チソンの小説

私、チソンの素人小説です。非定期的にアップします。 読んだ方、感想をコメントいただければうれしいです。

雪のなかの家 (前半)  

2005-02-07 23:30:46 | Weblog
  ミユキはアパートを出たとき雪がまた降りはじめているのを知った。その日は、雪は昨日からすでに30センチは積もっていたが、タケシは「明日」は晴れるから大丈夫だと言っていた。ミユキはしばらく躊躇したがフィリピンの言葉で何か短くつぶやいてから雪の中に一歩踏み出した。

  この地方は雪は珍しくない。熱帯から来たミユキと他の同郷の者たちにとってこの地方の寒さは体にこたえるが、彼女たちはおおむね雪は嫌いではなかった。子供の頃、アメリカの映画のなかで雪のシーンを観てから、漠然と彼女は、あの白い物質が精錬された豊かな生活をもたらす恩恵であるような気がしていた。テレビからは当然寒さまでは伝わらない。空調設備もない、始終乾燥した熱射にあぶられる粗末な家に住んでいたミユキにとって、この雪の印象は此処でない別の世界、少なくとも汗やワキガや果物の腐臭がしない清潔な世界として、彼女の奥深い部分に隠された。他の女の子たちも同じような印象をもっているはずだ。彼女たちが逃れたかった貧困とは常に暑さとともにあった。
  ミユキはフィリピンからこの地方に働きに来た。フィリピン・ショークラブでダンスをするためにやってきたが本当はホステスをしている。日本に来る前からそのことは知っていた。この店には20人くらいのフィリピン人の女の子が働いている。みんなは6ヶ月だけのVISAでやってきて、6ヶ月働いたらきっちりと国に帰る。帰ってからまた新しくVISAを取ってこの店に帰ってくる女の子もいる。ミユキもそうだった。この店は3回目だった。
  タケシと知り合ったのは最初にこの店にきてすぐの頃だった。普通このような店の客は中年から年寄りが多いがタケシは20代の後半だった。なにか台所やトイレの水回りを修理する仕事をしているらしい。店が始まる時間までのデートのとき、彼はよく仕事着できた。デートといっても車で1時間ぐらいのところにある街まで行って、ホームセンターで買い物したり郵便局に行ったり居酒屋で食事をするくらいだった。店外デートしたあとは店が始まるまでに帰り、お客と一緒に店に入らなければならない。これが「同伴」で、女の子には店から1000円チップがでる。田舎のクラブとはいえ店の中では彼のブルーの作業服は目立つ。そういうとき、よくタケシは店に入る前に車のなかで着替えた。
  この店は町と町をつなぐ県道のあいだにある孤立した村にある。文字どおりの村で、そこにはフィリピンでよく見るのと同じ田んぼか、もしくはビニールテント状で覆われたこの国特有の畑か、ほかには市場と役所、粗末な学校と公民館、ピンポン台やテレビゲームもある古いボーリング場、くらいしか無かった。客たちは近郊の町やほかの村から車でやって来る。仕事はさまざまだったが多くが自営業を営んでおり小金を持っていた。農家や工務店、自動車修理工場、ガソリンスタンド、理髪店主、住職などで、こういう人たちはほとんど毎晩店に来て、気に入ったコを2〜3人テーブルに呼び閉店まで陽気に騒ぐ。そのほかは教師や販売店員やここから10キロほど離れた自動車工場の期間工など、お金があまり十分でない客だ。タケシもそうだが、このような人たちは店でもあまり陽気に騒ぐことはせず、一人の女の子だけを指名してカラオケも歌わず、ずっと話をしたり、暗い席なら抱き合ったりしていた。
  田舎の店は比較的よくあることだがここの店の女の子も何人か客と結婚した。結婚した娘も、結婚したあとに夫と一緒に店に来たりした。しかしこういう結婚はほとんどまもなく破綻する。2年目が境だろうか。さまざまな原因で亀裂が入ってから、忍耐もせずたちまち正式に離婚してしまう。女は乳飲み子を連れてフィリピンに帰る。別れる原因はきっかけはさまざまだが共通するのは「金」だ。
  ここに働きに来ているフィリピン人は当然みな貧しい家庭から来る。フィリピンでは貧しい家庭で女の子が生まれれば、年頃になると「じゃぱゆき」になることがほとんど当然と考えられている。フィリピンでは一般の教育しか受けなかった人々はマトモな職などほとんど無い。大学を卒業した者でも選べる仕事は収入が低く将来的な保証もない。もちろん普通ならばそれでも食べてはいける。しかしほとんどが家族を多く抱え、そして今の貧困から脱出したいと考えれば、その為にはやはり金が要る。だから誰にしろ、まとまった収入を得るために国外に出稼ぎに行くことになるのだ。医療やIEなどの専門分野の資格と能力があれば別だが、ほとんどの場合、男は建築など単純労働で女はメイドになるか日本にホステスをしにいくか、そのどちらかだ。そして給料はメイドよりも日本に行く方がはるかに高い。
  ホステスしているうちに自然と日本人の客と親しくなる。そこに本当の好意があるのかどうかは知らないが、そのうち寝床で愛し合うようになり、何人かはそのまま結婚する。そのさい女の側にある事情とはたいてい家族に送るお金だけだ。男の側の心中になにがあるのかミユキは知らない。店のフィリピン人と結婚する多くの日本人は日本人の奥さんがいるか過去に離婚している。たぶん、子供も成人して手もかからなくなりお金に余裕も出来きた中高年の男たちが、20歳前後の若い異国の娘を前にして、かつては十分に満たされなかった愛の欲求をまた新たに高ぶらせるのだろう。なんとなく「うまく行くはずはない」と、ミユキは仲間のフィリピン人が客と結婚するたびにそう思っていた。
  実はミユキもタケシから結婚を申し込まれていた。
二年前に初めて日本に来たときから、タケシはミユキを指名するようになった。まだそのとき彼女は日本語が話せずカタコトの英語だけだった。それでも、タケシはもともと会話が好きな方ではなく、二人でソファに黙って座っていても苦にはならないようだった。それにしても、なぜ彼がミユキばかり指名したのか分からない。ほかに日本語が話せる、何回も日本に来て働いていた女の子もたくさんいるのに、あきもせずタケシはいつもミユキを指名した。
  2回目、また日本に戻ってきたとき、3ヶ月してからミユキはタケシと寝た。彼女は20歳になったばかりだがフィリピンに子供がひとりいた。彼女が17歳のときに生んだ子供だ。相手は近所に住む5つくらい年上の男だった。フィリピンなら何処にでもいる、酒を飲む以外は何もしない男だった。子供のことを、タケシとの初めての夜に話した。彼は驚いたようだったが何も言わなかった。
  「ミッケルというの」
  「?」
  「私のコドモよ」
  そのときはそれだけだった。
  ミユキの家はマニラからバスで5時間ほどかかるタガイタイというところにある。田舎できれいな海がある。家からバイクで10分くらいのところに長い砂浜があった。彼女の兄弟は全部で7人いて、下の4人を連れて行ってよくそこで泳いだ。上の兄二人は、小さい頃は学校から帰ってからいつも市場で父の仕事を手伝った。父は市場の屋台で魚介類をさばいて売っていた。父が麻薬中毒のイトコに刺されて死んで以来、兄たちは自分たちも麻薬をやり始めた。まもなく彼らは魚の屋台の権利を他人に売り払ってしまった。それから家族は困窮した。母はいつも泣いていた。そのとき彼女の子供も含めて家族は9人だった。母はマネキュアとペディキュアの道具を持って近所をまわり女性たちの手や足の先を仕上げてお金を貰っていたが、もちろん家族の生活のためにはそれは少なすぎた。いよいよ家賃が払えなくなったときミユキは18歳になっていた。母親は町の最小行政地区の長に2万ぺソをかりてミユキをマニラに送った。按配したのはそのとき町を訪れていたスカウトマンだった。最初のタームはサラリーの半分しか貰えないと彼は言った。芸能人として日本に行くためには当然査証が必要で、その査証のために必要な「芸能人証明書」を取るのが3ヶ月から半年かかる。その間のダンスや歌のトレーニング代とすべての居住費はプロモーションが立て替る。それらは、このスカウトマンの紹介料と一緒に彼女が日本から帰ってきたときサラリーから天引きされる。その後、2回目以降は借金はない。だがプロモーションのコミッションはずっと引かれることになる。彼女の手取りは400ドルだった。
  タケシに結婚してくれと言われたのは日本に来て3回目のときだった。月給のすくないタケシはミユキの2回目の来日のころからあまり店に来なくなった。それでも月に2回くらいは顔を出していたが、そのときはもう体の関係があったので、よく店が始まる前に「同伴」でなくデートしていた。ミユキは、タケシが好きだったのかどうか彼女自身もよく分からない。今でも分からない。あまり喋らない人だが優しい。フィリピンの男たちより間違いなく優しい。お金が無いのに会うたびに3千円や5千円の小遣いをくれる。他に果物やケーキなどもアパートに持ってきてくれた。彼女の仲間は特定の男を作らずに小金持ちの年寄りたちとデートをしてたくさんお金を貰いフィリピンの家族に送っている。もっと上手くやりなさいよ、と仲間たちはミユキにアドバイスするのだがもともとミユキは客にねだったりするのが苦手だった。しかし彼女は中国系の血がすこし混ざっていて色白で、顔立ちが小さく体も小柄な、日本人が好きなタイプだった。だから店内の「指名」には困らなかった。
  このままではとりたて問題はないはずだった。タケシの結婚は仲間たちがよくやるようになんだかんだ言いながら引き伸ばしていていればよかった。引き伸ばせば引き伸ばすほど相手はますます燃え上がりお金ももっとくれるようになる、らしい。それになによりもこの仕事は続けなければならない。ミユキは家族に頻繁に送金しているが、なぜか家族の生活は一向に良くならないのだ。むしろ悪化しているように彼女は思えた。また、プロモーションと交わした契約では最低6回は日本行かないと契約は終わりにならない。その間、結婚するのは自由だが仕事を止めることは出来ない。だから現実的に日本人と結婚することは出来ないのだ。もし約束された残りの期間で発生するはずのコミッションをまとめてプロモーションに払えば可能だが、もちろんタケシにそんなお金は無かった。とにかく、彼女にしても、今後もサラリーは必要である。
  しかしあるとき、彼女の身に起こった二つの理由でこのまま店で働くことが出来なくなった。一つは彼女が妊娠したこと、もう一つは彼女の母親が狂いはじめたことである。
  妊娠を知ったのは雪が積もり始めたころだった。タケシの子供でしかありえなかった。アパートの仲間に相談することもせず、その後、何日も一人で考えていた。妊娠したらうむを言わさずフィリピンに帰される。そして反則金として渡航にかかった全費用を返金させられる。もともとそういう契約である。だから仲間の中にはアフターピルを使って「流す」娘もいる。その薬はフィリピンから誰かしら常に持ち込んでいる。仲間の話によるとかつて「流した」子供の肉片を瓶詰めにして台所の下に隠したままフィリピンに帰った女もいたそうである。あとで発見されて大騒ぎになったらしい。とにかく妊娠した場合は国に帰るしかない。しばらくは日本に来られないが、生むか堕すかして、また日本に来ればよいのだ。
  同じころミユキの母親の様子がおかしくなった。少し前に兄の一人が警察に捕まり、もう一人が病院に入院したのだが、そのために今まで以上にミユキに無心し始めた。タケシに事情を話して金をもらったり、店に借金したりして無理にまとまった金額を送っていたが、母はそれでも頻繁に電話をかけてきて金を要求した。やがて家族の親戚を通して知ったことだが、金は兄たちのためでなく、そのとき家に転がり込んでいた死んだ夫の弟のためにだった。その義理の弟はいつの間にか母と恋人関係になっていたらしく、母は彼のいわれるままに金を渡していたらしい。男はギャンブル狂いだった。ミユキは母にそのことを問いただすと、彼女はとにかく金を送らないと子供を、ミッケルを殺すと言った。ミユキの下の兄弟の一番上は15歳の弟だが、彼は男が弟たちに暴力を振るうと言っていた。ミユキはそれを聞いたとき怒りで気が狂いそうになった。怒りの対象は母ではなく男の方である。母は悪くないとミユキは思った。男が母を騙しているのだ。母を愛してなんかおらず、ミユキの仕送りだけが目当てなのだ。それは間違いなかった。
  とにかく早くフィリピンに帰らなければならなかつた。ミユキは妊娠の件は伏せたままにして、家族に問題があるので帰国したいと店に申し出た。妊娠を隠したのは反則金のことを考えたからだ。また母のためにした借金もある。それは10万円ほどだったが、彼女はそのとき日本に着いてからまだ2ヶ月も経ってなかったのでサラリーはほとんどない。だからタケシに事情を話し助けてもらうことにした。彼はOKしたが、不当に高い利息の金貸しから借りるのだろうとミユキは漠然と考えた。
  ところが上手くいかなかった。彼女のアパートの仲間が彼女の妊娠を店にバラしたのだ。それで反則金を20万円ほど払わなければならなくなり、その上、店と請負組織がミユキの帰国の許可を保留にしてしまった。「結婚するつもりだろう」と請負組織の社長が言った。このまま彼女がフィリピンに帰ればもう日本に来ないと思ったのだ。契約は3ヶ月で更新されることになっている。だから社長は、あと一ヶ月はここで働かなければならないとミユキに言った。もちろん彼女はそんなに待つわけには行かなかった。
  このままでは本当に子供が殺される。ミユキはそう思うともうじっとしていられなかった。店のスタッフやフィリピンのプロモーションが社長と店長に話をしてみるから待っていろと言ってくれたが、ミユキは待たないことに決めた。タケシと一緒に逃げることにしたのだ。それが、雪が降りそそぐなか、彼女がアパートの外の積雪に足を踏み出したその日だった。

  <続く>
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雪のなかの家 (後半)

2005-02-07 23:24:32 | Weblog
  タケシとの待ち合わせ場所はアパートから歩いて20分ほどの村役場の駐車場だった。アパートの一階には店のスタッフが住んでいる。外出は彼に申し出なければならないが今はなんとなくコンビニエンスストアに行くくらいなら必要ないことになっていた。荷物は身の回りのもの以外は部屋に置いてきたので仲間が逃げたと気づくまではしばらく時間がかかるだろう。ミユキは雪が体に入り込まないように、羽の詰まったコートのフードを頭にかぶりジッパーをあごまで閉めて、歩き出した。
  歩いて5分くらいして、ミユキは雪の降り方が激しくなっているのに気づいた。積雪は30センチから場所によっては50センチくらいまで深くなっている。このあたりでこれほど降り積もったのはミユキが日本に来て以来初めてだった。視界を狂わすほどに雪が舞うのだが日差しはなぜか明るかった。雪が陽をはらんだようにやわらかく光っている。県道は普段はトラックや乗用車が行きかうのだが今日はまだ一台も通らない。雪のせいかもしれない、とミユキは思った。タケシは来ているだろうか。
  しばらく歩き続けているうちに自分が何処にいるのか分からなくなってきた。いつも見慣れていた県道ではなく、どこか異国の雪原を歩いているような錯覚が起こった。手首と襟首のところに雪がしみこみ冷たくてヒリヒリしてきた。足はひざからから下の感覚がない。強い風が音を立てて右や左からぶつかりその都度体がふらつく。
  ミユキは風の音を聞きながら昔のことを思い出していた。芸能証明を取るためにマニラのプロモーションの寮に住むことになっていた。夕方、スカウトマンと一緒にバスに乗った。乗り込むまで、ミユキはなぜか母も一緒にマニラまで来るのだと勘違いしていたのだ。しかしバスが発車するとき母は見送りの兄弟たちとそのまま降車場に残ったままだった。ミユキは驚いて母を呼んだ。そして「いや!」と彼女は叫んだ。母もびっくりしてミユキの名を呼んだ。ミユキは母が泣いているのを見て自分が一人で行かなければならないことを知った。スカウトマンはミユキの村の隣の村から来た年寄りだった。彼の2人の娘は両方とも日本でダンサーとして働いているそうだ。彼は車中でほとんど黙ったままだったが、慰めるつもりなのか彼女にピーナツや餅を買ってくれた。バスは無人の荒地を乱暴に進んで行く。やがて日は落ちて窓の外は真っ黒になった。ミユキは小さい頃から夕暮れの赤い陽が嫌いだったので夜が来て嬉しかった。夕暮れは何かが終るのを意味する。死ぬほど寂しくなる。しかし闇は彼女に何も想像させない。バスが夜の中を進んでいくかぎり明日からの生活を考えなくて済んだ。ミユキはじっと窓の外の暗闇を眺めていた。
  いつの間にか雪がひざまで埋まっているのに気づいた。全力で足を引き上げなければ前に進めない。ミユキはパニックになり慌てて雪の上に這い上がろうとして前のめりに倒れた。支えようとした両腕が雪にめり込み顔を雪に埋めた。思わず目を閉じたが口に雪が入る。子供のようにかん高いわめき声を上げながら、なんとか上体を起こして、しばらく激しく呼吸をした。空を見ると真っ白だった。前を見ても後ろを見ても真っ白だった。ミユキは恐怖のあまり再び叫んだ。
  とにかく前に進まなければと思うのだがもはや四肢の感覚がない。顔の表面が焼けるように熱かった。本当は熱いのではなく凍傷になりかかっているのだという覚めた意識もあった。自分は死ぬのかもしれないと、そのとき初めて思った。
  (お母さん)
  つぶやいて目を閉じた。体がどこかに落ち込むのを感じた。

  目覚めるとどこかの部屋だった。ミユキはベッドの中で寝ていた。水が沸くような音がどこからか聞こえるだけで、他は静かだった。今まで経験したことのないようなひどい頭痛がした。足の感覚はまだ無い。部屋は温かかった。大きくない窓が一つあり、外は暗く一面雪景色だが雪はさっきみたいに激しくない。
  上体を起こし、薄くて硬いが清潔そうな毛布をめくり自分の足を見た。彼女が穿いていたジーンズではなく、綿を縫いつけた厚い生地のパンツだった。上も同じ生地のシャツだ。両足の裾をめくり上げて手で脛をさすった。そうしているうちに少しずつ足の感覚が戻ってきた。落ち着いてから彼女は部屋を見渡した。暖かいのは部屋の真ん中、ベッドの近くに鉄の丸いストーブがあるからだ。それは彼女が見たこともない形で大きかった。屋根は低く梁がむき出しだしで、部屋というより穀物倉庫のような作りだったが、室内は家具もあり装飾されていて清潔だった。
  ミユキは喉が渇いていることに気づいた。足の感覚はまだ全部は戻らず立ち上がる自信はなかった。「スミマセン」。すこし咳き込んでからまた彼女は呼びかけた。「スミマセン…」。
  扉の向こうで女の声がした。しかし何と言ったのかミユキには分からなかった。扉が開いて40歳くらいの女が入ってきた。ミユキの顔を見て微笑んで、またなにか言ったが、やはり彼女には分からなかった。日本語ではないようだ。ミユキも微笑んで首を振り、そして「ミズガホシイデス ケド」と言った。相手は聞き取れなかったようで、ベッドの横にあった粗末な木の椅子に座ると、また微笑みかけながらミユキの額に手を置いた。手はカサカサで手だけ先に年を取っているようだった。ミユキは本当に水が飲みたかったのでもう一度言ってみた。
  「スミマセン、ミズガホシイデス」
  すると女は驚いて額の手を引っ込めた。目を大きく開きじっと彼女を見る。
  女はやがて言った。
  「驚いた。日本語なんて何年ぶりかしら」
  それから女はミユキの枕元の向こうを指差した。ずっと気づかなかったのだがベッドの反対側には小さな丸いテーブルが置かれていて、そこに盆に載せられた水差しとグラスがあった。ミユキは自分でグラスに注いで水を飲んだ。
  何処から来たか聞かれて、ミユキはアパートがある町名を言ったが、女は首をかしげた。
  「じゃ、あなた、ハバロフスクから来たのじゃないの?」
  「チガイマス」
  ミユキは相手が言った地名は全く知らなかった。
  女は自分の名前を「サトコ」と言った。ミユキは自分を「ミユキ」と名乗った。
  「でもあなた、日本人じゃないわよね。わたし中国人か韃靼人かと思ったのよ」
  ミユキはサトコがなにを言っているのか全く分からなかった。
  サトコは料理を見てくると言って立ち上がり部屋を出て行った。戻ってきたときスープとパンを運んできた。ミユキがまだ立ってテーブルに着くのは無理だと知ると、広い盆を持ってきて料理を彼女のベッドの上に置いてくれた。スープは見たことのない野菜が入っていたがどこかで食べたことがある懐かしいような味付けだった。
  食事をしているあいだサトコの身の上話を聞いた。サトコの夫はその「ハバロフスク」という街に働きに行っていて今は彼女一人でここに暮らしているらしい。娘が一人いるが結婚して20キロほど離れた町に住んでいるそうだ。
  それにしてもここはどこだろうか。ミユキはこの家の庭のゲート前で倒れていて、からだ半分が雪に埋まっていたのだとサトコは言った。「落ちてきたように」そこで倒れていたらしい。ミユキは考えた。アパートからどれくらいの時間歩いたのか分からない。10分のようでもあるし1時間のようでもあった。しかしそれほどの距離を歩いたはずもなかった。ここはアパートと公民館の間に違いない。ミユキは自分の上着のポケットに携帯電話があることを思い出し、サトコに聞いた。彼女は壁にかかっていた上着を取ってくれた。携帯のシグナルは「圏外」だった。タケシはもう来て自分を待っているだろうか。しかしまだ動けそうにもない。食べているうちに頭痛はおさまってきたが両足はまだ感覚が戻らなかった。
  サトコは食事の終った盆をさげて出て行ったとき、ミユキが部屋を見渡すと、すでに真っ黒になった窓の横にイエス様とマリア様の絵があった。ミユキがフィリピンで良く知る写実的なものではなかった。サトコは戻ってきてまたベッドの横の椅子に座り、話を始めた。
  「ここに来てもう30年くらいになるわ。そのあいだ一度だけ日本に帰ったけど、また戻ったの。あなたお国はどこ?」
 フィリピンだと言った。彼女はフィリピン人と出会ったのは初めてだと言った。 
不意にミユキの手を取り、
  「ねえ、あなた、…どこかの娼館から逃げてきたのじゃない?」
  と言った。ミユキは、ショーカン? と聞き返すとサトコは少し困った顔をして「お店よ」と言い直した。ミユキは驚いて何も答えられなかった。
  「ごめんなさいね。でも気にしないで。私も昔そこにいたのよ」
  「……」
  「十五の時に新潟から船に乗ったの。生まれたのは東北よ」
  サトコは15歳の時に日本を離れて「ハバロフスク」のショーカンで働いていたと言った。サトコが話すのはミユキにとって慣れない種類の日本語で全部は理解できなかったが注意深く聞いていた。
  「ここもそうだけど私の生まれた村は酷かったわよ、一年のほとんどが雪で閉じ込められて、そしていつも食べ物がないの」
  食べ物がない。その感覚はミユキには記憶に無い。一度も貧乏でないときはなかったが、飢える、という死の恐怖を感じたことがなかった。ミユキの貧困のイメージは常に倦怠と不安であり恐怖ではない。
  サトコは話を続ける。
  「最初お母さんが家を出て行ったの。しばらくしてお父さんも出て行った。兄弟は私のほかは弟が2人いたの」
  親が家出してから何日か経って3人が死にかけていたとき、家に見知らぬ男が来てサトコを連れて行ったそうだ。男は弟たちのことは任せておけと言った。新潟まで列車で何日もかかった。新潟では何週間かを長屋の一室で過ごした。すでにサトコのような若い娘が何人もそこに住んでいた。みんな一様に工場で働くのだと思っていたようだ。サトコは漠然と違うような気もしていたがそのときはもうどうでも良かった。誰か他人が自分の生活を決めてくれる、死ぬことさえ自分でなく誰かが決めてくれるものだと思っていた。それに、なにも考えなくてものときはちゃんと食事がもらえたのである。
  ミユキはサトコの話を聞きながら自分のことを思いだしていた。“Ayoko!”と、「いや!」と、母に向かって言ったのはマニラに行くバスに乗ったとき、あのときだけだったのではないか。あの時の自分だけが本当の自分で、あとはずっと誰かに心が乗っ取られていたままだったような気がする。確かに、あのときの言葉は体の奥からでた「拒絶」だった。
  「それからみんなで船に乗せられたの。大きな船だけど貨物ばかりよ。そこに女の子ばかり50人くらいかしら、いたわ。大阪や横浜から来た子もいた。それでね。みんな船に乗る前に一人50円ずつ貰ったのよ。みんな喜んで街で買い物したわ。着物とか上着とかお化粧道具とか、あと、食べたことなかったお菓子とかね。それでね、ふふ、結局その50円は船の中で捺印させられた証文ではちゃんと借金に入れられていたの。ねえ、あなた。おかしいでしょ」
  サトコは笑った。ミユキもつられて笑った。
  「船の中で三夜すごしてウラジオストックという港町についたの。すごく寒くてね。男たちはみんな知らない言葉喋るし始終怒っているし、怖かったわ。怖くて海に身投げしようかと思ったくらい。…ウラジオストックでみんなバラバラにさせられた。船で一緒だった日本人の男はそこまでで、私はほかの6人と一緒にロシア人の男に連れられて列車に乗せられたの。四日かかってハバロフスクに着いたわ。途中2人が風邪をひいて駅に着いてから私たちと別にさせられた。たぶん肺をやられたのね。そのまま会うことはなかったわ。…娼館でもみんなかわるがわる病気になったわ。決局ほとんどやっぱり肺をやられてしまってね。…最後まで残ったのは私ともう一人、トヨちゃんだけだった。トヨちゃんは大分前に満州の新京に行っちゃったけど…」
  ミユキはベッドで寝ながら話を聞いているうちにとても眠たくなってきた。女の話の仕方はミユキを安心させた。ここにずっと住んでいたような気がしてきた。しかし眠ってはいけないような気も、した。
  話の中でミユキがぼんやり思っていたことを聞いてみた。
  「そこで、バイシュン、したの?」
  「ええ。そう。私たち日本人や朝鮮人、あとロシア人も一緒に住んでいた。ロビーに小さい酒場があってね、その奥の部屋に私たちは並んで座っていた」
  「イヤだった?」
  「それがわからないのよ、あなた。マダムも厳しかったし、寒いし、ゴハンは少ないし、、、でもね、他の生活は私たち誰も知らなかったの。そこを出て生きていくなんて考えたことなかったわ。…客の男たちは飲んで歌って、それから私たちを抱くの。そりゃ乱暴で嫌な男たちは沢山いたけど、でも少しはね、どんな人だって少しは優しいのよ。じゃなかったら生きていけなったわ、私たち」
  サトコはすこし鼻をすすった。
  「マリア様だってきっとそういうわ」
  ミユキはどこか遠くから呼ぶ声を聞いた。誰かがミユキの名前を呼んでいた。自分の心臓の鼓動が早くなった感じがする。
  「20歳をすこし過ぎて、ロシア人の農夫に水あげされたの。あの人、ツアーリーの革命で貰ったわずかな土地を売ってお金を作ったんですって。それからハバロフスクを離れて…」
  ミユキは思わず叫んだ。
  「サトコサン、誰かがワタシを呼んでる!」
  サトコは驚いて話を止めて部屋を見回した。
  「なにも聞こえないわよ。あら、…あなた!」
  ミユキを見て、サトコは両の目を大きく開いたまま絶句した。しれからしばらくして椅子を立ち上がり寝ているミユキの体を抱いた。
  「ああ、そうだったのね。あなた…そう。…神様がそう望んだのかしら」
  ミユキも泣きながらサトコを抱きしめた。
  「サトコサン! ナナイコ! オカアサン、…ああ! オカアサン!」
  耳の後ろでサトコの涙を感じた。
  「だいじょうぶ、だいじょうぶよ、ここじゃなかったのね、あなた、私を忘れないで。…ああ、神様、神様…」
  ミユキは自分の心臓の鼓動の音がだんだん大きくなるのを聞き、また、それとともに徐々に意識が消え行くのを感じた。

  「アヨコナ!!」
  ミユキは自分の叫び声を聞いた。
  再び、
  「イヤ!」
  と叫ぶ自分に気づいたとき、同時に気管を押し開けて何かの塊が吐きでる感じがした。それから目が覚めた。男が数人、ミユキの顔を覗き込んでいた。空が青く日差しが目を眩ます。ミユキは呻いた。
  「生きてたぞ」という声がした。
  それから、「ミユキ!」と聞き覚えのある声が叫んだ。タケシが首に手をまわしてきた。
  タケシに抱き起こされたとき、自分がまだ雪の中だったことを知った。
  タケシの体の温もりを感じた。彼の頬が熱かった。
  「良かった!」
  タケシは言った。
  意識がはっきりしてきて、彼女はあたりを見回した。雪はやんでいたが風はまだ冷たい。体全身が冷えているのが自分でも分かった。そこにいた男たちはタケシのほかはアパートに住むクラブ・スタッフと、もう一人は知らない男だった。
  その見知らぬ男が言った。
  「一応、病院に連れて行こうや」
  そのとき、ミユキは体の奥深くから突然、力が噴き出すのがわかった。実はそれは昔から彼女の体の奥にしまいこまれていたものである。それは「怒り」であった。
  ミユキは男たちを拒絶して、おぼつかない足で何とか一人で立ち上がった。
  そして叫んだ。
  「ワタシ、カエル!」
  男たちは彼女の剣幕にひるんだ。タケシがなにか言いかけたがミユキは続けた。
  「アヨコ デト タラガ! …イヤ ココ!」 
  それからミユキは獣の仔のように叫び続けた。
  「フィリピンもイヤ! ドコモ、イヤ! ゼッタイ、カエル! バカ!…バキャロオッ!!」

   <了>
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「2016」

2005-01-22 21:45:04 | Weblog
  警察に身柄を押さえられたのはコンビニで明日の朝食のシリアルを買ってから表に出たときだ。たちまち一人の警官に破れるくらいシャツを引っ張られて車に押し込められた。俺の車じゃない、俺のはボニ・アヴェニューの向こう側で女房を乗せて待っている。コンビニは家から2分の距離だった。奴らはずっとつけてきたのだろう。家はコンドミニアムなので警備がいる。だから家じゃなくコンビニで捕まえたのだ。下見していたのか。俺は黒のセダンの後ろのシートに座らされ、俺を押し込めた警官は運転席に座った。だから逃げようと思えば逃げられたのだが俺はそのままそこで固まってしまった。理由は、そいつが小遣い稼ぎのケチな不良警官でもなさそうな、なんかヘタなことしたら撃たれそうなくらい寡黙でアブなげなヤツで、そして何より助手席に座っていたもう一人が日本人のようだったからだ。
  助手席の男が日本語で言った。
 「名古屋でフィリピン人の女が殺された。お前が知っている女だ。話を聞きたい」
  俺は何のことかわからないまま、マヌケにも、
  「…いや、自分はもう辞めましたから」
  と答えてしまった。
  前の二人は顔を見合わせて、それから振り返り俺をみた。日本人の方が言った。
  「知っているよ」
  とにかく、女房と車があるからと、いったん家に帰してもらった。奴らの車は家までついてきて、俺は帰り道ずっと慌てて唾を飛ばしている女房に、前の仕事がらみの用件でなんでもないんだと言った。家に着き、女房を寝室に入れて、しばらく考えてから、キッチンでジョニ黒をコップ3分の1ほど注いで、それを一気にあおった。そして寝室に向かつて「すぐ戻る」と叫び、再び家を出た。外でやはり車が待っていた。乗り込むと奴ら二人はバナナを揚げたのを食っていた。コンドの前の屋台で買ったのだ。
  運転席の警官は相変わらず寡黙だった。日本人の方が言った。
 「私は警視庁の外国人犯罪の担当官だ」
 「誰が殺されたんですか」
 「LALAINE DELA CRUZU MARITES、、、。通称“アイ”」
  俺は正直言って思い出せなかった。10年前の、あの頃まで俺は常時500人程のフィリピン人を管理していた。会社でだ。芸能人招聘という名目で日本にホステスを送り込む仕事をしていた。しかしあの年、スマトラ沖大地震で150万人が死んだ象徴的な年の翌年、法改正があり、我々招聘業者は「人身売買」業者とレッテルを貼られて、政府、マスコミ、人権派市民に排撃された。いくつかの組織はさまざまな方法で生き残りを図ったが俺は早いうちに身を引いたのだ。今は女房のいるフィリピンで米や洗剤など日常品を小売店に卸す仕事を細々としている。実入りは10分の1に減った。残ったのは在職中に拾った女房と車だけだった。
 「すみません。なにぶん…仕事柄、たくさん過ぎてね。一人一人名前憶えてないんですよ」
  俺がそう言うとそいつはちょっとあきれたような表情をして、また前を向いて、言った。
 「車を出すから少し付き合ってくれ」
 「警察ですか」
 「まさか。あんなところ…。どこかゆっくり話せるところ、知っているかね? 私は出張の身でね。この街に詳しくないんだ」
 「ホントに警視庁から来たんですか?」
 「後で証明する。何処がいい?」
 「近くに、静かでないけど目立たないバーがある。ブルゴス・ストリートです」
  男はボソボソ英語で運転席の警官に言った。警官は返事もせずに車を発進させた。
  車はパッシグ川を越えてから、大通りのマカティ・アベニューに入った。両側に歓楽街のけばけばしい看板が連なる。車道まで客引きの女達がせり出し媚態をさらす。信号待ちの車には窓を叩き店に誘うのもいる。この辺は、昔はマニラ一の商業地区だったのだが、十年前の日本の法改正、つまり外国人芸能人受け入れ基準の見直しで、この国の多くの女たちが日本で就労する道が閉ざされた。それから大量の売春婦がマニラのあちこちに出現したのだ。日本に就労していたフィリピン芸能人は当時8万人。法改正後それは3千人まで減った。もともと芸能人というのは名前だけで実はホステスだったのだが、年間8万人という日本就労ビジネスはこの国の主要産業の一つとなっていた。法改正以降は結果的に取引業者を含め多くの組織が潰れ始め、2009年にフィリピン航空が破産して米国籍の企業に買い取られたあと、急速にこの国の経済は破綻した。今ではかっての商業都市マカティ、とくにこのマカティ・ノース・エリアはアジア最大の売春地区となっている。
  車はブルゴス・ストリートに入った。たちまち売春婦やポン引きたちがあふれ出し車を道に閉じ込めた。
 「おりましょう」俺は言った。「ここからは車は動かない」
  男は舌打ちをして、しばらく逡巡してから、運転席の警官に一言囁いて車を降りた。俺も続いて降りた。ここに誘い込んだのはこのためだった。車と警官を俺から引き離せるし、しかもここは人目が絶えない。滅多なことはできないはずだ。
  俺と男はこのあたりでは老舗のバー、MATRIXに入った。売春婦がたむろするバーの一つでここはテーブル席が建物の外にも張り出しており、そこなら店内のやかましい音楽も聞こえず話が出来る。
 「ここは、客は白人ばかりですから、日本語で話しても誰もわかりませんよ」
 「そのようだ」
  テーブルについて、俺はビールを頼んだ。男はアイスティーを注文した。
 「飲まないんですか? 仕事中だから?」
  男は答えずに胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、広げて俺に見せた。
  俺が良く知る請負契約書だった。女の名前があり、日付は2003年9月10日。出演店舗は当時の顧客の静岡のフィリピンクラブだ。
 「お前のサインがある」
 「だからなに? オレはむかし招聘業社の代表の名義になっていた。オレがサインするのは当然でしょう。彼女は当時ウチの会社が扱っていた何百人のタレントのうちの一人だ。憶えてないよ」
 「彼女の最後の雇用契約がこれだった。このあと彼女は静岡で失踪した。」
  俺はテーブルに置かれたビールを取り、ゆっくりグラスに注いだ。記憶をたどる。
  その年、入国管理局が興行ビザの資格審査基準を厳格にして、それまで繰り返し日本に入国していた芸能人…実はホステスだが、は将来の日本就業の道が断たれた。同時に入管の別働隊が全国のフィリピンパブを根こそぎ摘発した。当時アメリカのキャンペーンのため国内世論は、招聘会社は違法な人身売買組織であり、フィリピン女性は被害者であるという論調が出来上がっており、この摘発は比較的抵抗なく続けられた。ほとんどの、自ら望んで日本に来た芸能人たちも、入管に拘束されたとたんに、事後の保身のため進んで自分は被害者であり騙されて日本に連れてこられたと自供した。それで多くの招聘業社代表や社員が逮捕され、裁判にかけられ、そして有罪判決を受けた。会社の代表になっている俺はその寸前で会社を潰した。それ以降ここフィリピンで暮らしている。
 「失踪したなら、なおさらオレは知らないよ。オレの会社は2005年の4月に解散している」
 「お前が彼女を逃がしたんだろ。他のタレントと一緒に」
 「……」
  俺は考えていた。あの時、多くの招聘会社がそうしたように俺の会社も、当時請け負って日本で就労していた芸能人たちの一部を故意に逃がした。つまり失踪させた。再入国の見込みがなく、フィリピン人自身も希望したので、日本各地のもともとビサ切れの外国人ばかり働かせていた違法クラブに売ったのだった。俺の会社が貰ったのは一回の紹介料だけだ。それらは従業員の退職金に当てられた。他の招聘業者は多くが逃がし先のクラブと契約を結び毎月の仲介料を取っている。俺の会社が行なったことは、俺にとって単なる慰めにしかならないが、マシな処置だったと思っている。
  俺は言った。
 「そうかもしれない。でも俺は憶えてないことは同じだよ。それとも出入国管理法違反で俺をパクリに来たのか?」
 「それはこれから考える。会社代表だったお前は183人の外国人の管理法違反、つまり故意の出演先無届変更と期限内出国の不履行で起訴されている」
  ウソだ、と俺は思った。逃がす前に経営難を理由に会社は潰している。形式上、タレントたちは会社倒産以降に、請負人消滅で雇用契約が終わり、自動的に帰国の段階に入っていたにもかかわらず彼女たち自らが逃亡したことになっている。つまりかつての会社代表だった俺の責任はない。こいつは警視庁から来たというのもウソだ。
 「逃げたタレントは自分の意思で逃げた。オレの会社はタレントの帰国処理を行なうさいに…会社が潰れたのでね…何人ものタレントが引き続き日本での就労を希望した。オレは希望者のみ、各地の違法クラブに紹介した」
 「自供したな。公判に使うぞ」
  俺は思わずビールの泡を噴出して笑った。
 「勝手にしてくれ。とにかく、法的には会社倒産後のことだ、責任はない」
 「道義的には?」
  俺は思わず持っていたグラスを握り締めた。道義的には、だと。
 「お前が逃がしたタレントのうちの一人、Ms.LALAINE、アイは、その6年後に名古屋のラブホテルで殺された」
 「……」
 「アイはお前に紹介されたクラブを2ヶ月で辞めて、次に福岡に行った。そこのスナックで1年働いたあと、名古屋の“パーク”で働いていた。“パーク”がどういう所か、お前知っているか?」
  “パーク”とは名古屋の市内にある、違法滞在の外国人が大量に生活する「街」だ。大小のヤクザ、さまざまな国のマフィアが管理して主に売春や麻薬と引きの場所として知られている。2005年の法改正の際、帰国を拒否して逃亡した元興行ビザ所持者が多いといわれるが、とにかくそこは日本中の違法滞在外国人たちが集まり自然に発生した巨大な非合法エリアだった。
 「アイはエリア内のラブホテルで売春をしていた」
  俺はまだ黙ってグラスを見つめていた。男は続けた。
 「ある日、2012年の5月19日、ラブホテルの一室で惨殺された。死因は縊死だ。クビをネクタイで締められた。しかし、事件の特徴は、生殖器が何かの器具により激しく損傷していたことだ。ベットは血だらけだった。変態だよ、殺したのは」
  アイ、という名前をだんだん思い出してきた。静岡のクラブ。…たしかミンドロ島出身の女だ。
  俺の雇用主が会社を潰すと決定した。倒産処理が終ってから、残った社員が最後の仕事、つまり残留タレントの帰国手続きに取り掛かった。ほとんどの社員は早々と退職したが、俺を含む一部はしばらく残り、そのような残務整理をしていた。俺たちは各クラブで出演していたタレントにチケットが取れ次第の帰国になったことを通達した。給料は働いた日までの分は払うから逃げるなよ、と言って回った。そのときアイが訴えたのだった。まだ日本に来て2ヶ月しか経っていない。父親は死んでいて、自分の子供を面倒見ている母親にお金を送らなければならない。このまま帰れば二度と日本にこられない。帰るわけにはいかないのだ、と涙ながらに訴えた。
 「お前が殺したのと同じじゃないか?」
  ふいに男が言った。
  俺は思わず顔を上げた。それから思い直して、グラスのビールを一息にあおった。
 「オレが紹介したクラブは違法滞在外国人を使っているが風俗営業許可は取っている。経営者がカタギであることも調べた。つまり…」
 「紹介した店で働いていたなら殺されずにすんだってか。彼女は、そこは2ヶ月で辞めた。理由は、もっと稼げる仕事がしたかった。つまり売春だ」
  俺は回りを見回した。バーのテーブルは白人がほとんどだが黒人や韓国人、中国人もいる。日本人は少ないが探せばいるだろう。買春目的の日本人はここではなくマビニの歓楽街を好む。各テーブルにはフィリピンの売春婦が群れている。十代の子もいる。ここはこのような買春バーが500以上あるといわれる。多くが、元、日本での興行経験がある女らしい。俺たちのテーブルにも女が寄ってくるが無視していると自然にいなくなる。ここでは客に困ることはないのだ。
 「“パーク”で働くのは危険すぎる。みんな知っているはずだ。殺人くらいでは、警察もめったに介入しない」
  男は、思い出したようにポケットからタバコを取り出して、くわえて火をつけてから俺にもすすめた。やめたから、と断った。そのとき今更だが俺は男を注視した。男は50過ぎくらいで背が高く、目は焦点が合わない感じで鋭さは皆無だ。かつて酒か麻薬で溺れたゆるい顔つきだった。地味なグレーのジャケットで垢抜けない。フィリピンクラブでは隅のほうで静かに飲むタイプだ。ハマったら一途で、会社や家庭も放りだしそうだな、と俺は思った。こいつ…客か。
  男はゆっくりと煙をはいてから言った。
 「お前ら招聘会社は、法改正まで、一貫して違法就労を助長してきた。幼い考え方しかできないこの国の女を異国の地でホステスさせることに罪の意識は感じなかったのか」
  俺の苦手な人間だ。自分はたまたま無事なだけなのに、他人が「陥った」とき、隅からしゃしゃり出てきて石を投げる。お前はたまたま無事なだけだ。この手の奴は、誰でもいつでも自分が罪人として祭りあげられるかもしれないということを知らない。
 「別に彼女たちを誘拐してきたわけではない。…まあ、考えが浅い女を食い物にしたっていうんなら…うん、まあ、それもそうだ。しかしその流れはな、日本人全体の同意があったからだよ」
 「同意?」
 「入管法をあいまいなまま放っておいて、非芸能人に興行ビザを発給し続け、結果的に8万人もの資格外活動、つまり不法就労外国人を生み出した役人。受け皿となった4千ともあるといわれるフィリピンクラブ、及びそれ以上の違法クラブの経営者たち。そしてなによりも…」
  俺は言葉を切った。詭弁じゃないか、と自分でも思わざるをえなかった、しかし続けた。
 「…外国人の女を欲したあの国の男たちだ。このすさまじい需要が、この国の、ただ生きることのみ考えていたフィリピン人たちを呼び寄せた」
 「責任回避だ。お前らポン引きが率先したのだろうが」
  男はそういってしばらく店内の他のテーブルの痴態を眺めた。そして言った。
 「イスラエルで捕まったナチスの元親衛隊のアイヒマンって男を知っているか?」
  俺は首を振った。
 「アイヒマンは虐殺の罪で、イスラエルで裁判に処された。公判で彼は自分の署名入り虐殺指令書を見せられて、なんて言ったと思う?」
  また首を振った。
 「こうだ。『それは間違いなく私のサインです。しかし私の人格とは関係ありません』と…つまり、自分は歯車のひとつであり、虐殺は命令されて行なっただけだと、個人的な責任はないのだと訴えたのだ。どう思う」
  俺は虫のように気味悪く動く男の薄い唇を見つめた。コイツは偽善者だ。
  俺は言った。
 「ナチスは合法的に政権をとった正規の政党だ。その罪は、彼らが政権を担うのを求めたドイツ国民にもあるのではないか?その裁判はイスラエルだか、もし彼がドイツ国内でドイツ人から告発されたら、仲間を売ったみたいに思わないか?自ら望んだ汚い仕事をやらせておいて、そして告発する。これは偽善じゃないのか?」
 「お前はナチス支持者か?」
 「バカなことを」
  俺は議論の不毛さを感じた。俺は声を荒立てた。
 「ここを見ろ。この売春婦の群れを。彼女たちは多くが元日本就労者だ。日本に行けなくなりここでパンパンやっている。同じなんだよ。やることは同じなんだ。まだ日本のほうがマシだろ。俺たちは悪魔でも天使でもない。ただフィリピン人の欲望と日本人の欲望のために働いていた、ただの…ウジ虫なんだよ。お前は一体なんだ!」
  立ち上がった俺を男は見つめていた。哀れむような表情だった。
 「警視庁というのはウソだ。私は福岡でアイが働いていたクラブの客だよ。」
  俺は、すこし拍子抜けした。しばらくしてからまたイスに座った。それからビールを注文した。男に、飲むかと聞くとジンをくれというので注文してやった。
 「愛していたのか」
 「…そうだ」
 「福岡から“パーク”に移ったんだったな。なんで止めなかった?」
 「知らされなかった。急だったんだ。スナックから居なくなって、ママに聞くと“パーク”に行ったと」
 「“パーク”のブローカーは日本全国にいるからな。それにしてもお前に言わずに消えたとすれば向こうは愛してなかったことになるぜ」
  ウェイトレスがジンを持ってきた。男は受け取るなりすぐにそのジンのグラス空けた。そしてカラマンシをかじりながら言った。
 「それはお前には関係がない」
  潮時だと思った。この男の目的は何だ。
 「で、一体オレをどうしたいんだ? 罪の意識をオレに植え付けて、それでどうする?」
 「お前を殺す」
  そのとき後ろのテーブルで女達の嬌声が上がった。周りの客みんなが思わずそっちを見た。俺も振りかえり見ると一人の背の高い白人がふざけて一人の小さな売春婦を肩に持ち上げて振り回していた。
  オレは咳払い一つしてから向き直り、男を見た。男はまっすぐオレを直視して、しかし唇は震えていた。怯えている、ということは本気なのか。
 「…お前が? オレを?」
 「さっき一緒にいたフィリピン人、彼は本物の警官だ。オレは40万ペソで雇った。殺しの報酬としたら破格だ。半分は渡してある。後の半分を得るために、彼は死に物狂いでお前を仕留めるだろう」
 オレは何も言わずに男を見ていた。わき腹を酸が走った。それは体が自動的に何かを予感するシグナルのようだった。
  しばらくしてから、俺は言った。
 「理由は?」
 「お前が女を売った」
 「“パーク”にではないだろ」
 「殺された」
 「俺たち招聘業社をひとりひとり殺していくつもりか? …待てよ、本当の犯人は?」
 「捕まるわけがない。“パーク”では売春婦殺しなど珍しくない。お前がさっき言ったように警察も動かん。オレは自分だけでお前を突き止めた」
  そして、二人ともお互いを見つめながら黙った。
  俺は考えていた。ハッタリ、ということもありえる。道路の雑踏を見渡した。人ゴミのいたるところにあの警官が潜んでいるように思える。
 「人が多くてもあいつは撃つよ。警察だ。消音装置も持っている」
  俺の気持ちを見透かして、男が言う。
  俺は目をそらして言った。
 「あの時、アイは俺に泣きついた。フイリピンに家族がいる。子供も二人いる。父親はいない。食っていけないと…」
 「奇麗事を言うな。お前は紹介料を取っただろう。あのとき国に帰っていれば殺されずにすんだ」それから男は低く吐き捨てるように呟いた。「女衒が!」
  オレは席を立った。殴り倒して騒ぎを起こして逃げるか、それとも…
  男はあたりを見回して、そして俺に座るように顎でうながした。
 「まだ早い。…こうやってお前と話をしたのも、お前らがどういう人間か知ってから死んでもらおうと思ったからだ。これを取れ」
  男はテーブルの上に白いビニール袋のようなものでグルグル巻いたものを置いた。それは重くてテーブルを鈍く鳴らした。
 「22口径だ」
 「え?」
 「護身用で相手を殺すには2メートル以内から撃たなければならない。弾は一発だけで安全装置ははずしてある。映画のように乱暴に扱うな。暴発するぞ」
 「なんで」
 「ここはオレが払っておくよ。500で足りるか?」
  テーブルに500ペソ札を置いて、男は立ち上がった。
 「ただ殺すだけではオレの良心に傷がつく。お前はまだ自分の罪を認めてないようだ。…実は場合によっては、オレが殺るつもりだった。トイレで仕込んで戻ってくるときに一発でな。そういえばゴット・ファーザーでそういうシーンがあった。観たか?」
 「これを置いていってどうする」
 「戦え。あの警官を殺せ。たとえ、運良くお前がここから逃げおおせても、フィリピンにいる限りあいつはお前を追う。家族には手をだすなと命じた。しかしお前は確実に殺される。生き残るためには、この雑踏のなかであいつを殺すしかない」
  そして、男は背を向けて歩きだした。俺はしばらく放心してその背中を見ていた。男がドアを押し開けて店の外に消えてしまう瞬間に、弾かれたように身を起こし、テーブルの上の塊を見た。今、追いかけてあいつを殺すか?…しかし。
  俺は手を伸ばしてテーブルの上のそれを取った。そしてひざの上で見えないようにビニールを開けた。黒い銃身が見えた。ベルトの携帯電話を探りその形を指でなぞった。女房に電話して助けを呼んでもらうか。しかし、男の言うことが本当ならそれも無駄なようだ。
  何故こんなことになったのだろう。俺は考えた。一体、俺は殺されるほどのことをしたのか。あいつはおかしい。愛しているならば福岡のときに彼女を救うべきだった。それを自分でも分かっているのだ。だから誰か他の罪人を探し続けてここまで来た。しかし、この大規模なビジネスは、この大掛かりな罪は、あまりに大きすぎて俺やあの男だけでは背負いきれない。俺は拒否するべきだったのか? この仕事を、自分だけ手を引けばよかったのか? しかし、今、招聘業がほぼ壊滅して、結果がこの有様だ。女を呼び込む巨大な暗黒…男達の欲望、このアジア最大の歓楽地マカティ・ノース・エリア、そして日本の完全非合法買春地帯“パーク”…この欲望の怪物を産み出してしまった。俺たちは非力だ。誰も陥れず、そして誰も救えない。ただ巨大な暗黒のために奉仕するだけだ。ただ、俺たちは生きたかった。…そして今も。
  俺はビニールをゆっくり引き剥がし、ピストルを持った。しばらくその重みを確認してからズボンの前ポケットに入れた。手は銃ばを握ったままで…。
不意に、今まで忘れていた店の喧騒がよみがえった。周りを見回した。タバコの煙と汗と乾いたビールと腐った果物の匂いが混ざり合い店に充満している。吹き抜けの窓の外はポン引きと乞食と売春婦と酔った男達が群れていた。この欲望は何千年前からの呪いだろうか? このエネルギーはいかなる罪により産み落とされたものか?
  銃を再び握りしめ、俺は立ち上がった。
  「あそこに帰らなければならない」

−了−
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