人生も、その道程を楽しんでいるうちに、一生かけてなにかをする、というのがよいと思う――森毅さん

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『数学授権術指南』http://tinyurl.com/awwooju
【 森毅、中央公論新社 (1981/01)、p166 】

《 ムダの効用 》

昔は、なにをするにしても、今よりもっと、ムダが多かったように思う。

たとえば旅行するにしても、汽車はのろくて、なかなか目的地につかない。仕方がないので、乗り合わせたオッサンと、ムダばなしをするしかない。

またたとえば、買い物に行くにしても、値段がそもそもきまっていない。いきおい、オバハンとのよもやま話から始まって、値段の交渉の機会を待つことになる。

今では、新幹線などで、早く目的地にはつけるものの、ただ運ばれているだけで、隣の人に話しかけるのは悪いみたい。買い物はスーパーで、最後のレジだけ、もっと進むと自動販売機でボタンを押すだけになってしまう。

たしかに、移動という目的や、金と品物を交換するという目的にとっては、ムダがなくなった。他人とムダばなしをする必要もない。

しかしぼくは、目的を達成するために、とかくヤヤコシク、他人とつきあわねばならない社会のほうが、よかったような気がしている。無駄がなくなって空しい、なんて少し古いのかな。

なにかの目的があるにしても、その目的だけに一直線でムダがなくなると、そこで得られるものは、その目的が達成されたということだけで、つまらない。遠足へ行くのに、まわりの景色も、花も虫も目に入れず、ひたすら目的地を目ざし、目的地へついたらくたびれるだけ、といった感じである。ぼくは、どちらかというと、ブラブラと道草を楽しみながら歩いていくと、気がついてみたら目的地についていた、といいたのが好きだ。

それで、旅行だって、オッサンとおしゃべりするために汽車にのって、ついでに移動してしまう、ぐらいの感じがよいと思う。買い物なら、オバハンとおしゃべりするために店に行って、ついでに買い物をしてしまう、なんてのも悪くない。もっと大げさに、人生だって、その道程を楽しんでいるうちに、一生かけてなにかをする、というのがよいと思うんだ。

勉強だって、あせってやるより、十分なムダを伴って、気楽にやったほうが、結局はうまくいくように思う。

人間というものは、ムダが身につくもので、ムダなくやったことは、しばらくすると、ムダなく消えてしまう。ぼくなんか、いちおうは長い間、数学の勉強をしてきたが、結局は自分の身についたのは、ムダの部分だけだったような気がしないでもない。早くおぼえたことは早く忘れたし、早くわかったことは、わかり方のおくが浅かった。それで、このごろでは、なるべくゆっくりとものをおぼえ、なるべくゆっくりとものを理解しようと、ヘンな努力をしている。

一見は、目的を達成するためには、できるだけムダをなくして、その目的だけを早くやったほうがよさそうだが、結局はゆっくりと、ムダを伴いながら、結果的に目的が達成されたことになるほうが、その目的にとっても、うまい到達をするように思う。

それに、ムダを楽しんでいたら、あまり疲れないですむ。ムダがないほうが、かえって疲れたりあせったりして、結果だってよくない。

学校へ遊びに行って、ついでに勉強をしてしまう。もっともこれは、すでにきみたちも実行しているかもしれない。   (80.12.14)

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