哲学以前

日々の思索を綴ります

廣松渉の至言

2018-01-12 06:36:12 | 日記
北千住の西口側にあったカンパネラ書房さんが無くなってしまったのは何とも残念なことであったが、東口にも古本屋さんが一件あり、ときどき利用させていただいている。

主に100円特価の安いのを買うわけだが、今回のその特価本は廣松渉と港道隆の『メルロ=ポンティ』。

ここに「現象学的限界」として廣松が興味深いことを書いている。

「メルロ=ポンティの「間主体性の哲学」は、以上で見てきたように、遺憾なことながら、十全に展開されぬままに終わっているが、それも決して単なる″時間切れ″の所為(せい)ではない。彼の間主体性論は、ほかならぬ現象学的哲学の方法論的構制そのもののもつ桎梏性の故に、しかるべくして磋跌したものと観ぜられる。ーーわれわれは、今爰(ここ)では、メルロ=ポンティ哲学の方法論的構制、況んや、現象学一般の批判的検討を事とする紙幅を残していないとはいえ、彼流の現象学的手法で以ってしては間主体性を十全に定礎しえない所以のものが奈辺に存するか、一端なりとも指摘して暫定的な結語に代えたいと念う。
 偖(さて)、メルロ=ポンティの哲学が、現象学の埓内では多分に特異であり、亦(また)そこに彼の独自性を認めうるにせよ、所詮は現象学としての方法論的限界を免れ難いこと、この間の事情を簡約に指摘する一具として、ヘーゲルが就中『精神現象学』において採っている手法を″媒辞″的に引照する便法にひとまず訴えることにしよう。」

「汎く識られている通り、「意識の経験の学」として起稿された経緯をもつヘーゲルの『精神現象学』においては、「即自的と対自的」「対自的と対他的」という道具立てのほかに、「フュア・エスとフュア・ウンス」という構制が導入されている。このうち、前二者、つまり、「即自ー対自」「対自ー対他」という概念装置は、変容された形においてではあるがサルトル-メルロの現象学にも採り入れられたのであった。ところが、「フュア・エスとフュア・ウンス」、すなわち「<当事意識自身にとって>と<学知的省察者にとって>」という構制は、サルトルやメルロ=ポンティにおいてすら、現象学に採り入れられていない。」
「」


これに関連して?『臨床哲学とは何か』という本が2014年に出ていて、榊原先生の「<われと汝>と<われわれ>」という論文に関係したことが書かれているかも知れない。

私、あなた、われわれ、という人称の問題は、ここでは客観的かつ普遍的な?学知の問題に繋がるのかも知れない。


つづく

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。