哲学以前

日々の思索を綴ります

推理小説

2017-06-17 17:15:36 | 日記
ひょんなことからポーの「盗まれた手紙」を読み返した。

「盗まれた手紙」を含めてポーのデュパンものは高校生の頃に相当に熱中したものだ。それは、同じような経験がある人も少なからずいるかも知れないが、三浦の弁証法の説明に使われていたからだった。

それを何十年も経ってあらためて読み直したのに深い理由はなかったが、やはり10代の頃とは違う読みが出来る自分を発見している。

それで、凝り性な私のことだから、そこから派生してくる問題を考えるために色々と参考文献を取り寄せた。

「盗まれた手紙」の冒頭に書かれたセネカの「叡智にとりてあまりに鋭敏すぎるほど忌むべきはなし」という金言にさえ関心を示し、ネットでは「この金言が書かれたセネカの著述は残っていない」なんて説もあったわけだが・・・・だが、セネカの著作の索引を見てみると「賢者の恒心について」という論考がソレじゃないかと思われた。

岩波文庫で読んでみると、「賢者の恒心」というのは現代的に言うと「鈍感力」とでも言うのだろうか、あるいは禅僧の悟りにも通じる、悲惨な環境にあっても悲惨だと思わないようなことらしく。

だから、この「本文の前に過去の金言を付ける」というスタイルはカントが純粋理性批判でベーコンの大革新から引用したりしていたから、何もポーが始めたものでもないのだろうが、本文の内容と上手く整合して居るようには私には思えない。

著作者としての私とポーとの感性の違い、個性の違いかも知れないが・・・・。

また、ボワロー・ナルスジャックの『推理小説論~恐怖と理性の弁証法』も取り寄せた。「盗まれた手紙」でのポーの手法を「盲点原理」として論じたという『江戸川乱歩随筆選』はまだ届かない。

どっちにしても「推理小説」の話であり、「マリー・ロジェの謎」で実際の殺人事件を新聞で報じられた記載のみから推理しようとしたポーの思索が的外れだったように、学術的な総括には使えないと強く感じる。

思索の襞(ひだ)が粗く浅いのだ。

だが、まあ、「犬も歩けば棒に当たる」というか、「点と点とを結ぶ」というか、想定外の繋がりに辿り着くセレンディピティーを経験するためにも「乱読」の必要性を改めて感じたことであった。

だから子供は、自分が定めたストーリーに従って読む本を選択していくことも必要だろうけど、まったく計画性の無い選択で本を読んでいく乱読が必須なのだと強く想う。


つづく
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 運動財 | トップ | Realからの反映 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。