映画雑感

シネマテークたかさき   
  高崎映画祭事務局 より

世界の窓

2010年01月06日 | 日記
 先日、2009年はガザ侵攻で幕を明けたという話題に触れたけれど、今年2010年も不吉なニュースで明けた。1月1日、タリバンの拠点・パキスタン北西部で100名の人命が爆弾テロによって失われたというニュースを様々なメディアが伝えた。アフガニスタンも含めたこのエリアにはアメリカが自分たちの信じるところの「平和」を目指し、一貫して戦力送り続けているけれども、状況は明らかに悪化の一途をたどっている。アメリカの論理がまったく通じない、そういう時代があらゆる面で到来したと言えるだろう。

 昨年、世界情勢において疑いようもなくはっきり顕在化したキーワードはまちがいなく「多極化」だ。世界はアメリカの一存ではどうにも動かなくなっているし(そんな風潮があったこと自体が問題だった訳だけれど)、たとえ中国の台頭があってもアメリカが唱えるところの「G2」の論理だけで世界が動かされることはあるまい。

 もちろん、G20やCOP15がそうであったように、多極化の流れは地球や世界経済が抱える諸問題の解決に支障をきたすこともあろう。しかし、世界はおよそ200の国々で構成されていることを考えれば、「鶴の一声」的な発想や、核拡散防止条約のような安保理5カ国の思惑で事を運ばせようとしていること自体がそもそも問題な訳である。今、世界はアジアやアフリカ、南米など、これまでスポットライトを浴びてこなかったエリアがエンジンとなって、前へ進もうとしている。その意味で解体された世界には、これまで蓋をされて表に出てこなかった主義主張が溢れかえり、そこからの再構築への試みが新たな取り組みとして始められているのだと思う。

 このような世界の流れを受けて、今ようやく多様な映画を見るべきことを訴え続けてきた僕らの主張がより意味をなす時代がやってきたという気がしている。別に映画は世界の潮流を推し量るために観るものではないとは思うけれど、世界の映画を観ることで、副産物のように獲得できる何か(自分とは違う視点や考え方、他国の意見など)は少なくないはずだ。だけど、時代の流れに合わせて映画を観るべきかというと、きっとそんな堅苦しいことであってはいけないとも思う。映画鑑賞はもっと楽しくあっていい。ただ、世界の極がどこにあろうと(たとえ極などなかろうと)、映画を観るにあたっては世界の「いろいろ」に触れるべきなのだ。
 
 ここ数年、洋画は邦画に圧され気味で、洋画の興業収入は減少の一途をたどっている。その現状は、日本映画に支持票が集まっているというものでは決してなく、それは観客にとって様々な価値観への対応を迫られる洋画観賞そのものからの逃避ではないかと推測できる部分もある。たとえ地方在住であっても、今は世界情勢をキャッチアップしていくこのとの意味を深く考えなければならないタイミングにある。たとえば、マーク・フォースターの『君のためなら千回でも』やハナ・マフマルバフの『子供の情景』がアフガンの人々の営みを伝えてくれたように、映画から獲得した何かを懐に入れて、遠く離れた国々のことを思いやることができれば、それこそが映画を観続けてきたこと(そしてこれからも観続けていくこと)の意味への、ひとつの回答にはなるだろう。映画館のスクリーンは世界への窓。洋画の復権を目指して、このブログもがんばっていかなければ。

 遅ればせながら…、明けましておめでとうございます。本年もシネマテークたかさきを何卒宜しくお願いいたします…
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『殺人の追憶』の追憶

2009年12月23日 | 日記
 こうやって上映作品のことを綴っていると、時にとてつもない「もどかしさ」が襲ってくることがある。たとえばそれは、題材として取り上げようとしている作品がとてつもなく面白いものであるとき。要するに面白さを伝えられないもどかしさが襲ってくるのだ。しかも、もどかしさに加えて文章表現力の無さを実感させられ、自己嫌悪に陥るときさえあるのだから、傑作を文書で語るということはまったく神経を擦り減らす作業だとしか言いようがない。そんなことを十分に承知しつつ、『殺人の追憶』について何かを書こうとしている僕は今、自己矛盾まで感じ始めている。

 『殺人の追憶』の上映は、僕らにとっては第19回高崎映画祭以来になる。その翌年の第20回高崎映画祭で石井聰亙監督をお招きしたとき、監督が大絶賛されていたのを思い出す。作り手の人間として驚嘆するのは、刑事モノで扱われている事件が「未解決」であるということだ、と監督は言っていた。映画は、実際に10人が犠牲となった韓国史上最悪の連続殺人事件が題材となっている。つまりははじめから「犯人逮捕による一件落着」のカタルシス無しに、観客に満足感を与えるという難題に挑んでいる。どこへ連れて行かれるのかも分からないまま、観客は2人の刑事と一緒に走り回ることになり、そのたびに「徒労」と向き合わされる。にもかかわらず観客がこの映画の面白さに呑み込まれてしまうのは、自己増殖を遂げる「謎」と2人の凸凹刑事のたぎる思いが、始終怒涛のごとく観客の側に打ち寄せるからである。「終わりよければ全てよし」というような言葉が似合ってしまうようでは、刑事映画は失格なのだろう。プロセスこそがその命、それはこの映画を観ればわかることだ。

 観客は、作品をとことん面白くするために監督・脚本のポン・ジュノが仕掛けた罠に、ことごとくはめられていく。そうしてひとりひとりが回答としてひねり出したそれぞれの「真相」や「疑念」が、腑に落ちる・落ちないの「もどかしさ」とともにある高みまで昇華したとき、「面白さ」というものは観る者の内側から堰を切ったように溢れ出す。そんな十人十色の「面白さ」が作品そのものを豊かにしていくはずである。もちろんそこには「つまらなかった」という回答もあってしかるべきだ。ただそれはそうとして、僕らの劇場からそんな数多くの個性的な「面白い」や「つまらない」が生まれてくれること、シネマテークたかさきの存在意義は究極的にはそれしかないと思っているし、そんなことを燃料として人は映画を観続けていくエンジンを動かしていくんじゃないかと思う。僕だってこんな風に語りつつも、誰かをそんな映画の魔力に引き込みたい一心で、何年も前に公開されたこの作品に対し今だ確かな評価もできないまま「ただただ面白かった」という曖昧な記憶だけを頼りにポン・ジュノの味方をしてしまったに過ぎないのだから。

 『ほえる犬は噛まない(2000)』『殺人の追憶(2003)』『グエムル-漢江の怪物(2006)』、そして新作『母なる証明(2009)』と3年毎に送り込まれてくるポン・ジュノのトリエンナーレ的アーティスティックエンタテイメント。僕らの鼻息が荒くなるのも無理はない、などと感慨に浸りつつ、ひとりでも多くのお客様とこの喜びを共感したいと、今ことさらに思う。
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『戦場でワルツを』、レバノン、パレスチナ

2009年12月16日 | 日記
 『おくりびと』と今年のアカデミー賞外国語映画賞を競った『戦場でワルツを』が、シネスイッチ銀座他で公開されてから3週目に入った。本作は1982年にレバノンで起こったサブラ・シャテーラの虐殺を元イスラエル兵の視点から綴ったアニメーション映画だ。話題作なのは間違いないが、描かれている世界は大変に重い。何しろこの事件で亡くなったパレスチナ難民犠牲者の数は2,000人とも3,000人とも言われている。2月に当館でも上映が決定している作品なので、銀座の入場者数が少々気になっていたのだが、先週僕が観た回ではなかなかに支持を得ていた印象だった。はたしてその後はどうだろうか。当館での公開まで、このブログでも映画の背景などについては、少しずつ触れていきたい。

 振り返ってみれば、今年2009年は最悪のニュースとともに幕を明けた。昨年末のガザ空爆に続き、イスラエル軍は年明け直後の3日に地上戦に突入。世界は非難の声を上げたけれども、20日のオバマ大統領の就任前まで続いた戦闘で、およそ1300人が死亡。ガザは壊滅的な打撃を受けた。イスラエル軍の戦争と侵略を明らかに混同した「やるときはやり過ぎる」という姿勢は1948年の「ナクバ」以来、変わっていない。

 そしてまた2009年は『戦場にワルツを』以外にも、レバノン絡みの映画が話題になった1年でもあった。ヴェネチア国際映画祭ではまさに『レバノン』が、金獅子賞に輝いたことがその象徴かもしれない。『戦場にワルツを』同様、この映画もイスラエル人兵士の視点で82年のレバノン戦争を描いているという。また、そう言った視点とは逆に、当館でも上映した『キャラメル』はあえて"戦い"には触れないという姿勢を貫き、ベイルートの市井に生きる女性達の心の揺らめきを描いたレバノン映画だった。僕にとっても今年印象に残る1本だ。
 
 元イスラエル兵が語り出したということも大変重要で、『沈黙を破る』では日本人ジャーナリストの土井敏邦監督が元イスラエル兵から貴重な言葉の数々を引き出したことも忘れられない。イスラエルにもパレスチナにも利害関係を持たない唯一の先進国・日本が今後も果たしていかなければならない役割はきっと大きい。10月に開催された難民映画祭-東京で上映された『ジェニンの心』は、イスラエル兵に子供を殺された父親が考え抜いた末に、息子の臓器を病に苦しむイスラエル人の子供たちへ提供することを決意するという内容のドキュメンタリー。このような双方の平和的・人道的な交わりはきっと何かを変えていくだろうし、今後こういった映画が出てきたときの上映側の姿勢も問われることだろう。

 60年をかけても政治がこの地域での争いを解決できなかったのであれば、別の方法を探る動きが出てくるのは自然なことだ。2009年はその流れが明らかに映画界を揺さぶった1年だったのではなかったか。ダイジェスト的に振り返ってしまったけれども、パレスチナ情勢について言えば、映画に何かを求める動きはきっと来年以降も続いていくだろう。
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ネットワークの狭間

2009年12月11日 | 日記

 ケビン・ベーコンの共演者、そのまた共演者、そのまた・・・と辿ると、およそ6次で全世界の俳優が網羅される。このときの"6"を「ベーコン指数」という。きっとご存知の方も多いだろう。これは社会心理学で言うところの「スモール・ワールド現象」に由来している。友だちの友だちの友だち・・・と辿ると、世界中の人びとは6次の隔たりだけで網羅されるという、いわゆる「世界は狭い」という理論だ。この理論はmixiなどのSNSのベースになっている。
 
 だけど、網目のように「狭い」間隔で人と人とが結ばれた社会で、なぜこうもそこからこぼれ落ちてしまうこと(人)が後を絶たないのだろう。日々の報道に耳を傾けていると、高度にネットワーク化された社会のはずなのに・・・、と思わされることがあまりにも多い。今年、日韓を代表する映画作家2人が、まさに眼をつけたのはそのあたりではないかと思う。是枝裕和監督の『空気人形』とポン・ジュノ監督の『母なる証明』は、互いに共鳴しあっているように、僕には感じられる。

 「弱い紐帯の強み」という言葉がある。高度なネットワーク情報社会では肉親のような強いつながりよりも、弱いつながりの人から得た情報の方が逆に強い。つまり、よく知る人よりも、顔の見えない誰かの方が思いもよらない価値ある情報を届けてくれるという理論だ。なるほど、確かにそうなのかもしれない。ただし、そういった見えない関係で結ばれたネットワークには、必ずや落とし穴もある。

 どうやら僕らは人と人との関係をネットワークの理論で語りすぎているんじゃないだろうか。人と人はケーブルで繋がっているんじゃないのに。まるでそれぞれに、IPアドレスが埋め込まれているように語られることが少なくない。そもそも人と人は、つながっていなければいけない訳じゃないし、弱い紐で網目のように結ばれた社会がすばらしいなんて思っちゃいけない。『空気人形』と『母なる証明』はそれぞれに別のアプローチをかけてはいるけれど、それぞれがそんなネットワーク社会へのアンチテーゼとして屹立している。本年の邦画と洋画を代表する作品である。この2作品が同時期に発表されたことに、僕はどうしても因縁を感じてしまう。そして今月、2009年の締めくくりに同じタイミングでこの2作品を上映できる喜びを、映画ファンのひとりとしてこの上もなく感じている。

※是枝裕和監督舞台挨拶はあさって13日・日曜日(要予約)。

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1.25本

2009年12月05日 | 日記
 今月19日より、『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』の国内再上映が決定したという。1月27日にDVD/Blu-rayの発売されるというのに。10月28日より2週間限定で公開された『THIS IS IT』は予想を上回る?興収をたたき出し、公開後、期間が2週間延長された。日本国内の興業収入は、4週間で44億。この数字を昨年の公開作品と比較すると、洋画では『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』『レッドクリフpart1』につぐ第3位に相当し、邦画では『相棒 -劇場版-』と肩を並べる驚異的な成績である。

 『絶対に映画館で観るべき映画だ!』

 『THIS IS IT』に対するそんな周囲の声をどれほど聞いたことだろう。そんな声に押されて、という訳ではないけれど、僕もマイケルのファンのひとりとして、11月27日の最終日・最終上映でようやく観させてもらった。
 
 確かに、『THIS IS IT』はキング・オブ・ポップ/マイケル・ジャクソンの偉大さを確認できる作品であった。しかし、それはつまり、あらかじめ予定されているところのマイケル・ジャクソンのスター性を再確認するための2時間だったとも言える。その意味で、この作品における僕とマイケルの「出会い」は、決して「映画的」なものではなかった。ここで言う「映画的」か「映画的でない」かの境界は、あくまで個人的な感性に導かれるものだけれども、その「映画的」なものからマグマのように溢れ出すちからを信じて、ここまでやってきたという思いは強い。

 昨年1年間の統計を辿ると、日本全国の映画館を訪れた人の人数は、延べ1億6049万人であった。これに対し、日本の総人口は平成20年末でおよそ1億2768万人。よって国民1人あたりの映画館での映画鑑賞本数は年間1.25本、つまりわずか1本強ということになる。この貴重な、誰かにとっての「1本枠」が映画的ではない作品のために使われるとしたら、そうあるべきではないということをここで言いたい。もしも久しぶりに映画館に足を運び、『THIS IS IT』を観たのならば、それを機に是非とも続けて1.25本を超える「2本目」の作品を、映画館に観に行ってほしい。だって、『映画館で観るべき映画』は、毎日毎日「映画館」で上映され続けているのだから。僕らの劇場でも『アバンチュールはパリで』『正義のゆくえ』『ハイキック・ガール』の3本が今日からスタートした。そのどれもが『映画館で観るべき映画』であることを、どれほどの人が分かってくれているのだろうか。

 映画館で観るべきか、そうでないか。そんな勘違い的な選別が、映画文化から「映画的アイデンティティ」を奪ってきたのではないか。年間1.25本の数字が示す現実は、「映画館」から「映画的」な出会いが奪われていることの証明なのかもしれない。
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