哲学以前

日々の思索を綴ります

旧約聖書

2017-05-18 18:47:00 | 日記

岩波文庫の『出エジプト記』を読んでいる。哲学の理解に聖書は必須だということが少しづつ解って来た。

そんな時に自宅のドアをノックする人がいる。出てみると小柄で小綺麗な60代くらいの女性が立っていた。

「聖書を勉強しませんか?宜しければ無料で差し上げますが・・・」という。

「え~と、どちらのご流儀のキリスト教徒さんですか?」と戸惑う私に

「エホバの・・・」
「あ~、私もこれから聖書の勉強しますけど、自分で買うから結構です。ありがとうございます。」

エホバといえば輸血を拒否するというので東大病院の看護師さんが嘆いていたが・・・。その問題は後々考えよう!

それよりも聖書について調べていくと『哲学以前』に書かれていることも理解できていくようだ。

「初めに『道』があって、これをたどって知らず識らずここまで来たものらしい、がしかし今はその道も霧の彼方に包まれたのか。初めに『行い』があって、それでここまで来たらしいが、今はそれさえ覚えていない。」(『哲学以前』)

この「初めにあった『道』」というのは旧約聖書の「道・デレフ」であり「霊的な旅路=主(神)が示した道」なのだろうし、「初めにあった『行い』」とは主(神)が最初の人間アダムと交わした「行いの契約」つまりは「知識の木の実を食べてはいけない」との約束を破り「食べてしまった」という行いなのだろう。

私が読んでいる『出エジプト記』は関根正雄さんが訳したものだが、関根正雄さんのご子息の関根清三さんは東京大学で旧約聖書と哲学との関わりを研究していたようだ。

古代哲学を理解するにはヘブライとギリシャの両方を(相互浸透?)知らねばならないようなのだ。

それにも当たって見ようと思う。
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