昨年、世界情勢において疑いようもなくはっきり顕在化したキーワードはまちがいなく「多極化」だ。世界はアメリカの一存ではどうにも動かなくなっているし(そんな風潮があったこと自体が問題だった訳だけれど)、たとえ中国の台頭があってもアメリカが唱えるところの「G2」の論理だけで世界が動かされることはあるまい。
もちろん、G20やCOP15がそうであったように、多極化の流れは地球や世界経済が抱える諸問題の解決に支障をきたすこともあろう。しかし、世界はおよそ200の国々で構成されていることを考えれば、「鶴の一声」的な発想や、核拡散防止条約のような安保理5カ国の思惑で事を運ばせようとしていること自体がそもそも問題な訳である。今、世界はアジアやアフリカ、南米など、これまでスポットライトを浴びてこなかったエリアがエンジンとなって、前へ進もうとしている。その意味で解体された世界には、これまで蓋をされて表に出てこなかった主義主張が溢れかえり、そこからの再構築への試みが新たな取り組みとして始められているのだと思う。
このような世界の流れを受けて、今ようやく多様な映画を見るべきことを訴え続けてきた僕らの主張がより意味をなす時代がやってきたという気がしている。別に映画は世界の潮流を推し量るために観るものではないとは思うけれど、世界の映画を観ることで、副産物のように獲得できる何か(自分とは違う視点や考え方、他国の意見など)は少なくないはずだ。だけど、時代の流れに合わせて映画を観るべきかというと、きっとそんな堅苦しいことであってはいけないとも思う。映画鑑賞はもっと楽しくあっていい。ただ、世界の極がどこにあろうと(たとえ極などなかろうと)、映画を観るにあたっては世界の「いろいろ」に触れるべきなのだ。
ここ数年、洋画は邦画に圧され気味で、洋画の興業収入は減少の一途をたどっている。その現状は、日本映画に支持票が集まっているというものでは決してなく、それは観客にとって様々な価値観への対応を迫られる洋画観賞そのものからの逃避ではないかと推測できる部分もある。たとえ地方在住であっても、今は世界情勢をキャッチアップしていくこのとの意味を深く考えなければならないタイミングにある。たとえば、マーク・フォースターの『君のためなら千回でも』やハナ・マフマルバフの『子供の情景』がアフガンの人々の営みを伝えてくれたように、映画から獲得した何かを懐に入れて、遠く離れた国々のことを思いやることができれば、それこそが映画を観続けてきたこと(そしてこれからも観続けていくこと)の意味への、ひとつの回答にはなるだろう。映画館のスクリーンは世界への窓。洋画の復権を目指して、このブログもがんばっていかなければ。
遅ればせながら…、明けましておめでとうございます。本年もシネマテークたかさきを何卒宜しくお願いいたします…












