鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

午後の3時47分、もう夕方にさしかかっている。

2010-02-20 16:54:46 | 直言!
今日の日差しは春が近づく温かさを感じた。
温かいという言葉で思い出した。
2月15日は韓国系民族学校の卒業式だった。
大阪南港、トレードセンター前で降りて時空間の建物に向かって歩いていく途中にある。
白い4階建ての校舎です。
南港の海を見ながら学習している。
卒業式は南港の海のさざなみを聞きながらの門出でだった。
皆、明るい顔をしていた。旧校舎があった大阪市西成区梅南から新校舎に引っ越しをしたのは2007年の9月だった。
ここまでの道程は苦難で長かった。
韓国系民族学校として梅南に設立されたのが日本で1番最初の学校だった。
次に設立されたのがJR阪和線杉本町駅近くにある建国学校だった。当時は私学として建てられたので思想問わず入学をさせた。しかし1980年代、この高校から入学した生徒の1人が韓国の大学に入学、南北分断国家として熾烈な戦いになっているときにその生徒が韓国で逮捕された。建国高校から韓国の大学に入学した人たちは何の罪もない人まで芋づる式に捕まえた。それからどういう事情になったのか韓国系民族学校として生徒募集をするようになった。一条校の認可は金剛学園より早く取っていた。やや遅れて金剛学園も一条校の申請をして一条校になった。
学校の規模から建国学校が金剛学園より誇っていたがある時期から金剛学園に生徒が多く集まるようになった。
日本の公立学校でいじめにあい登校拒否になった日本人の子どもが金剛学園に通学するようになって子どもたちが立ち直り元気に毎日登校して卒業していく。こうしたことが周辺に口コミで伝わっていく。もちろん教師たちの並々ならぬ努力もあるからである。
いつしか金剛学園の生徒募集率が伸びて建国学校が下向していく。少子化問題もあったが学校関係者の努力の一途があった。
この伸び率の展開に民団大阪本部のある総会会場で「どうして金剛学園が伸びて建国が減っているのか」と反論する人がいた。同本部関係者の母校は建国学校出身者が多いことも反論の対象になった。たぶんあれは1999年か2000年頃のことである。この言葉を真じかに聞いて驚いていた私だった。
そして金剛学園は大阪市都市開発事業で校舎1棟が立ち退きをしないといけなかった。
そこで代替地での校舎移転だった。
ここで始まったのが建国学校と金剛学園の統合問題だった。
建国学校と金剛学園の教育の体質が違う。そんなバカなと私は思った。統合に必死になる人が出てきた。
韓国政府のなんらかの影響もあったことはいうまでもない。しかし一条校を統合するということはバカなもくろみである。一条校を増やすことはしても減らしてはいけない。
韓国系民族学校として一条校は在日韓国人の財産であることを知らない人が未だに周りに多い。当時の韓国政府の指導者のことも視野に入ってくる。いかに日本で暮らす在韓国人の実態を知らないのかと身につまされた。
そして金剛学園の教師・PTA・校友会(卒業生)や学校関係者が一致団結して統合を反対して南港に新校舎を建設する方向で奔走した。この光景を私はじっと見てきた。
しかし何かの折には権力者に向かって私は私なりの意見をした。「統合はしてはいけない。韓国系民族学校の一条校は在日韓国人の財産です」と訴えた。京都韓国学校がやっと一条校に認可したのが2003年12月である。この時、京都府で認可を頂く時に現場取材をしている。関係者の感無量の表情を覚えている。日本で民族学校が一条校認可をとるということはどれほど困難なことかまたあらためて認識をしたものだった。そして京都国際学校としてスタートした。
先日の金剛学園の卒業式で学校関係者に聞いた。
当時の理事長、さまざまな批判にさらされていた。
思考の違いでそこには教師と保護者ら2分化されるほどの熾烈な闘争があった。
当時の理事長はこの奔走で体調を崩し余命幾ばくになったときに移転をする書類に病床から印鑑を押したという。そしてそのまま他界された。
こうした困難な思いが子どもたちにも伝わっていた。
トラブルの渦中にあった学校、子どもたちは親から転校を言われても「金剛学園が好きだから転校しない」と言ったという。
そんな子どもたちが成長して学び舎を巣立って行った。
子どもたちは教師や保護者が学校を守るために奔走していた姿を見てきた。
そんなことが子どもたちにしっかりと芯を作る心を作った。
晴れの卒業式に見た卒業生たち、明るかった。本当に明るかった。
学校移転を乗り越えた体験はこれからの人生、あの時親たちや先生たちが苦労して乗り越えてきたものがあった。努力すれば越えられるというものを学んだはずだ。
そんなことも意味しているのか校長は卒業生に努力と目標の言葉を送っていた。
来賓の祝辞も同じで一歩一歩と歩むことで目標が達成できると話していた。
目頭が熱くなるはなむけの言葉だった。
そして何よりも印象に残ったのが大阪府教育関係者の祝辞、知事の祝辞を代読されたが代読するまえに言われた言葉「外は冷たい風がふいているのにこの場所にくるととても温かいものを感じています」と話された。私はたぶん生徒や教師たちの姿から温かさを感じておられたのだろう。
金剛学園を巣立った高校3年の卒業生たち、あのときの移転、辛かったが乗り越えてみるとそこには大阪湾の海が校舎から見えて外国船が往来している間を海鳥がとんでいる景色の中で勉強をすることができたことを肌で体験している。
こうした体験を忘れないで力強く生きていってほしい。
高校生の2月卒業の挙行に一丸となって教師たちに交渉した高校生3年がいた。1998年度の卒業生である。韓国の大学の入学式は3月、日本での卒業式をしないで帰国していく。在日韓国人と日本人だけの卒業式に理不尽を覚えた当時の高校生が立ち上がった。
何度かの議論の末にようやく1998年度の卒業生から2月卒業式挙行になった。
そのとき立ち上った高校生のリーダー、今は結婚して子育てに励んでいる。
素直で性格のよいお母さんになっている。
金剛学園で学ぶ素地になにか人間形成に生かされていることをつくづくと感じている。
先日の卒業生たち、今は韓国に帰国して悠々自適の生活をしておられる韓国の知人、教え子が立派に成長して巣立っていった光景を見ると目頭を熱くされるだろうと思って今回の卒業式の現場で仕事していた。
忘れてはならない歴史の数々がこの学校にもたくさんあります。

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