「好きだからこそ、あえて」。今回は、こうサブタイトルをつけたい。
『ゆれる』は、今年最も愛着のある作品だ。映画もヒットし、今年の総決算でも絶賛を浴びている。僕もこのブログで何度もこの映画について書いてきたが、今回は、その最後として、あえてこの映画への疑問を書くことにしたい。
「目に見えたものを信じてはならない」
これは、デヴィッド・リンチの映画を見る時の鉄則だ。まさに『ゆれる』は、リンチの映画の鉄則を思い出させる。ラストの「稔(香川照之)の笑顔」は、猛(オダギリジョー)が「見たかった」ものを見たものだと、僕は思った。人間は、客観的事実を見るのではなく、きわめて恣意的にものを見る。「兄が突き落とした」ように見えた光景が、昔撮った8ミリフィルムを見た後では「兄が助けようとした」ように見えたのと同じく、ラストは、猛が稔の笑顔を見たかったからそこに笑顔が見えただけなのではないか。まさに「目に見えたものを信じてはならない」、この映画は、つまりそういう幕切れの映画だと僕は思った。観客を、ある意味、宙吊りにして終わるような。
だが、『ゆれる』が予想外のヒットを飛ばし、絶賛に包まれている今になって思うのは、ものを恣意的に見るのは、観客においても同じだということだ。観客は、ちっとも宙吊りになどなっていない。見終わって出てくる人の顔は、困惑の表情よりも、むしろ爽やかな感動の表情に近い。目に涙している人もいる。これは、西川美和も想像しなかったことではないだろうか。観客を宙吊りにし、放心状態にし、「やられた」と思わせる、『ゆれる』はそんな映画になるはずだった。なのに現実は、むしろ居心地の良い「いい映画」に回収されてしまった感がある。
たとえばこんなラストを僕は考えた。
「兄ちゃん、帰ろうよお」と猛がかける声が、稔には届かず、バスがくる。バスが止まる。そして発車する。そこに稔は、いるのか、いないのか。…いない。だが、一呼吸を置いて後、画面下から、靴の紐でも直していたのか、身をかがめていた稔が立ち上がり、画面に現れる。その顔は、刑務所を後にした顔とは全くちがう。普通の稔の顔だ。刑務所どころか、裁判や、吊り橋や、そんな何もかもがなかったかのような、映画が始まった頃の顔だ。その稔が屈託のない笑顔を浮かべて、猛に向かって声をかける。「猛、何してんだよ。さ、帰ろうよ。早く帰んないと、雨降ってきちゃうぞ。洗濯物、早く入れとかないとな」。暗転して映画が終わる。
もしもこんなふうに終わったら、このラストはどう解釈されるだろうか。それは、猛が夢想した稔なのか。いや、もっと遡って、実は猛が智恵子と寝た後に帰宅して洗濯物をたたんでいる稔の背中と会話したあの晩に猛が見た夢が、吊り橋のドライブ、事件、裁判、七年後までのすべてであって、つまり現実には何事も起きてはいなかったという解釈さえ成り立つかもしれない。まさにデヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』のような、壮大な悪夢の物語だと。そう。『ゆれる』を着想した西川美和自身のそれのように「夢の世界の物語」だと思える映画になったかもしれない。川島雄三の『雁の寺』のような、最後の最後に「…てな映画でありまして」とひっくり返して観客を置いてけぼりにする怪作になり得ていたかもしれない(そして興行的には失敗してしまったかも)。
香川照之もオダギリジョーも、たしかに素晴らしいと思う。そのことを十二分に認めた上で、しかし、この映画は、役者の演技に引きずられすぎていないだろうかとも思う。二人は巧い。だが、川島雄三の映画の三橋達也や森繁のような巧さとはちがう。「いかにも演技賞でもとりそうな」巧さなのだ。自分が役になりきっているんじゃなくて、役を自分にしてしまっている。この超巧い役者二人を、演出はふん縛れていない。あまりの巧さに見とれてしまったのか、なす術なしの監督・西川美和がいる。『ゆれる』の面白さの多くは、演技の巧さにお手上げして見惚れてしまう面白さであることは否めない。スボンにしたたる酒、トマトの断面、魚の目玉、ニヤリとさせるディテール(小細工)が役者の巧さと相俟って、見る者の視線を過敏にさせることで知的な気分にさせはするが、木を見て森を見ないように、小さな快感の集積で成り立っているだけのようにも思える。
映画の随所に余白を残そうとした意図はわかる。だが、その余白に嵌るものがあまりにも明瞭すぎる場合、それが本当に余白と言えるものなのかどうか。巧い役者が、その余白をみごとに埋めにいってしまってもいる。だから、映画全体がぎっちり埋め尽くされていて余白はあるけれど余裕(遊び)のない映画になってしまっているのではないか。完成度が高い。緊張感が持続する。いい言い方をすればそうだろう。しかし、本当にそんな稠密な映画を作ろうとしたのだろうか。
露悪的な描写やセリフがあったりすることでごまかされてはいるけれど、これはきわめて気マジメで慎ましい、その意味では批判しずらい優等生映画になってしまっている。
『ゆれる』は、現在の日本映画の水準からすれば、充分に傑作だとはいえ、酷な言い方をすれば、西川美和が師と仰ぐ川島雄三には、まだまだほど遠い映画だ。これが、あたかも満点のような絶賛を集めているのは、今の日本映画がやせているからに他ならない。手放しの絶賛よりも、今の西川美和に必要なのは、おそらく彼女自身も気付いているだろう、この映画への正当な批判であるような気が僕はしている。香川照之が、オダギリジョーが、他の役者だったら、それだけで映画全体が全く別物になってしまいそうな、そんな脆弱さ、それを魅力だと言うこともできるが、それを演出力だと言ってしまってはいけないのだと思う。
ないものねだりなことも承知の上であえて、『ゆれる』に以上の疑問を呈したい。僕自身がこれまでおこなってもきた絶賛の、さらにその上を求めたくなる映画であることもまた、この映画への大いなる評価だという意味もこめて。
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