弱い文明

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『暗殺・リトビネンコ事件』

2007年12月24日 | 映画
 正直、この映画を観るまで、リトビネンコという人物のことをまったくわかっていなかった。
 昨年秋、アンナ・ポリトコフスカヤが暗殺されるという衝撃的な事件に続き、リトビネンコの毒殺事件も起きた。ポリトコフスカヤについては、長くチェチェン戦争の実態を告発し続けていたジャーナリストという予備知識が元々あったので、その殺害はまさにプーチン政権による言論圧殺以外の何物でもないことは、ロシア/チェチェンの昨今の情勢についてさほど詳しくもない僕でも十分見て取れた。しかし、元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐だったという人物が、モスクワを遠く離れたロンドンで毒殺(しかもよくわからない放射性物質で)されたと聞いても、話がまるでスパイ小説もどきに謎めいていて、むごいことが起きたという実感が乏しいままだった。それでなくともポリトコフスカヤの事件をきっかけに、ジャーナリストや活動家に対する暗殺が日常化しているというロシア国内の現実を聞き及んでいたこともあって、ロシア「国外」でのこの事件については、僕の場合その奇妙さ、「ミステリー」の部分に関心が吸い取られて終わってしまっていた。

 この映画では、リトビネンコの亡命先イギリスでの貴重なインタビュー記録を中心に、彼がロシアで見てしまったもの、それとの闘いの意味が切実に浮かび上がってくる。自由への夢とすり替えられた、偽装民主主義の全体主義国家。メディア統制下の警察国家。ならず者達の最後の砦であるところのナショナリズム。そしてチェチェン侵略。
 リトビネンコは一人のロシア人として、モラルの闘いを敢行し、倒された。その意味では、映画の内容は日本語タイトル「暗殺・リトビネンコ・ケース」よりも、まさに原題“rebellion”が示すとおり、「反乱・リトビネンコ・ケース」と呼んでこそふさわしい。妻子ある者の、それも秘密警察組織という、思い切り体制の内部にいた者、反体制どころか、バリバリ体制内エリートだった人間の反乱なのである。そして彼にも、彼の反乱に与した者にも、厳しい運命が待っていた。

 ロシア・チェチェンの現状についてはチェチェン総合情報、映画『暗殺・リトビネンコ事件』については公式サイト、特にその中のブログlitvinenkoの日記は情報がきめ細かい。
 個人的には、ロシアの政治状況というのがここまで「1984」化しているという現実に、震撼させられた映画である。僕はこれまで、「最近のロシアはソ連時代より(人権侵害などが)ひどい」などと言われても、それは言い過ぎじゃないか、などと半信半疑なところがあった。が、この映画を観た後では、「ソ連時代より悪い」説を否定する論拠が持てない(だからソ連が良かった、わけではもちろんないが)。
 とりわけ、国民の「権力に逆らっても仕方ない」という無力感の蔓延。「無力感を感じるなら民主主義ではない」というダグラス・ラミスの金言を思い起こさずにはおれない。そして映画中でネクラーソフ監督と語らうアンナ・ポリトコフスカヤの生前の映像を目にするつけ、彼女が闘っていたのはこんな苦しい言論状況だったんだと、今さらながらに胸をえぐられてしまった。

 さらに一つ、全く知らなかった話として、リトビネンコがイギリス亡命後、イスラエルの聖地巡礼に赴き、その後亡くなる少し前にイスラムに改宗した、という事実に胸を打たれた。それも毒物によって死に瀕してから思いついたことではなく、ずっと前から考えていたことを、その時に実行に移したのだという。
 彼は他の多くのロシア人と同じく、根っからのロシア正教徒だった。その彼がキリスト教を捨て、イスラムの立場に立って、キリスト教・ユダヤ教との和解・連帯を体現することを身をもって任じようとした。そこには彼自身がはからずも蹂躙に手を染めたチェチェンへのあがないの意味もあったのか、また世界規模で喧伝される“文明の衝突”ショーへの抵抗の意思表示でもあったのか。

 そうしたことを含めて、この映画を通じて知る様々なロシアの現実というのは、単に一つの国・地域の特殊事情に帰することなどできはしない。むしろ世界共通に起きている現象について考えを深めていくための、基礎にすらなるのだと思う。上映館は限られているが、なるたけ多くの人に観てもらい、「隣国」の現状から世界の現実を考えるきっかけにしてもらいたい作品だ。
 それにしても、「対テロ」の言説が世界を覆うことで一番得をした国は、アメリカよりも案外ロシア当局かも知れないな、とも思う。少なくとも、一番少ない(国の立場で)支出で一番大きい収入を得たという意味では。

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