死刑制度を正当化するわけでもありませんから、そういう意味でも、この対比を持ち出すことは無意味だと僕は思います。

 ただ、DHさんがこうした材料を使って反論を試みる気持ちは理解できます。

>存置国=命を粗末にする野蛮な人権後進国
 廃止国=人権が保障されている文明国

 こうした単純な図式が死刑廃止の側から時として提起されることに対する反発は、僕も「そうなんだよな・・・」とうなづかされます。廃止論者は、これを錦の御旗のように振りかざさない方がいい。でないと、要らぬ反感を煽るだけ(それこそ感情論の)、廃止論をアピールする上で、マイナスの効果の方が大きいかも知れない。
 一方で、この図式は全く根拠のない図式というわけでもない。世界の国別の人権状況を、ある程度浮き彫りにしている面もある。だから、完全に捨て去るべき図式というのでもなく、使いどころを考えて、ってことかも知れませんね。

 ただ、僕も含めた廃止論者がこうした図式や、死刑廃止が特に進んだ欧州のことを取上げるのは、「論」を「論」として補強するためというより、「論」を受け入れてもらうための下地を作るためにやむを得ず、という場合がほとんどという気もします。
 「日本において廃止を実現するためにはどういうやり方が最も効果的かという観点から考えてみるべき」というのは、本来その通り、大賛成なんです。ですが、この国では死刑を取り巻く世界の状況についての基本的な知識が、愕然とするほど欠けているのも事実でしょう。まずその知識を共有してもらわないことには、議論も何もあったもんじゃない。
 死刑廃止という考えを今この日本で持ち出すことが、一種の極論であるかのような感覚でいる人が意外に多いのは、普段暮らしていてDHさんも感じませんか?彼らには日本が先進国の中でも例外的に犯罪率が少ないことや、死刑を存置しているのは世界の中でもはや少数派であるという、「基本」がない。そこから仕方なしに、フランスではどうだイギリスではどうだ、という話も必要になってくる、ということなんですよ。

 ところで、この図式の単純化の問題は、単に国別の人権「先進国」「後進国」っていう色分けの仕方についてだけでなく、そもそも死刑停止または廃止は、「人権」概念を突き詰めることでしか実現できないのか、っていう観点からの問題も含んでいるように思います。正直、僕は死刑の問題を語るのに、いちいち「人権」を持ち出すことに、違和感を覚えるんです。このことは次のエントリーで書きましたので、ご参考に。
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6 コメント

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質問 (Phls)
2008-03-01 03:12:55
少しお聞きしたいのですが、

>「容認派には感情論しか残っていない」というのは、僕の今までの死刑論議の見聞や、自ら参加する中から出てきた実感です。

とおっしゃいますが、そして私はブログ主がその程度死刑論議を勉強されているか存じていませんが、従ってすでに結論を出されたことに対する蒸し返しにすぎないのかもしれませんが、フランスの哲学者ルソーやドイツの哲学者カントの死刑存置論も感情論なのでしょうか?

余計な御世話かもしれませんが、ルソーの死刑肯定論は
http://blog.livedoor.jp/aphros67/archives/50062742.html
で、カントの死刑肯定論(の廃止論者による評価)は
http://209.85.175.104/search?q=cache:Yh-rQT-Rr94J:imadr.org/old/japan/interview/ikeda/hirosiikeda1.html+%E6%B1%A0%E7%94%B0%E3%80%80%E6%B5%A9%E5%A3%AB&hl=ja&ct=clnk&cd=8&gl=jp
で、読めます(カントの場合は削除されてしまったのでキャッシュです。お許しください)
訂正 (Phls)
2008-03-01 03:24:37
すいません、張るリンク間違いました。
探したんですけど、見つからなかったので、該当部分だけ以前メモしてあったやつを貼ります


http://www.imadr.org/old/japan/interview/ikeda/hirosiikeda4....
(リンク切れ)
――人を謀殺した者は、死ななければならない。この場合には、正義を満足させる代償物は何もない。
(中略)
存置論者と廃止論者を問わず、死刑制度の<正当性/不当性>と<合法性/不法性>を論じる際に必ず逢着し、それに対する自らの立場を明らかにすることを要請されるテーゼに、「人を謀殺した者は死ななければならない」という冒頭のカントの定言的命法がある。

 死刑存置論者、いや徹底した「反・死刑廃止論者」であったカントは、同時に非暴力と寛容、そして国際平和を論じたポスト啓蒙時代の啓蒙主義者であった。カントの政治哲学にあっては、謀殺、つまり意識的・計画的に人を殺めた者は法によってその生存権そのものが剥奪されることを自明とする考え方が、寛容・非暴力・平和な国際社会を構築するといった考え方と矛盾することなく、むしろ首尾一貫した相即的論理として提起されているのである。

 何故か。「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理(道徳的法則)として妥当するように行為せよ」(『実践理性批判』)というカントの道徳哲学は、「汝の隣人を愛せよ」や「汝、殺すなかれ」といったキリスト教における戒律を基礎とした、いわば「普遍的人間」としての価値規範の至上命題を前提としているからである。そして、人を謀殺することでこれに背いた者には、近代国家は死刑をもってその者を処罰するのは必然であり、そこにおいてはいかなる例外も許されてはならぬ、という「厳格主義」が貫かれているからである。

 刑法自体を定言的命法とするカントの思想は、「普遍的立法の原理に妥当する行為」に自己を律することが公共的社会としての近代国家に生きる人間=公民としての<義務>であり、それを破れば犯した罪の等価を応報として受けることが公民としての<責任>である、とする思想だと定義することもできる。刑罰論的にはこれを「同害報復権」と呼ぶが、重要なことはカントにあっては、犯罪は個人が個人ないしは複数の個人に対して行われるものなのではなく、公的実在としての国家・社会に対して行われるものと考えられていることである。

 言葉を換えるなら、窃盗や謀殺を犯した者は、公共的社会(を構成する公民全て)の所有権や生存権を脅かす「公共の敵」であり、犯罪者の所有権や生存権を剥奪する<権利>=同害報復権は国家・社会がその存立原理を侵犯する者(たち)を処罰するために行使されるべき自明の権利とされているのである。

 同害報復といえども、しかしながらそれは「目には目を。歯には歯を」(「タリオの法」)の直接的延長としての<復讐論>ではないこと、そこでは加害者や加害者の近親者は言うに及ばず、被害者や被害者の近親者の「心情」などは、一切考察の埒外に置かれていることに注意しなければならない。

 「私の愛する者の命を奪った者が、この世に生きていることは許せない」に収斂される「被害者感情」=復讐の情は、カントの死刑論とは無縁なのである。また、私が<Ⅰ>でのべたようなことは、それこそ刑法の本質を弁えぬ「ロマン主義的センチメンタリズム」としてカントによって一蹴されるのは必至である。あくまでもカントの同害報復論は、「普遍的立法」の直接的具現としての国法の要たる刑法において、「死刑に値する罪」を概念的に明確化し、それに対する刑罰として死刑の必然性を説くという構制となっているのである。

 公民としての他者から物を盗むことは、公民としての自己の所有権を放棄するに等しく、公民としての他者を意識的に殺めることは、公民としての自らを殺めることに等しい、とカントは言う。カントの社会契約論を刑法学的に言えば、死をも含む犯した罪の等価を自ら引き受けることが公民的個人が社会と結ぶべき<契り>となる。死刑もまた正義であるとするカントの正義論とは、こうした<公共的正義>論に立脚しており、死刑そのものがまさしく厳格かつ厳粛なる<配分的正義>の一環を構成するものとして定義付けられているのである。
(後略)
あーらららら (Unknown)
2008-03-01 19:49:39
Phis さん、それを言ったらおしまいよ。このブログ読めば、この人が高卒程度の文しか書けてないのわかるじゃん。
批判にもなってない批判の数々、フーコーも知らんのでしょう。
以前もっとアホなこと書いてたな。「憲法は国民による国家への命令だ・・・簡単に変えられるようでは国の最高法規としての重みなど無い」とか、マジ吹いたw。それを言うなら「憲法は国民による国家への命令だから、国の最高法規などと誤解してはならない」だろ・・って高卒に言ってもわかんねーだろうけど。とりあえず憲法の知識も出鱈目だよ。マキャベリもホッブスもウェーバーもシュミットも名前を伏せといたら、「こういうことをブッこく連中はネトウヨだ~」とかマジで言い出しかねないし。レイランダーくんにネトウヨ呼ばわりされたらウェーバー先生も立場ねーよなw
森達也で「考えが揺さぶられた」だと・・? おいおい、もしかして「心にナイフをしまばせて」も読んでなかったとか・・?

訂正 (Unknown)
2008-03-01 22:21:06
フーコーじゃねえや。これもカントだったわ。俺も駄目だな。
>Phlsさん (レイランダー)
2008-03-01 23:05:23
>フランスの哲学者ルソーやドイツの哲学者カントの死刑存置論も感情論なのでしょうか?

正直、僕の最近のエントリーでの物言いは、ほとんど国内の最近の死刑論議のことを念頭に置いていただけで、ヨーロッパの存置論(それも古くからある)のことはまったく頭にありませんでした。

ルソーやカントら啓蒙時代の存置論は、確かに僕のここで言う「感情論」とは趣が違うものです。それらは結局のところ「タリオの法」を社会契約概念の中でどう位置づけるかの、ほぼ純粋に哲学的な議論であろうことは、Phlsさんのメモからもうかがえます。
たとえば、
>犯罪者の所有権や生存権を剥奪する<権利>=同害報復権は国家・社会がその存立原理を侵犯する者(たち)を処罰するために行使されるべき自明の権利とされている
この場合の「同害報復」が単純に「目には目を」式の同害報復ではないにしても、ほぼ同じ時代に廃止論を唱えたべッカリーアに言わせると、「刑罰権」とは各人が自分の自由の一部を互いに供託し合った総和であって、そこに自分の生命権まで供託する者はいない、したがって彼の属する社会は同胞である彼を「殺す」権利を刑罰権に含めることはできない、ということになる──したがって、カントが言うような意味での「自明」は自明ではない、ことになるようです。ちょっと屁理屈っぽいですね(両者とも)。
また、同じ時代のロベスピエールに言わせれば、捕まった犯人はすでに「社会によって征服された無力な敵」。そんなやつが「国家・社会の存立原理を侵犯する」力など持っているわけがない──王族なら潜在的に持っているが、と言ったかどうか──だから死刑は大人が幼児を殺すがごとき、野蛮な殺人に他ならない、と考えていたそうです。

ネット上で文献に当たってみたことはないので示せませんが、手にしている書籍では団藤重光の『死刑廃止論』その他を参照しました。
ちなみに、カントの存置論にしてもルソーの存置論にしても、冤罪の可能性をまったく考慮に入れていない。そこがこの時代の「哲学的」な議論の限界でしょうか(違うかも知れませんが)。
いずれにしても、これらの存置論・廃止論の御当地である欧州では、軒並み死刑が廃止されている。哲学として解決されていない問題があるのは認めるとしても(そもそも解決されうるものなのかどうか…)、現実に適用する刑法として見た場合、彼の地では死刑存置の考えはすでに一種「克服」されたものであることは否定できないでしょう。
日本で今、死刑廃止の論議にカントやルソーを持ち込むなら、その文脈を無視してこれをしても、どれほどの意味があるのか、高卒の僕には(笑)わかりません。

一応、「同害報復」についての抽象的な思索を、本ブログでは「殺したら殺される」(1/12)というエントリーに書いていますので、そちらもご参考に。
返答1 (Phls)
2008-03-02 00:49:47
いろいろ言いたいことはあるんですが、私生活で時間が無いので、少しだけ返答します。残りはまた後日返答します(返答姿勢としてはどうかと思いますが、どうかご容赦ください)。

>したがって、カントが言うような意味での「自明」は自明ではない、ことになるようです

ベッカリーアについては、まだ私も不勉強ですので返答は控えます。
ただ、私も「自明ではない」ということに賛成します(それともう一点。カントは自明と言っているとは思っていません。原文にあたってみなければわかりませんが、「自明」と言っているのはカントを要約した、廃止論者です)

>、冤罪の可能性をまったく考慮に入れていない。そこがこの時代の「哲学的」な議論の限界でしょうか

現代日本の哲学者児玉聡氏がこの反論に一定の会計津を与えていると思います。
http://plaza.umin.ac.jp/kodama/deathpenalty/resume980112.html
より引用
「わたしは自分が交通事故で死ぬ可能性があるとしても、自動車はやはり便利なので自動車廃止論には賛成しない(ただし交通事故はできるだけ無くすように努力すべきである)」という人達が社会契約して自動車交通を存続させることは考えられないでしょうか。同様に、「わたしは自分が誤判で死刑になることがあるとしても、死刑制度はやはり有益なので死刑廃止論には賛成しない(ただし誤判による死刑はできるだけ無くすように努力すべきである)」という人々が契約を結ぶことは十分に考えられないでしょうか(いやいやそんなことはない)。

確かに「自分が冤罪で死刑になることをあらかじめ承諾する者」はおそらくどこにもいないでしょうが、「自分が冤罪で死刑になる可能性 をあらかじめ承諾する者」はいてもおかしくありません。さきほど言ったように、問題はコスト・ベネフィットなのです。原発を廃止することに反対の人は必ずしも「自分が原発の事故によって死ぬことはない」と考えているわけではなく、おそらく多くの人は「自分が将来原発の事故によって死ぬことはなきにしもあらずだが、それでも原発を廃止するよりも存続させた方が自分が今後受ける利益はおそらく大きいだろう」と考えていると思います。

要するに、冤罪「可能性」とその可能性の程度の評価まで組み込めば、社会契約論の観点からも冤罪を考慮に入れた形で議論できます。
また、社会契約論とは異なった功利主義の伝統(これ自体は廃止論と親和性が高いのですが)を用いて議論することもできるかもしれません。

>彼の地では死刑存置の考えはすでに一種「克服」されたものであることは否定できないでしょう。

そうかもしれませんが、その「一種」というものがどういうものか、が重要なのです。おそらく日本も世界の流れに抗せず死刑を廃止するでしょう。しかし、私はそうなるとしても納得して死刑廃止になってほしいのです。
つまり、ちゃんとした理由によって、ルソーやカントの肯定論を原理的・逆行不可能な形で乗り越えた論理を廃止論が提示することによって廃止へと進みたいのです。そうでなければ、理性的根拠によって死刑廃止が肯定論よりも優れているとは言えないからです。

理性的根拠の欠如に納得がいかない、ということは別におかしなことではないと思いますがいかがでしょう?


>日本で今、死刑廃止の論議にカントやルソーを持ち込むなら、その文脈を無視してこれをしても、どれほどの意味があるのか、高卒の僕には(笑)わかりません

繰り返しになってしまうかもしれませんが、
1.政治的文脈と理論的文脈を区別し、
2.前者に於いて死刑制度を廃止させることが、或はその要求が正当であるのは後者の文脈に於いて廃止論が肯定論に対して原理的優位を持つことである
という原点を確認し、先決要件たる理論的文脈に話を戻す、という意味があります。

>一応、「同害報復」についての抽象的な思索を、本ブログでは「殺したら殺される」(1/12)というエントリーに書いていますので、そちらもご参考に。

まだまとまっていませんので、体系的な回答はできませんが、一点だけ。
ブログ主の死刑と国家の関係をどう考えているのかがいまいち不明ですが、死刑廃止論者にありがちな「死刑と戦争の親近性」を書いているのだと仮定します(間違っていたらごめんなさい)。

そのうえでお聞きしますが、戦争と死刑が親近性を持つものだとしたら、「死刑肯定論」は「正戦論」になぞらえるべきであり、また正戦論が絶対平和主義に向ける批判、絶対平和主義の持つ弱者への過酷さに対する批判が、(形を変えるとしても)廃止論に対しても成立するのではないでしょうか?少なくともその可能性は一概に否定できないと思いますが、どうお考えでしょうか?


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