地上の楽園を求めた画家

 

 人間にはセンスというものがある。その画家の人間性はさておき、その絵の社会的価値を認め、その画業の歴史的意義を認めた上で、やっぱりその画家の絵を個人的に好きになれない。そういう画家もいる。
 で、私の場合、ゴーギャンの絵をよいと感じたことがない。今までゴーギャンの絵は何枚も観てきたし、これからもゴーギャン展には足を運ぶだろうに、あのプリミティブな神秘性を実感できない。……つまり、私はゴーギャンとはセンスが異なるわけだ。

 ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)は、ご存知、後期印象派の最重要な画家の一人。後期印象派というのは、どちらかと言うと誤訳で、実際にはポスト印象派(Post-Impressionism)、つまり印象派を超えた画派、という意味。

 ゴーギャンはもともと株式仲買人で、ただの日曜画家だったところが、趣味が高じて、当時前衛だった印象派のピサロから教えを受け、印象派展にも出品。この頃は仲間内から、「ピサロの下手糞な模倣」なんて評されている。
 株価の暴落をきっかけに、画業への専念を決意。生来、ゴーガン不遜な、尊大な、自信過剰な、楽天的なゴーギャン。金に詰まり、妻子と別居しても、
「最後には僕は第一級の仕事を成し遂げるよ。芸術において僕は結局、常に正しいのさ」

 ちょうど、自然を追求する印象派への反動から、画家自身の内面を暗示する象徴主義がブームとなりつつある頃。土俗の伝統を持つブルターニュの小村、ポン=タヴェンに移ったゴーギャンは、そこで自分の半分くらいの歳のエミール・ベルナールの、七宝細工(cloisonne)から霊感を得たという、単純な太い線で区切ったなかを純色で塗り潰して色面を作るスタイルに、感銘を受ける。
 これが、ポン=タヴェン派が用いたクロワソニスム(Cloisonnism)で、彼らの総合主義の理念を表現する手法となった。これによってゴーギャンもまた、対象の絵画的、装飾的な要素を様式化・図案化して表現する画風を確立する。
「自然をあまり模写しすぎちゃいかん。神に到る唯一の方法は、神のなすこと、つまり創造をすることだ」

 が、後にゴーギャンは、このスタイルを生み出したのは自分だ、と豪語。これにはベルナール、大憤慨。

 こんなゴーギャンだから、ゴッホと一緒にやっていけるはずもない。ゴーギャンを迎えるべく、心を配って丁寧に部屋を準備したゴッホ。だがゴーギャンは、寝室の壁をポルノグラフィで埋め尽くすような男なのだ。
 費用はゴッホ(実際は弟テオ)持ち、というウマい話に飛びついただけの彼は、ブルターニュでと同様、指導者を気取り、ゴッホを弟子扱いして、描き方まで横柄に指図したからたまらない。二人の生活は、あっという間に破綻。ゴーギャンは耳を切り落としたゴッホを捨てて、さっさとパリに逃げ帰った。

 そして数年後、突然、タヒチへと旅立つ。

 ペルーで育ち、若き日には船乗りとして中南米や南洋を渡航したゴーギャンが、西洋文明に失望し、色鮮やかでエキゾチックな未開地を希求してやって来た、南海の孤島。だが、すでにそこも西洋文明に蝕まれていた。
 それでもパリよりマシだろう、と、13歳のヴァヒネ(愛人)と暮らしつつ、絵を描く。が、相変わらずの貧困に加えて、やがて自業自得の梅毒にも冒され、やむなく帰国。

 だが、一度捨てた祖国では居場所がない上に、絵も売れない。再びタヒチへと渡り、14歳の新しいヴァヒネと暮らして絵を描く。
 そしてそのまま、辺鄙なマルキーズ諸島で客死した。

 ゴーギャンは確かに、芸術家ではあったと思う。野垂れ死に、万歳!

 画像は、ゴーギャン「アハ・オエ・フェイイ(おや、妬いているの)」。
  ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903, French)
 他、左から、
  「少女」
  「“黄色いキリスト”のある自画像」
  「イア・オラナ・マリア(マリア礼讃)」
  「アレアレア(楽しいとき)」
  「マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)」

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