哲学以前

日々の思索を綴ります

看護覚え書き

2017-02-13 21:37:54 | 日記

看護学者の小玉香津子先生と会ったのは何年前か?

「先生、こんにちは」と挨拶する私に対して一瞬ビクッと驚いた表情を浮かべ、すぐに冷静な顔に戻られたのを昨日のことのように思い出す。

そんなこともあって小玉先生の著書を読み解くことも私のライフワークの一つである。もっとも看護学は私の専門でないこともあり、現在の時点では放置したままであるけれど・・・・。

その小玉先生の『看護覚え書き1859』の次の箇所に注目したい。

「しかし、看護が意味すべきことは、新鮮な空気、光、暖かさ、清潔さ、静かさの適切な活用、食物の適切な選択と供給ーそのすべてを患者の生命力を少しも犠牲にすることなく行うことである。」(同書p9)

これと同じ箇所が助川尚子さんの訳である『看護覚え書 決定版』では

「看護とは、新鮮な空気、光、暖かさ、清潔さ、静けさを適切に保ち、食事を適切に選んで管理することーこれらのことすべてを患者の生命力になるべく負担をかけないように行うことを意味すべきである。」(同書p18)

そして、この看護者が行うこととされる行為を小玉先生の訳では

「その病気に避けられないよくあることと一般に考えられている症状あるいは苦しみは、その病気の症状などではなく、全く別の何かによるものである」(同書p9)

助川さんの訳だと

「一般に病気に必ずつきものであり付随するものと思われている症状や苦痛は、その病気の症状などではなく、まったく異なる別のことがら・・・のいずれかまたはすべてが欠けていることが原因の場合が非常に多いことである。」(同書p17~18) 

ここで「看護者が行う行為」とされるものは「患者の苦痛を取り除くこと」だと述べられているが、「その苦痛」が「病気の症状とは区別された苦痛」であることが肝要だと思う。

端的には、それは「生理的苦痛」と区別された「心理的苦痛」なのだろう。

だからナイチンゲールが述べた「看護の意味」とは「患者の心理的苦痛を取り除くこと」だと言えるのだろうが、そこには条件がついてきて小玉先生の訳だと「患者の生命力を少しも犠牲にすることなく」ということだし、助川さんの訳だと「患者の生命力になるべく負担をかけないように」ということになる。

だから換言するならばナイチンゲールが述べたのは「看護者の仕事とは、<医者の治療の邪魔をしないよう>に患者の心を喜ばせること」ということになるかも知れない。

だから、今手許には無いけれど、例えば薄井坦子さんの「生命力の消耗を最小にするように生活過程を整える」との規定は、規定自体に「患者の気持ち」を掬い上げていないから「誤訳」といっても良いと思う。

もちろん、他の書で薄井さんは患者の心を大事にすることの重要性を説いているから実際の看護教育では立派な看護者が育成されているのだと思うけど、「規定」自体は誤りだと思う。

それは「生理学的領域」に偏った規定だからだ。

ナイチンゲールが述べたのは「患者の心を満たしてあげること」であり「但し、医者の治療の邪魔をしないように」「患者が喜ぶからといって覚醒剤を与えたり、暴飲暴食させたりしない」といった当たり前のことなのだと理解する。

ナイチンゲールが述べたのは「患者の生命力の消耗を最小にすること」=生理学的アプローチではなく、心の負担を軽減する心理的アプローチなのだろう。

人前で裸になるのは命に別状なくとも嫌なものだ。その嫌なことを取り除くことは「命に関わるから、生命力の消耗に関わるから」では無い。心理的に嫌だからだ。

人生経験の長い人を罵倒するが如きは「命に関わらなくとも」慎むべきだ。理由は端的に「嫌だから、気分を害するから」である。


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