九州・大分のミニシアター「シネマ5」の館主・田井肇が、地方の劇場から映画界を定点観測する。
映画館主の「甘い生活」?



根岸吉太郎監督の新作『サイドカーに犬』を見た。
原作も読んでいなかったので、どんな映画なのか、まったく知らずに見たのだが、これが実に素晴らしい傑作だった。
前作『雪に願うこと』は、かつて故・相米慎二が映画化を考えたということもあり、さらに『台風クラブ』以来の東京国際映画祭グランプリに輝いたことも手伝って、やたらに相米慎二が引き合いに出されたが、むしろこの『サイドカーに犬』の方が、はるかに相米慎二を彷彿とさせる映画だ。というか、相米の『お引越し』を思い出さずにいられない。が、決して相米的映画だというわけではない。明らかに根岸吉太郎の映画であり、そこがまたいい。
「嫌いなものを好きになるより、好きなものを嫌いになる方が難しいね」
竹内結子がポツリとつぶやくセリフが、身にしみた。これは原作の中にあるセリフなのだろうか。
『独立少年合唱団』(緒方明監督・青木研次脚本)に出てくる「覚えていることと忘れてしまってことはどちらが大事なことなんだろう」というセリフを、ふと思い出した。

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侯孝賢(ホウ・シャオシエン)映画祭が始まった。
『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『悲情城市』を見た(というか、見直した)。当然だが、どちらも素晴らしかった。
全編ワン・シーン・ワン・カットの『フラワーズ・オブ・シャンハイ』。いきなりの8分間の長廻し、ゆらゆらと漂うキャメラは、『百年恋歌』と同じく、遊びに興じる人々をとらえている。舞台は清朝時代の上海のとある遊郭。宴会の喧噪の中にいて、ただ一人、一言もしゃべらずにいるのが、主人公の王(ワン)を演じるトニー・レオンだ。『悲情城市』で、林(リン)一家のろうあの四男を演じた彼が、ここでもまるでろうあのようにしゃべらない。バックに小さく流れ続ける音楽が、まるでキャメラを遠くに引いてゆくような効果をもたらし、じゃれるように遊び呆けている人々の姿が「失われてしまった者たちのありし日の姿」のように感じられる。この無意味で他愛のない時間が、かけがえのない至福の時間に思える。何という素晴らしい導入だ。タイトル『海上花』が画面に出るときには、もうすでに「傑作だ」と確信してしまっている映画である。
『悲情城市』は、もちろん言うまでもない傑作だが、今回見て、ラストシーンが『フラワーズ・オブ・シャンハイ』とまったく同じであることに気付いた。そこには、無言でいつもと変わらぬ日常の暮らしを送っている人の姿がある。明日も変わらぬ光景が繰り返されるだろう普通の日常。だが、同じことが繰り返されることがどれほど貴重なことか。同じことが繰り返されるようでいて、実は決して繰り返されはしないことを、僕らは知っている。『悲情城市』も『フラワーズ・オブ・シャンハイ』も、ラストシーンを飾るのは、実は、そこにいない人なのだ。ほんとうならばそこにいてよいはずの人がそこにいない。どちらも「不在のトニー・レオン」がラストをしめくくっている映画である。
『悲情城市』は明日、朝、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』は明後日、夜、上映はあと1回ずつ。ぜひ見逃さず、ごらんいただきたい。
ところで僕は、昨日初めて『悲情城市』で発見したことがある。多分、だが、『悲情城市』には、ワン・カット、侯孝賢(ホウ・シャオシエン)が出演している。ロング・ショットで確認が困難だが、セリフもある。多分、で申し訳ないが、このことに気付いたという人は、僕の知る限り誰もいない(物語の3分の2あたりのところです。探してみてください)。

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去年の12月12日。僕は北鎌倉・円覚寺にいた。小津安二郎の墓を参るために。小雨が降る中、初めて行った小津の墓には、命日に代参する幾人かの姿があったが、その傍らで「ありがとうございます。どうぞお参りください」と立っていたのが、川又昂さんだった。川又さんは、松竹大船のキャメラマンとして、小津の作品のいくつかの撮影に助手としてついている。大島渚の初期の作品のキャメラマンでもある。そして、何と言っても野村芳太郎監督のキャメラマンとして数多くの名作を手掛けてきた人だ。中でも代表的な1本は、言うまでもなく『砂の器』だ。
今日まで僕の劇場で1週間、『砂の器』を上映した。
「いま、なぜ『砂の器』を?」と聞かれたが、その理由があるとしたら、小津の墓前で川又さんに会ったから、という個人的なものにすぎない(あの日、墓参りに行っていなければ、やらなかっただろう)。
『砂の器』を、川又さんの撮影を、もう一度見たい、僕の劇場のスクリーンに映したい、みんなに見せたい。ただそれだけで上映を決めた映画が、その2ヶ月後に、僕の劇場を毎回満席にするなどとは、考えもしなかった。

「いま、なぜ」。たとえば旧作を上映するときに、人はよくこう尋ねる(特にマスコミは)。が、そのことへの明確な答など、本当に必要なのだろうか。『砂の器』が見たくて実際に足を運んでくれた人たちは、その上映の理由にかかわらず、『砂の器』に存分に満足してくれただろうし、「いや、実は見たことがなくて」という若い人も「見ることができてよかった」という言葉を残して帰っていった。
理由なんて、「いい映画だから」でよいのではないか。

そして、僕が今回の上映でわかったことは、「いい映画をちゃんと見たい」という人は、確実に増えているということだ。
世の中には、テレビにノセられてスーパーの納豆の棚を空っぽにしてしまう人ばかりがいるわけじゃない。その片側に、そんなことに惑わされずに、「いい」ものは「いい」とわかる人たちは、確実にいるし、多分増えている。その人たちは大騒ぎもしないし(ましてやスーパーに納豆を補充に行ったりもしないから)、見た目には「空っぽの棚」だけが見え、あたかも世の中全体が付和雷同化しているように感じやすいけれど、実はそうではない。
数の多さや見た目ばかりに目を奪われていたら、見えなくなってしまうものがある。

いよいよ明日から侯孝賢(ホウ・シャオシエン)映画祭が始まる。「映画祭」とはいうものの、「お祭り騒ぎ」してやるわけではなく、ごくごく静かに、侯孝賢という映画作家の足どりを改めて見直そうという企画である。しかし、「お祭り騒ぎ」は、見た人の心の中にきっと巻き起こることだろう。動員数だとかそんなものでは測ることのできないエモーションが。それは、見て即座に「面白い」という言葉には置き換えられないものかもしれない。だが、5年後、10年後にも頭から離れない何かとして、見た人の心に刻まれるにちがいない。
「『百年恋歌』公開記念」、つまり今回は「いま、なぜ」がくっついてはいるのだが、そんなことに関わりなく、見てほしいし、僕も見たい。一発目は、今や東京国立近代美術館フィルムセンターにしかプリントの存在しない(つまり、めったなことでは見られない)『フラワーズ・オブ・シャンハイ』だ。ああ、わくわくする。

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「不都合な真実」…何といい題名だろう。原題は“An Inconvenient Truth”で、日本題名はこの直訳だ。「インコンビニエント・トゥルース」、つまり、コンビニエンスではないけれど、残念ながらこれが真実だ、というわけだ。ブッシュ一期目の大統領選挙で敗れたアル・ゴアが語る「二酸化炭素による環境破壊」のレクチャーを記録したドキュメンタリー映画である。
この映画に僕はずっと興味を抱いてきた。今月の中頃までは(おそらく東京の公開が始まるまでは)、僕の映画館にかかるだろう映画でもあった。それが、結果的にかかからなくなったのは、「(興行界の)不都合な真実」を地で行くことになったと言うべきか。

『不都合な真実』は、「現在、人類が直面している環境問題」について警鐘を鳴らす映画である。だが、考えてみると、これが果たして僕の映画館にかかるべきだったのか。環境問題にすでに関心を抱いている人よりも、むしろこの映画は、環境問題に無関心な人たちに見られるべき映画だからだ。
「駐車場がタダだから」「夜行けば安く見られるから」といって郊外のシネコンに車を飛ばす人たちが、この映画を見て、「そうだ、次からは、せめてバスに乗って見に来るようにしよう」と思い直すことに、この映画の意味がある。コンビニエンスなことをばかり求めていてはいけないのだと気付くことに。

映画館における「不都合な真実」は、郊外の緑の森(二酸化炭素を吸収してくれる)を切り開いて駐車場を併設することでしかそれが成り立たなくなったことだけではない。
以前にも書いたが、今や映画館収益の3分の1を占めるのはポップコーンをはじめとする売店収入だ。が、ポップコーンの原材料であるトウモロコシ(爆裂種/馬歯種)の日本の自給率はほぼゼロに近く、ほとんどがアメリカからの輸入である。そしてちなみに2001年のデータでは、アメリカにおけるトウモロコシの遺伝子組み換え体(害虫抵抗性)率は、作付け面積ベースで26%なのである。一応、人間の口に直接入ることになるトウモロコシ製品については非組み換え体を使用することになってはいるが、そのポップコーン抜きには映画館が経営できなくなってしまっているのが、日本の映画館の「不都合な真実」である。
日本に最初にシネコンが登場したのは、1993年。これには1991年の大店法改正をはじめ、映画館を新しく作るハードルが下げられたことが影響しているのだが、1993年と言えば、その年の12月14日、当時の首相・細川護煕によって「コメの開放(市場の部分開放)」が決定した年だ。このとき、コメと同時に開放されたのが穀物(すなわちトウモロコシも)である。1993年は、シネコンとトウモロコシが自由化された年なのである。その時点で、やがてシネコンが日本の映画館を席巻することなど誰も予想しなかったが、それよりも、そこがポップコーンの匂いで埋め尽くされることになり、日本に巨大なポップコーン・マーケットが誕生することになろうとは、さらさら想像だにしなかったことだ。
映画館における「不都合な真実」。まずそれから目を背けないことが、映画『不都合な真実』をかけるよりも前にしなくてはならないことではないだろうか。

※映画『不都合な真実』について何か読めると思ってお読みになった皆さん、スミマセン。

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〈もっと見たい溝口健二〉と題して溝口健二の映画4本を公開するまで、気付けばあと10日。
12月に大分県文化スポーツ振興財団の主催でオアシス・映像小ホールで溝口健二の作品6本が上映された。この6本は入門篇的な名作中の名作(『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』)で、シネマ5で今回上映するのは、いわば溝口上級篇と言ってもよい。『残菊物語』『雪夫人絵図』『噂の女』『赤線地帯』。これらは、ここで見逃すと、次に見る機会がなかなかない作品ばかりだ。
溝口健二の映画の主人公は、だれもが波乱の人生の波に揉まれてゆく。「あの時、ああしていたら」「もしも、ああなっていたら」がきかない、後戻りできないのが人生だ。その中で、どう生きてゆくのか。溝口健二の映画は、それを「見ている」というより「生きている」という感覚に近い。
そういう溝口の映画を、いや、溝口のに限らず「映画」を見るには、自らも後戻りがきかない中で見るのがよろしい。この機会を逃したらもう見られない。そして見ている間中、いま見た画面が目の前で次々と消え去ってゆく。「もう一度、今のシーンを」なんてことは言えない。そんな中で見るのが(生きるのが)「映画」の愉しみというものではないか。
後戻りできないだけではない。自分の都合で始められないのが人生だ。僕らは、自分の人生のスタートボタンを自分で押してはいない。その始まりと終わりを自分では決められず、後戻りも一時停止もできない。その「人生」と同じように、「映画」も、自分でスタートボタンを押して始めてはならないし、巻き戻ししてはならないのではないか。あるいはそうしなかったとしても、そうできる環境においてはならないのではないか。

世の中、何事においても自分の意志で決められるような、そしてそれが100%いいことであるような、そんなことになっているのは、どこかおかしい(特に「オカネがあれば決められる」なんてのは)。
と、映画のことを離れてそんなことを思いながら、気付けば僕も、後戻りすることなく、この正月に齢をひとつ重ねてしまっているのだった。

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明けましておめでとうございます。

映画館は、お休みの日には開いてないといけない。一年中、どんな日も「誰かのお休み」である以上、映画館はどんな日も必ず開いていないといけない。
「年末はいつまで?」「31日まで」
「年明けはいつから?」「1日から」
こんな会話を18年間続けてきた。

さて、今年は、いったいどんな映画が待ち受けているのだろうか。
昨年11月に亡くなったロバート・アルトマン監督の『今宵、フィッツジェラルド劇場で』がある。『堕天使のパスポート』(ここ数年で最も素晴らしいイギリス映画だと思う)のスティーヴン・フリアーズ監督の映画が2本も待ちかまえている(『ヘンダーソン夫人の贈り物』『クィーン』)。『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー監督の新作『恋愛睡眠のすすめ』も楽しみだし、アカデミー賞を初めて南アフリカにもたらした『ツォツィ』にも期待が膨らむ。蔡明亮のマレーシアで撮った新作『黒い眼のオペラ』、青山真治が『Helpless』『EUREKA』の「その後」を描いた『サッド・ヴァケイション』も大いに期待したい1本だ。
と、挙げ始めたらきりがないが、最も興味をそそられている映画は、日本公開題名は未定だが『パンズ・ラビリンス』というメキシコ映画である。『ミミック』『デビルズ・バックボーン』の監督、ギレルモ・デル・トロの新作だ。舞台は1944年の内戦中のスペイン。敵方の独裁主義の大尉と母が再婚したことで、その義父から逃れることを願う少女が、ふとしたことから迷い込んだ迷宮で「パン」という名の守護神と出会い、三つの試練を与えられる、というホラー・ファンタジー。
年末にアメリカで限定公開され、大絶賛を集め、大ヒットを記録している。
興味のある人はホームページをごらんになってみてほしい。
http://www.labirintfavna.ru/
エグくてダークな世界に、ヘンリー・マンシーニの『ひまわり』のような(ちょっと違うか)、もの悲しい曲が流れている。なんだか匂う、匂う、傑作の匂いが。公開は、シネマ5でやるとすれば、もしかして1年後あたりになるかもしれないが、これは心待ちにしたい1本である。

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2006年、シネマ5の興行収入ベストテンと、シネマ5の会員の動員数ベストテンは、順位に多少の差があるものの、10本がまったく同じものになった(『ゆれる』『かもめ食堂』『クラッシュ』『ブロークバック・マウンテン』『ホテル・ルワンダ』『太陽』『ヴェニスの商人』『カポーティ』『グッドナイト&グッドラック』『ブロークン・フラワーズ』)。
この一致は当然のようだが、10本が全部同じになることは、実はめったにない。普段はあまり見に来ない観客が多く来る映画が興行的には上位にきて、その中には、会員や常連に好まれない映画もあったりするからだ。しかし、そうした映画が劇場経営を助けてくれることも事実で、10本が一致した2006年は、逆に経営的には必ずしも大成功とは言い難い年だった(とはいえ『かもめ食堂』や『ゆれる』の幸運な大ヒットがもしもなかったらと思うと、今年もやはり、運に救われた年だったと思う)。

さて、2006年の個人的なベストテンをあげて今年をしめくくろう……いや、映画に順位をつけるのは苦手なので、別の形で邦洋1本ずつの映画をあげることにしたい(もちろんシネコンで公開された作品も対象としている)。
●最も愛着のある作品『ゆれる』『クラッシュ』(次点『ブロークバック・マウンテン』)
●見ている間さまざまな思いが去来した作品『チーズとうじ虫』『楽日』
●拾いモノだと思った作品『暗いところで待ち合わせ』『ステップ!ステップ!ステップ!』
●コケたことがとても残念な作品『雪に願うこと』『グエムル/漢江の怪物』
●もっと評価されていい、過小評価されすぎだと思った作品『ありがとう』『マイアミ・バイス』
●いい意味で予想を裏切られた作品『嫌われ松子の一生』『マッチポイント』
ついでに映画館主の立場から…
●映画館主冥利に尽きると感じた上映〈成瀬巳喜男レトロスペクティヴ〉
●(シネマ5で)興行的に期待を上回った作品『好きだ、』『ヴェニスの商人』

このブログでずいぶん前に書いたが(7月30日「彼女のこと」)、事故で右半身が麻痺した彼女が、12月30日、お父さんと『暗いところで待ち合わせ』を見にきてくれた。彼女はもう、一人でゆっくりとだが歩けるようになっていた。僕はちょうど接客中で、「こんにちは」とだけ挨拶したが、彼女も笑顔で会釈を返してくれた。いろんなことがあった一年だったが、年の瀬に、こんなうれしい出来事が待っているとは思わなかった。
届けたい映画があり、届けたい人がいる限り、まだまだ僕の仕事は続くだろう。1月6日でシネマ5は丸18年を終わり、1月7日から19年目に入る。

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「好きだからこそ、あえて」。今回は、こうサブタイトルをつけたい。
『ゆれる』は、今年最も愛着のある作品だ。映画もヒットし、今年の総決算でも絶賛を浴びている。僕もこのブログで何度もこの映画について書いてきたが、今回は、その最後として、あえてこの映画への疑問を書くことにしたい。

「目に見えたものを信じてはならない」
これは、デヴィッド・リンチの映画を見る時の鉄則だ。まさに『ゆれる』は、リンチの映画の鉄則を思い出させる。ラストの「稔(香川照之)の笑顔」は、猛(オダギリジョー)が「見たかった」ものを見たものだと、僕は思った。人間は、客観的事実を見るのではなく、きわめて恣意的にものを見る。「兄が突き落とした」ように見えた光景が、昔撮った8ミリフィルムを見た後では「兄が助けようとした」ように見えたのと同じく、ラストは、猛が稔の笑顔を見たかったからそこに笑顔が見えただけなのではないか。まさに「目に見えたものを信じてはならない」、この映画は、つまりそういう幕切れの映画だと僕は思った。観客を、ある意味、宙吊りにして終わるような。
だが、『ゆれる』が予想外のヒットを飛ばし、絶賛に包まれている今になって思うのは、ものを恣意的に見るのは、観客においても同じだということだ。観客は、ちっとも宙吊りになどなっていない。見終わって出てくる人の顔は、困惑の表情よりも、むしろ爽やかな感動の表情に近い。目に涙している人もいる。これは、西川美和も想像しなかったことではないだろうか。観客を宙吊りにし、放心状態にし、「やられた」と思わせる、『ゆれる』はそんな映画になるはずだった。なのに現実は、むしろ居心地の良い「いい映画」に回収されてしまった感がある。
たとえばこんなラストを僕は考えた。
「兄ちゃん、帰ろうよお」と猛がかける声が、稔には届かず、バスがくる。バスが止まる。そして発車する。そこに稔は、いるのか、いないのか。…いない。だが、一呼吸を置いて後、画面下から、靴の紐でも直していたのか、身をかがめていた稔が立ち上がり、画面に現れる。その顔は、刑務所を後にした顔とは全くちがう。普通の稔の顔だ。刑務所どころか、裁判や、吊り橋や、そんな何もかもがなかったかのような、映画が始まった頃の顔だ。その稔が屈託のない笑顔を浮かべて、猛に向かって声をかける。「猛、何してんだよ。さ、帰ろうよ。早く帰んないと、雨降ってきちゃうぞ。洗濯物、早く入れとかないとな」。暗転して映画が終わる。
もしもこんなふうに終わったら、このラストはどう解釈されるだろうか。それは、猛が夢想した稔なのか。いや、もっと遡って、実は猛が智恵子と寝た後に帰宅して洗濯物をたたんでいる稔の背中と会話したあの晩に猛が見た夢が、吊り橋のドライブ、事件、裁判、七年後までのすべてであって、つまり現実には何事も起きてはいなかったという解釈さえ成り立つかもしれない。まさにデヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』のような、壮大な悪夢の物語だと。そう。『ゆれる』を着想した西川美和自身のそれのように「夢の世界の物語」だと思える映画になったかもしれない。川島雄三の『雁の寺』のような、最後の最後に「…てな映画でありまして」とひっくり返して観客を置いてけぼりにする怪作になり得ていたかもしれない(そして興行的には失敗してしまったかも)。
香川照之もオダギリジョーも、たしかに素晴らしいと思う。そのことを十二分に認めた上で、しかし、この映画は、役者の演技に引きずられすぎていないだろうかとも思う。二人は巧い。だが、川島雄三の映画の三橋達也や森繁のような巧さとはちがう。「いかにも演技賞でもとりそうな」巧さなのだ。自分が役になりきっているんじゃなくて、役を自分にしてしまっている。この超巧い役者二人を、演出はふん縛れていない。あまりの巧さに見とれてしまったのか、なす術なしの監督・西川美和がいる。『ゆれる』の面白さの多くは、演技の巧さにお手上げして見惚れてしまう面白さであることは否めない。スボンにしたたる酒、トマトの断面、魚の目玉、ニヤリとさせるディテール(小細工)が役者の巧さと相俟って、見る者の視線を過敏にさせることで知的な気分にさせはするが、木を見て森を見ないように、小さな快感の集積で成り立っているだけのようにも思える。
映画の随所に余白を残そうとした意図はわかる。だが、その余白に嵌るものがあまりにも明瞭すぎる場合、それが本当に余白と言えるものなのかどうか。巧い役者が、その余白をみごとに埋めにいってしまってもいる。だから、映画全体がぎっちり埋め尽くされていて余白はあるけれど余裕(遊び)のない映画になってしまっているのではないか。完成度が高い。緊張感が持続する。いい言い方をすればそうだろう。しかし、本当にそんな稠密な映画を作ろうとしたのだろうか。
露悪的な描写やセリフがあったりすることでごまかされてはいるけれど、これはきわめて気マジメで慎ましい、その意味では批判しずらい優等生映画になってしまっている。
『ゆれる』は、現在の日本映画の水準からすれば、充分に傑作だとはいえ、酷な言い方をすれば、西川美和が師と仰ぐ川島雄三には、まだまだほど遠い映画だ。これが、あたかも満点のような絶賛を集めているのは、今の日本映画がやせているからに他ならない。手放しの絶賛よりも、今の西川美和に必要なのは、おそらく彼女自身も気付いているだろう、この映画への正当な批判であるような気が僕はしている。香川照之が、オダギリジョーが、他の役者だったら、それだけで映画全体が全く別物になってしまいそうな、そんな脆弱さ、それを魅力だと言うこともできるが、それを演出力だと言ってしまってはいけないのだと思う。

ないものねだりなことも承知の上であえて、『ゆれる』に以上の疑問を呈したい。僕自身がこれまでおこなってもきた絶賛の、さらにその上を求めたくなる映画であることもまた、この映画への大いなる評価だという意味もこめて。

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12月の2日から、例年通り、シネマ5の会員〈チネ・ヴィータ メンバーズ〉の募集を開始した。来年2007年は僕がシネマ5を始めて19年目、〈チネ・ヴィータ メンバーズ〉も18年目に入る。会員制度の概要はこの18年間、ほとんど変わっていない。ヴィンテージ会員(年間10回が無料)の入会金が、発足時の10000円から11000円にあがったということくらいだ(スタンダード会員は変わらず1500円)。※詳しい募集要項は→ http://www.cinema5.gr.jp/cinema5site_/07member.html
18年前は100人足らずの会員だったのが、ありがたいことに毎年増え続け、2006年には950人にまでなった。まだ会員が500人くらいだった頃までは、毎月、会員にお届けする通信の宛名書きを全部手書きで行っていた。それが宛名ラベルになり、通信をメールで送る「メール会員」もできた(今やその宛名ラベルを貼る作業が大変、などと言うような甘えたことになっているのは、反省しなければならない)。
会員の募集期間は、これも18年間変わらず、12月の2日から2月末日まで。まずは、来年1年間、きちんと上映し続けることができるか(ツブれずに)、さらに期待に応え得る作品を上映できるか、要は会員となってくださる皆さんへの約束を守れるかを、毎年この時期に、マジメに考えることになる(ということは、ツブれる時は、翌年の会員募集をしない時ということになるのだろう)。
今年会員だった人のうち、どれだけの人が更新してくれるのかも、会員の皆さんの評価という意味で、とても気になるところだ。例年、約75%の人が更新し、会員全体では、7割が更新の会員、3割が新規の会員という割合になる。こうなった場合、簡単に計算すると約5%会員が増えることになる。
さて、今年のこれまでの入会状況は、きわめて好調に推移している。さまざまな料金サービスの導入などで会員が減るのではないかと思っていたのだが、現在までのところ去年の約1割増の入会状況である。とうとう会員が1000人を超えることになりそうな気配なのだ。会員は平均でも月に1回強、見に来てくださるわけだから、年間で延べるととんでもない人数になる(もちろん、これで安泰というほどにはならないが)。シネマ5の全入場者の3割以上が会員ということになるのだ。
この数には、いつもながら、観客の期待の大きさを感じて身が引き締まらざるを得ない。僕や、うちのスタッフの、能力、体力で、その期待に応えられるのだろうか。とはいえ、やることは、いい映画をきちんとかけること、それしかないのだが。

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溝口健二の映画を3日間で6本見るという幸せな週末を過ごした。どれもこれも素晴らしかった。見ている間もそうだったが、見終わって反芻するたびに、すごさを感じる。
今日、12月14日は、赤穂の義士による吉良邸・討入りの日である。忠臣蔵のクライマックスとして、誰もが知っている日だ。だが、溝口の『元禄忠臣蔵』には、その討入りの場面がない。前後篇あわせて3時間40分にも及ぶこの大作から肝心の討入りの場面を省いたことは、つとに有名だ。だが、討入りがないことよりも、討入りを果たした後に、この映画にはまだ1時間以上のお話が残っていることの方が重要だ。忍従の後、ついに吉良の首をとり、雪の中をサクサクサクと四十七士が去っていって終わり、ではないのだ。
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の墓前に報告に来た大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる四十六人の義士は、そこで腹を切ることを願うが、大石がそれを諫める。「ここで切腹するは、易(やす)い」。だが、大石は、自分の手によってでなく、お上の裁きによって切腹申しつけられる道を選ぶのだ。四十七士が腹を切るのは、それから49日経った後の翌年2月である。つまり、12月14日が忠臣蔵の最後を飾るクライマックスではないのだ。※現在、東京・永青文庫にて討入り後の赤穂義士のその後を探る「赤穂義士御預(おあずかり)始末/内蔵助切腹までの49日間」という展示が行われている。http://www.eiseibunko.com/exhibition.html
忠臣蔵は、主君の仇を討つ復讐劇に思えるが、実はそうではない。松の廊下における刃傷沙汰(にんじょうざた)に対してお上が下した裁定、すなわち浅野内匠頭=切腹、吉良上野介=お咎(とが)めなし、という裁定のアンフェア(映画の中では「片●落ち」という言葉を使っている)に対するプロテストなのである。大石は「公義の正道」に楯突く決意で、討入りの時を待つ。そして討入りを果たした後、その「公義」に殉ずるのだ。
溝口の映画は、常に「公義」「正道」あるいは「世間」「世の中」といったものに迫害を受け、それに立ち向かう個人(おおむね女性)を描いている。個人を、「個人を取り囲むもの」と切り離さずに、ずっと追ってゆくのが、溝口のワンシーン・ワンカットの長廻しなのだと、僕は思う。もはや個人が「正道」や「世間」から逃れられる場はこの世にはないのかもしれないと、溝口は思いながら、個人のぎりぎりの生を描き続けた作家だと思う。
年が明けて1月に僕の映画館で行う溝口特集(『残菊物語』『雪夫人絵図』『噂の女』『赤線地帯』)が、ますます楽しみになってきた。もっともっと見たい溝口健二。しかし、映画が始まるや否や、一瞬一瞬過ぎ去ってゆく(終わってゆく)ことが、何とも切なく辛い。「見る」ということは、すなわち見「終わる」ことを意味しているという(当たり前の)事実をも、僕らは受け入れねばならないのだ。

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