哲学以前

日々の思索を綴ります

運動財

2017-06-14 20:34:57 | 日記
佐藤和兄さんの「武道の概念」に書かれた「武道財」なる概念を調べていたら「スポーツ運動学」の「運動財」という概念から来ているらしかった。

それで調べていくと、クルト・マイネルという旧・東ドイツの体育学者が「運動財」という言葉を使っていて、それは大修館書店から発行された『マイネル スポーツ運動学』に載っていると知った。

マイネルの『スポーツ運動学』を見ると旧社会主義国の体育学者だという感じが強く、スポーツ・身体運動の知見をエンゲルスの「財貨共有」の考えに結びつけているように思われた。

このマイネルの本を邦訳した金子明友さんという人は1960年のローマオリンピックに体操男子のチームリーダーとして参加し、後に筑波大学の教授になったようだが、その金子さんの学統を継ぐ筑波系の体育学者は「運動財」という言葉を現在でも使っているように思われた。

スポーツ・身体運動の知見を「人類の財産」だと捉える見解を否定はしないが、それが専門分科の「スポーツ運動学」の中にエンゲルスの「労働、財貨の論理」に絡めて登場するに至っては「科学」に関する理解がどこまで進んでいたのか?という疑問も生じる。

それはマルクス主義・マルクス経済学に繋げていく志向性だからだ。「運動に関する知見は財産」だと言っても、それが自由主義市場においてベンチャー企業が生き残りを賭けて運営するような事例を許容せず旧社会主義国家の「すべてが国有」の思想に繋がっていく発想、「財貨の共有」の発想の堅苦しさ、融通のきかなさを感じてしまう。

その通りに?旧社会主義国家であった東ドイツでは国威発揚という全体主義的な志向性の元に「オリンピックで成績を残す」という唯それだけの目的性のためにドーピングを施された選手の健康被害が続出したそうだ。

事例としてゲルト・ボンク選手が揚げられるという。

敬愛すべき先哲・佐藤和兄は『人間体育要論~ゆらぐ哲学に健は訴える』で「全体学としての哲学」を訴え、「中心となるのは健康である」との思考を、東ドイツがドーピング強化策を施行していく前の昭和30年代に主張していた。

「予測性」、哲学のその面を改めて意識しておきたい。



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