ミユキはアパートを出たとき雪がまた降りはじめているのを知った。その日は、雪は昨日からすでに30センチは積もっていたが、タケシは「明日」は晴れるから大丈夫だと言っていた。ミユキはしばらく躊躇したがフィリピンの言葉で何か短くつぶやいてから雪の中に一歩踏み出した。
この地方は雪は珍しくない。熱帯から来たミユキと他の同郷の者たちにとってこの地方の寒さは体にこたえるが、彼女たちはおおむね雪は嫌いではなかった。子供の頃、アメリカの映画のなかで雪のシーンを観てから、漠然と彼女は、あの白い物質が精錬された豊かな生活をもたらす恩恵であるような気がしていた。テレビからは当然寒さまでは伝わらない。空調設備もない、始終乾燥した熱射にあぶられる粗末な家に住んでいたミユキにとって、この雪の印象は此処でない別の世界、少なくとも汗やワキガや果物の腐臭がしない清潔な世界として、彼女の奥深い部分に隠された。他の女の子たちも同じような印象をもっているはずだ。彼女たちが逃れたかった貧困とは常に暑さとともにあった。
ミユキはフィリピンからこの地方に働きに来た。フィリピン・ショークラブでダンスをするためにやってきたが本当はホステスをしている。日本に来る前からそのことは知っていた。この店には20人くらいのフィリピン人の女の子が働いている。みんなは6ヶ月だけのVISAでやってきて、6ヶ月働いたらきっちりと国に帰る。帰ってからまた新しくVISAを取ってこの店に帰ってくる女の子もいる。ミユキもそうだった。この店は3回目だった。
タケシと知り合ったのは最初にこの店にきてすぐの頃だった。普通このような店の客は中年から年寄りが多いがタケシは20代の後半だった。なにか台所やトイレの水回りを修理する仕事をしているらしい。店が始まる時間までのデートのとき、彼はよく仕事着できた。デートといっても車で1時間ぐらいのところにある街まで行って、ホームセンターで買い物したり郵便局に行ったり居酒屋で食事をするくらいだった。店外デートしたあとは店が始まるまでに帰り、お客と一緒に店に入らなければならない。これが「同伴」で、女の子には店から1000円チップがでる。田舎のクラブとはいえ店の中では彼のブルーの作業服は目立つ。そういうとき、よくタケシは店に入る前に車のなかで着替えた。
この店は町と町をつなぐ県道のあいだにある孤立した村にある。文字どおりの村で、そこにはフィリピンでよく見るのと同じ田んぼか、もしくはビニールテント状で覆われたこの国特有の畑か、ほかには市場と役所、粗末な学校と公民館、ピンポン台やテレビゲームもある古いボーリング場、くらいしか無かった。客たちは近郊の町やほかの村から車でやって来る。仕事はさまざまだったが多くが自営業を営んでおり小金を持っていた。農家や工務店、自動車修理工場、ガソリンスタンド、理髪店主、住職などで、こういう人たちはほとんど毎晩店に来て、気に入ったコを2〜3人テーブルに呼び閉店まで陽気に騒ぐ。そのほかは教師や販売店員やここから10キロほど離れた自動車工場の期間工など、お金があまり十分でない客だ。タケシもそうだが、このような人たちは店でもあまり陽気に騒ぐことはせず、一人の女の子だけを指名してカラオケも歌わず、ずっと話をしたり、暗い席なら抱き合ったりしていた。
田舎の店は比較的よくあることだがここの店の女の子も何人か客と結婚した。結婚した娘も、結婚したあとに夫と一緒に店に来たりした。しかしこういう結婚はほとんどまもなく破綻する。2年目が境だろうか。さまざまな原因で亀裂が入ってから、忍耐もせずたちまち正式に離婚してしまう。女は乳飲み子を連れてフィリピンに帰る。別れる原因はきっかけはさまざまだが共通するのは「金」だ。
ここに働きに来ているフィリピン人は当然みな貧しい家庭から来る。フィリピンでは貧しい家庭で女の子が生まれれば、年頃になると「じゃぱゆき」になることがほとんど当然と考えられている。フィリピンでは一般の教育しか受けなかった人々はマトモな職などほとんど無い。大学を卒業した者でも選べる仕事は収入が低く将来的な保証もない。もちろん普通ならばそれでも食べてはいける。しかしほとんどが家族を多く抱え、そして今の貧困から脱出したいと考えれば、その為にはやはり金が要る。だから誰にしろ、まとまった収入を得るために国外に出稼ぎに行くことになるのだ。医療やIEなどの専門分野の資格と能力があれば別だが、ほとんどの場合、男は建築など単純労働で女はメイドになるか日本にホステスをしにいくか、そのどちらかだ。そして給料はメイドよりも日本に行く方がはるかに高い。
ホステスしているうちに自然と日本人の客と親しくなる。そこに本当の好意があるのかどうかは知らないが、そのうち寝床で愛し合うようになり、何人かはそのまま結婚する。そのさい女の側にある事情とはたいてい家族に送るお金だけだ。男の側の心中になにがあるのかミユキは知らない。店のフィリピン人と結婚する多くの日本人は日本人の奥さんがいるか過去に離婚している。たぶん、子供も成人して手もかからなくなりお金に余裕も出来きた中高年の男たちが、20歳前後の若い異国の娘を前にして、かつては十分に満たされなかった愛の欲求をまた新たに高ぶらせるのだろう。なんとなく「うまく行くはずはない」と、ミユキは仲間のフィリピン人が客と結婚するたびにそう思っていた。
実はミユキもタケシから結婚を申し込まれていた。
二年前に初めて日本に来たときから、タケシはミユキを指名するようになった。まだそのとき彼女は日本語が話せずカタコトの英語だけだった。それでも、タケシはもともと会話が好きな方ではなく、二人でソファに黙って座っていても苦にはならないようだった。それにしても、なぜ彼がミユキばかり指名したのか分からない。ほかに日本語が話せる、何回も日本に来て働いていた女の子もたくさんいるのに、あきもせずタケシはいつもミユキを指名した。
2回目、また日本に戻ってきたとき、3ヶ月してからミユキはタケシと寝た。彼女は20歳になったばかりだがフィリピンに子供がひとりいた。彼女が17歳のときに生んだ子供だ。相手は近所に住む5つくらい年上の男だった。フィリピンなら何処にでもいる、酒を飲む以外は何もしない男だった。子供のことを、タケシとの初めての夜に話した。彼は驚いたようだったが何も言わなかった。
「ミッケルというの」
「?」
「私のコドモよ」
そのときはそれだけだった。
ミユキの家はマニラからバスで5時間ほどかかるタガイタイというところにある。田舎できれいな海がある。家からバイクで10分くらいのところに長い砂浜があった。彼女の兄弟は全部で7人いて、下の4人を連れて行ってよくそこで泳いだ。上の兄二人は、小さい頃は学校から帰ってからいつも市場で父の仕事を手伝った。父は市場の屋台で魚介類をさばいて売っていた。父が麻薬中毒のイトコに刺されて死んで以来、兄たちは自分たちも麻薬をやり始めた。まもなく彼らは魚の屋台の権利を他人に売り払ってしまった。それから家族は困窮した。母はいつも泣いていた。そのとき彼女の子供も含めて家族は9人だった。母はマネキュアとペディキュアの道具を持って近所をまわり女性たちの手や足の先を仕上げてお金を貰っていたが、もちろん家族の生活のためにはそれは少なすぎた。いよいよ家賃が払えなくなったときミユキは18歳になっていた。母親は町の最小行政地区の長に2万ぺソをかりてミユキをマニラに送った。按配したのはそのとき町を訪れていたスカウトマンだった。最初のタームはサラリーの半分しか貰えないと彼は言った。芸能人として日本に行くためには当然査証が必要で、その査証のために必要な「芸能人証明書」を取るのが3ヶ月から半年かかる。その間のダンスや歌のトレーニング代とすべての居住費はプロモーションが立て替る。それらは、このスカウトマンの紹介料と一緒に彼女が日本から帰ってきたときサラリーから天引きされる。その後、2回目以降は借金はない。だがプロモーションのコミッションはずっと引かれることになる。彼女の手取りは400ドルだった。
タケシに結婚してくれと言われたのは日本に来て3回目のときだった。月給のすくないタケシはミユキの2回目の来日のころからあまり店に来なくなった。それでも月に2回くらいは顔を出していたが、そのときはもう体の関係があったので、よく店が始まる前に「同伴」でなくデートしていた。ミユキは、タケシが好きだったのかどうか彼女自身もよく分からない。今でも分からない。あまり喋らない人だが優しい。フィリピンの男たちより間違いなく優しい。お金が無いのに会うたびに3千円や5千円の小遣いをくれる。他に果物やケーキなどもアパートに持ってきてくれた。彼女の仲間は特定の男を作らずに小金持ちの年寄りたちとデートをしてたくさんお金を貰いフィリピンの家族に送っている。もっと上手くやりなさいよ、と仲間たちはミユキにアドバイスするのだがもともとミユキは客にねだったりするのが苦手だった。しかし彼女は中国系の血がすこし混ざっていて色白で、顔立ちが小さく体も小柄な、日本人が好きなタイプだった。だから店内の「指名」には困らなかった。
このままではとりたて問題はないはずだった。タケシの結婚は仲間たちがよくやるようになんだかんだ言いながら引き伸ばしていていればよかった。引き伸ばせば引き伸ばすほど相手はますます燃え上がりお金ももっとくれるようになる、らしい。それになによりもこの仕事は続けなければならない。ミユキは家族に頻繁に送金しているが、なぜか家族の生活は一向に良くならないのだ。むしろ悪化しているように彼女は思えた。また、プロモーションと交わした契約では最低6回は日本行かないと契約は終わりにならない。その間、結婚するのは自由だが仕事を止めることは出来ない。だから現実的に日本人と結婚することは出来ないのだ。もし約束された残りの期間で発生するはずのコミッションをまとめてプロモーションに払えば可能だが、もちろんタケシにそんなお金は無かった。とにかく、彼女にしても、今後もサラリーは必要である。
しかしあるとき、彼女の身に起こった二つの理由でこのまま店で働くことが出来なくなった。一つは彼女が妊娠したこと、もう一つは彼女の母親が狂いはじめたことである。
妊娠を知ったのは雪が積もり始めたころだった。タケシの子供でしかありえなかった。アパートの仲間に相談することもせず、その後、何日も一人で考えていた。妊娠したらうむを言わさずフィリピンに帰される。そして反則金として渡航にかかった全費用を返金させられる。もともとそういう契約である。だから仲間の中にはアフターピルを使って「流す」娘もいる。その薬はフィリピンから誰かしら常に持ち込んでいる。仲間の話によるとかつて「流した」子供の肉片を瓶詰めにして台所の下に隠したままフィリピンに帰った女もいたそうである。あとで発見されて大騒ぎになったらしい。とにかく妊娠した場合は国に帰るしかない。しばらくは日本に来られないが、生むか堕すかして、また日本に来ればよいのだ。
同じころミユキの母親の様子がおかしくなった。少し前に兄の一人が警察に捕まり、もう一人が病院に入院したのだが、そのために今まで以上にミユキに無心し始めた。タケシに事情を話して金をもらったり、店に借金したりして無理にまとまった金額を送っていたが、母はそれでも頻繁に電話をかけてきて金を要求した。やがて家族の親戚を通して知ったことだが、金は兄たちのためでなく、そのとき家に転がり込んでいた死んだ夫の弟のためにだった。その義理の弟はいつの間にか母と恋人関係になっていたらしく、母は彼のいわれるままに金を渡していたらしい。男はギャンブル狂いだった。ミユキは母にそのことを問いただすと、彼女はとにかく金を送らないと子供を、ミッケルを殺すと言った。ミユキの下の兄弟の一番上は15歳の弟だが、彼は男が弟たちに暴力を振るうと言っていた。ミユキはそれを聞いたとき怒りで気が狂いそうになった。怒りの対象は母ではなく男の方である。母は悪くないとミユキは思った。男が母を騙しているのだ。母を愛してなんかおらず、ミユキの仕送りだけが目当てなのだ。それは間違いなかった。
とにかく早くフィリピンに帰らなければならなかつた。ミユキは妊娠の件は伏せたままにして、家族に問題があるので帰国したいと店に申し出た。妊娠を隠したのは反則金のことを考えたからだ。また母のためにした借金もある。それは10万円ほどだったが、彼女はそのとき日本に着いてからまだ2ヶ月も経ってなかったのでサラリーはほとんどない。だからタケシに事情を話し助けてもらうことにした。彼はOKしたが、不当に高い利息の金貸しから借りるのだろうとミユキは漠然と考えた。
ところが上手くいかなかった。彼女のアパートの仲間が彼女の妊娠を店にバラしたのだ。それで反則金を20万円ほど払わなければならなくなり、その上、店と請負組織がミユキの帰国の許可を保留にしてしまった。「結婚するつもりだろう」と請負組織の社長が言った。このまま彼女がフィリピンに帰ればもう日本に来ないと思ったのだ。契約は3ヶ月で更新されることになっている。だから社長は、あと一ヶ月はここで働かなければならないとミユキに言った。もちろん彼女はそんなに待つわけには行かなかった。
このままでは本当に子供が殺される。ミユキはそう思うともうじっとしていられなかった。店のスタッフやフィリピンのプロモーションが社長と店長に話をしてみるから待っていろと言ってくれたが、ミユキは待たないことに決めた。タケシと一緒に逃げることにしたのだ。それが、雪が降りそそぐなか、彼女がアパートの外の積雪に足を踏み出したその日だった。
<続く>
この地方は雪は珍しくない。熱帯から来たミユキと他の同郷の者たちにとってこの地方の寒さは体にこたえるが、彼女たちはおおむね雪は嫌いではなかった。子供の頃、アメリカの映画のなかで雪のシーンを観てから、漠然と彼女は、あの白い物質が精錬された豊かな生活をもたらす恩恵であるような気がしていた。テレビからは当然寒さまでは伝わらない。空調設備もない、始終乾燥した熱射にあぶられる粗末な家に住んでいたミユキにとって、この雪の印象は此処でない別の世界、少なくとも汗やワキガや果物の腐臭がしない清潔な世界として、彼女の奥深い部分に隠された。他の女の子たちも同じような印象をもっているはずだ。彼女たちが逃れたかった貧困とは常に暑さとともにあった。
ミユキはフィリピンからこの地方に働きに来た。フィリピン・ショークラブでダンスをするためにやってきたが本当はホステスをしている。日本に来る前からそのことは知っていた。この店には20人くらいのフィリピン人の女の子が働いている。みんなは6ヶ月だけのVISAでやってきて、6ヶ月働いたらきっちりと国に帰る。帰ってからまた新しくVISAを取ってこの店に帰ってくる女の子もいる。ミユキもそうだった。この店は3回目だった。
タケシと知り合ったのは最初にこの店にきてすぐの頃だった。普通このような店の客は中年から年寄りが多いがタケシは20代の後半だった。なにか台所やトイレの水回りを修理する仕事をしているらしい。店が始まる時間までのデートのとき、彼はよく仕事着できた。デートといっても車で1時間ぐらいのところにある街まで行って、ホームセンターで買い物したり郵便局に行ったり居酒屋で食事をするくらいだった。店外デートしたあとは店が始まるまでに帰り、お客と一緒に店に入らなければならない。これが「同伴」で、女の子には店から1000円チップがでる。田舎のクラブとはいえ店の中では彼のブルーの作業服は目立つ。そういうとき、よくタケシは店に入る前に車のなかで着替えた。
この店は町と町をつなぐ県道のあいだにある孤立した村にある。文字どおりの村で、そこにはフィリピンでよく見るのと同じ田んぼか、もしくはビニールテント状で覆われたこの国特有の畑か、ほかには市場と役所、粗末な学校と公民館、ピンポン台やテレビゲームもある古いボーリング場、くらいしか無かった。客たちは近郊の町やほかの村から車でやって来る。仕事はさまざまだったが多くが自営業を営んでおり小金を持っていた。農家や工務店、自動車修理工場、ガソリンスタンド、理髪店主、住職などで、こういう人たちはほとんど毎晩店に来て、気に入ったコを2〜3人テーブルに呼び閉店まで陽気に騒ぐ。そのほかは教師や販売店員やここから10キロほど離れた自動車工場の期間工など、お金があまり十分でない客だ。タケシもそうだが、このような人たちは店でもあまり陽気に騒ぐことはせず、一人の女の子だけを指名してカラオケも歌わず、ずっと話をしたり、暗い席なら抱き合ったりしていた。
田舎の店は比較的よくあることだがここの店の女の子も何人か客と結婚した。結婚した娘も、結婚したあとに夫と一緒に店に来たりした。しかしこういう結婚はほとんどまもなく破綻する。2年目が境だろうか。さまざまな原因で亀裂が入ってから、忍耐もせずたちまち正式に離婚してしまう。女は乳飲み子を連れてフィリピンに帰る。別れる原因はきっかけはさまざまだが共通するのは「金」だ。
ここに働きに来ているフィリピン人は当然みな貧しい家庭から来る。フィリピンでは貧しい家庭で女の子が生まれれば、年頃になると「じゃぱゆき」になることがほとんど当然と考えられている。フィリピンでは一般の教育しか受けなかった人々はマトモな職などほとんど無い。大学を卒業した者でも選べる仕事は収入が低く将来的な保証もない。もちろん普通ならばそれでも食べてはいける。しかしほとんどが家族を多く抱え、そして今の貧困から脱出したいと考えれば、その為にはやはり金が要る。だから誰にしろ、まとまった収入を得るために国外に出稼ぎに行くことになるのだ。医療やIEなどの専門分野の資格と能力があれば別だが、ほとんどの場合、男は建築など単純労働で女はメイドになるか日本にホステスをしにいくか、そのどちらかだ。そして給料はメイドよりも日本に行く方がはるかに高い。
ホステスしているうちに自然と日本人の客と親しくなる。そこに本当の好意があるのかどうかは知らないが、そのうち寝床で愛し合うようになり、何人かはそのまま結婚する。そのさい女の側にある事情とはたいてい家族に送るお金だけだ。男の側の心中になにがあるのかミユキは知らない。店のフィリピン人と結婚する多くの日本人は日本人の奥さんがいるか過去に離婚している。たぶん、子供も成人して手もかからなくなりお金に余裕も出来きた中高年の男たちが、20歳前後の若い異国の娘を前にして、かつては十分に満たされなかった愛の欲求をまた新たに高ぶらせるのだろう。なんとなく「うまく行くはずはない」と、ミユキは仲間のフィリピン人が客と結婚するたびにそう思っていた。
実はミユキもタケシから結婚を申し込まれていた。
二年前に初めて日本に来たときから、タケシはミユキを指名するようになった。まだそのとき彼女は日本語が話せずカタコトの英語だけだった。それでも、タケシはもともと会話が好きな方ではなく、二人でソファに黙って座っていても苦にはならないようだった。それにしても、なぜ彼がミユキばかり指名したのか分からない。ほかに日本語が話せる、何回も日本に来て働いていた女の子もたくさんいるのに、あきもせずタケシはいつもミユキを指名した。
2回目、また日本に戻ってきたとき、3ヶ月してからミユキはタケシと寝た。彼女は20歳になったばかりだがフィリピンに子供がひとりいた。彼女が17歳のときに生んだ子供だ。相手は近所に住む5つくらい年上の男だった。フィリピンなら何処にでもいる、酒を飲む以外は何もしない男だった。子供のことを、タケシとの初めての夜に話した。彼は驚いたようだったが何も言わなかった。
「ミッケルというの」
「?」
「私のコドモよ」
そのときはそれだけだった。
ミユキの家はマニラからバスで5時間ほどかかるタガイタイというところにある。田舎できれいな海がある。家からバイクで10分くらいのところに長い砂浜があった。彼女の兄弟は全部で7人いて、下の4人を連れて行ってよくそこで泳いだ。上の兄二人は、小さい頃は学校から帰ってからいつも市場で父の仕事を手伝った。父は市場の屋台で魚介類をさばいて売っていた。父が麻薬中毒のイトコに刺されて死んで以来、兄たちは自分たちも麻薬をやり始めた。まもなく彼らは魚の屋台の権利を他人に売り払ってしまった。それから家族は困窮した。母はいつも泣いていた。そのとき彼女の子供も含めて家族は9人だった。母はマネキュアとペディキュアの道具を持って近所をまわり女性たちの手や足の先を仕上げてお金を貰っていたが、もちろん家族の生活のためにはそれは少なすぎた。いよいよ家賃が払えなくなったときミユキは18歳になっていた。母親は町の最小行政地区の長に2万ぺソをかりてミユキをマニラに送った。按配したのはそのとき町を訪れていたスカウトマンだった。最初のタームはサラリーの半分しか貰えないと彼は言った。芸能人として日本に行くためには当然査証が必要で、その査証のために必要な「芸能人証明書」を取るのが3ヶ月から半年かかる。その間のダンスや歌のトレーニング代とすべての居住費はプロモーションが立て替る。それらは、このスカウトマンの紹介料と一緒に彼女が日本から帰ってきたときサラリーから天引きされる。その後、2回目以降は借金はない。だがプロモーションのコミッションはずっと引かれることになる。彼女の手取りは400ドルだった。
タケシに結婚してくれと言われたのは日本に来て3回目のときだった。月給のすくないタケシはミユキの2回目の来日のころからあまり店に来なくなった。それでも月に2回くらいは顔を出していたが、そのときはもう体の関係があったので、よく店が始まる前に「同伴」でなくデートしていた。ミユキは、タケシが好きだったのかどうか彼女自身もよく分からない。今でも分からない。あまり喋らない人だが優しい。フィリピンの男たちより間違いなく優しい。お金が無いのに会うたびに3千円や5千円の小遣いをくれる。他に果物やケーキなどもアパートに持ってきてくれた。彼女の仲間は特定の男を作らずに小金持ちの年寄りたちとデートをしてたくさんお金を貰いフィリピンの家族に送っている。もっと上手くやりなさいよ、と仲間たちはミユキにアドバイスするのだがもともとミユキは客にねだったりするのが苦手だった。しかし彼女は中国系の血がすこし混ざっていて色白で、顔立ちが小さく体も小柄な、日本人が好きなタイプだった。だから店内の「指名」には困らなかった。
このままではとりたて問題はないはずだった。タケシの結婚は仲間たちがよくやるようになんだかんだ言いながら引き伸ばしていていればよかった。引き伸ばせば引き伸ばすほど相手はますます燃え上がりお金ももっとくれるようになる、らしい。それになによりもこの仕事は続けなければならない。ミユキは家族に頻繁に送金しているが、なぜか家族の生活は一向に良くならないのだ。むしろ悪化しているように彼女は思えた。また、プロモーションと交わした契約では最低6回は日本行かないと契約は終わりにならない。その間、結婚するのは自由だが仕事を止めることは出来ない。だから現実的に日本人と結婚することは出来ないのだ。もし約束された残りの期間で発生するはずのコミッションをまとめてプロモーションに払えば可能だが、もちろんタケシにそんなお金は無かった。とにかく、彼女にしても、今後もサラリーは必要である。
しかしあるとき、彼女の身に起こった二つの理由でこのまま店で働くことが出来なくなった。一つは彼女が妊娠したこと、もう一つは彼女の母親が狂いはじめたことである。
妊娠を知ったのは雪が積もり始めたころだった。タケシの子供でしかありえなかった。アパートの仲間に相談することもせず、その後、何日も一人で考えていた。妊娠したらうむを言わさずフィリピンに帰される。そして反則金として渡航にかかった全費用を返金させられる。もともとそういう契約である。だから仲間の中にはアフターピルを使って「流す」娘もいる。その薬はフィリピンから誰かしら常に持ち込んでいる。仲間の話によるとかつて「流した」子供の肉片を瓶詰めにして台所の下に隠したままフィリピンに帰った女もいたそうである。あとで発見されて大騒ぎになったらしい。とにかく妊娠した場合は国に帰るしかない。しばらくは日本に来られないが、生むか堕すかして、また日本に来ればよいのだ。
同じころミユキの母親の様子がおかしくなった。少し前に兄の一人が警察に捕まり、もう一人が病院に入院したのだが、そのために今まで以上にミユキに無心し始めた。タケシに事情を話して金をもらったり、店に借金したりして無理にまとまった金額を送っていたが、母はそれでも頻繁に電話をかけてきて金を要求した。やがて家族の親戚を通して知ったことだが、金は兄たちのためでなく、そのとき家に転がり込んでいた死んだ夫の弟のためにだった。その義理の弟はいつの間にか母と恋人関係になっていたらしく、母は彼のいわれるままに金を渡していたらしい。男はギャンブル狂いだった。ミユキは母にそのことを問いただすと、彼女はとにかく金を送らないと子供を、ミッケルを殺すと言った。ミユキの下の兄弟の一番上は15歳の弟だが、彼は男が弟たちに暴力を振るうと言っていた。ミユキはそれを聞いたとき怒りで気が狂いそうになった。怒りの対象は母ではなく男の方である。母は悪くないとミユキは思った。男が母を騙しているのだ。母を愛してなんかおらず、ミユキの仕送りだけが目当てなのだ。それは間違いなかった。
とにかく早くフィリピンに帰らなければならなかつた。ミユキは妊娠の件は伏せたままにして、家族に問題があるので帰国したいと店に申し出た。妊娠を隠したのは反則金のことを考えたからだ。また母のためにした借金もある。それは10万円ほどだったが、彼女はそのとき日本に着いてからまだ2ヶ月も経ってなかったのでサラリーはほとんどない。だからタケシに事情を話し助けてもらうことにした。彼はOKしたが、不当に高い利息の金貸しから借りるのだろうとミユキは漠然と考えた。
ところが上手くいかなかった。彼女のアパートの仲間が彼女の妊娠を店にバラしたのだ。それで反則金を20万円ほど払わなければならなくなり、その上、店と請負組織がミユキの帰国の許可を保留にしてしまった。「結婚するつもりだろう」と請負組織の社長が言った。このまま彼女がフィリピンに帰ればもう日本に来ないと思ったのだ。契約は3ヶ月で更新されることになっている。だから社長は、あと一ヶ月はここで働かなければならないとミユキに言った。もちろん彼女はそんなに待つわけには行かなかった。
このままでは本当に子供が殺される。ミユキはそう思うともうじっとしていられなかった。店のスタッフやフィリピンのプロモーションが社長と店長に話をしてみるから待っていろと言ってくれたが、ミユキは待たないことに決めた。タケシと一緒に逃げることにしたのだ。それが、雪が降りそそぐなか、彼女がアパートの外の積雪に足を踏み出したその日だった。
<続く>
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