エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

恩師夫妻をかこむ最後の会  

2017年11月15日 | 雑感

2017年10月31日、

京都青蓮院近くの粟田山荘で、大学の卒業研究室の恩師を囲む最後の会をやった。

26名集まった。この会は先輩Sさんの提案で、25年続いた。声をかけたのは私の前後

7年くらいの卒業生だ。私がずっと連絡役だったので今年最終の粟田山荘と、思い出

深い初回の高野山とについて記す。

第一回目の高野山。

       


宿坊側が言うには、“そのご予算では、十分な食事でご満足いただけます”、ということ

だった。ところがとんでもない、ほんの少しの刺身とビール、食べものは極端に少ない。

もっとも、それなりに古びた部屋で、小坊主さんが給仕してくれて厳粛な雰囲気があり、

お寺様だからとみな一応納得した。泊まった部屋は三つとも、風情がありすぎて、隙間

風が入ってくる。10月末の高野山は寒い。腹は減ってくる、何とか酒だけでもほしい。

後輩のTに、“酒買ってこい”と送り出したが、やがてガタガタ震えて、

“なんにもありませんでしたと”帰ってきた。

このごろは宿坊にバーまであるそうだが、あの時のことを考えるとどうも納得いかない。


先生の奥さんの希望を忖度して、高野山に行きたいのだと勘違いしたのだが、ここは

信仰の場で、翌朝、早々たたき起こされ、勤行に参加しろと言われる。我々には

場違いの場所だ。 この私の勘違いの旅行は、のちのちまでからかわれることになる。

 翌日は晴天、奥之院の戦国武将・有名人の墓めぐりは面白かった。

ところが、先生夫妻は前日の寒さで下痢と風邪でよたよたになっていた。

この時私の印象は、“先生夫妻がすごい、そして、歩いているうちはなんとかケアするが、あとは斟酌しない弟子たちがこれまたすごい”ということだった。

極め付きは大阪に着いて喫茶店に入ったときだ。

先生が、話に加わり、力尽きて机に突っ伏すと、テーブルに突っ伏していた奥さん、

“こんどは自分が”と顔を上げてしゃべりだす。なんども繰り返されるこの連係プレイは

抜群だが、不肖の弟子たちは久しぶりに会った嬉しさからわいわいと昔話に花を咲かせ、二人の深刻な状況などまったくかえりみなかった。


 25年続いたのは、なにも気を使うことがない先生夫妻だったからこそとつくづく思う。

その後、この会は参加者が増え、一時は35名くらいになった。


高野山での失敗例があるから、以後は皆用意周到で、宿につくとすぐに男性群は

それぞれ持ち込みの酒とかつまみで宴会、女性群は大量のお菓子でのおしゃべり。

両方とも本宴会のときには出来上がっている。幹事の挨拶のあとには、先生と最長老らほんの数人が話をするだけ、そして、夜更けまでのつきあい。

幹事持ち回りで彦根城、六甲、明日香、伊勢、淡路島、和歌山、信楽、宮島、赤穂などいろいろ行った。先生が老体なので近辺ばかり、京都・滋賀も多かった。

先生は今から9年前に亡くなられたが会は続いた。先生と話すことを目的に来ていた年配の方々はしだいに来ないようになったが。


昨年話し合って、今回日帰りの集まりを最後に会を終了しよう、奥さん90歳、我々の

ほうでも最年長は80歳、双方、これが潮時との了解だ。

今回の粟田山荘での集まりは第一回の高野山のメンバーすべて顔を揃えた。

1人Kさんが昨年亡くなったが、ご夫人が我々の誘いに応じて広島から来てくれて、全員集合だ。会が終わりになって皆が席を立ちかけたとき、Tが “一言しゃべらせてほしい”、と言いだした。そして、しゃべり終えたとき涙を流した。


Tや私らは1960年代後半、大学紛争の真っただ中にいた。教授陣と大学院会が対立する中で、Tはその激しい性格から、大学の不条理な体制について先生も含めて教授陣をはげしく攻撃した。私も年長の立場から最後の1年間は先生とほとんど口をきかずに大学を卒業した。

大学を出た後Tは一流の研究者となった。激しい性格から学会ではけむたがられていたが、彼のいうことはいつも正論だった。

先生はTが病気になったとき、そして国際的な賞をとったときには丁寧な手紙をくれた、先生は自分のことを嫌っていたのではなく、自分の性格も含めいろいろと心配してくれていたのだとつくづくわかったと、かつて、Tは私に話したことがある。

その気持が会の最後に“どうしても、しゃべらせてほしい”、になったのだろう。


卒業生はこの後も奥さんのところにばらばらには来るだろうが、とにかく25年にわたる先生夫妻を囲む会は今年、2017年10月をもって終わった。


            





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