東海岸の女サージェント

 


 私がセシリア・ボーの名を憶えているのは、彼女の描いた、黒猫を肩に乗せた女性の肖像のインパクトのせい。我が家には一時期、肩乗り黒猫ムスタファが居候していたことがあったため、件の絵は私の不動の贔屓を勝ち取っている。
 ……まあ実際、この肩乗り黒猫の絵は、ボーの代表作でもある。

 セシリア・ボー(Cecilia Beaux)は、アメリカの女流画家。サージェントに似た職人芸的な技巧と、モデルを偽りなく、けれども実物以上に美しく見せる演出とで、その肖像画は同時代のエスタブリッシュメントに人気を博した。
 同時代のアメリカ、ペンシルバニア州に生まれフランスに学んだ女流画家ということで、メアリー・カサットとの比較に挙がることが多いが、大抵ボーは、カサットの存在感の影に隠れてしまっている。

 が、個人的には、ホーソン「緋文字」のヒロインを思わせる、東海岸的な質素な人物画は、概ね秀逸だと感じる。

 以下、まとめ。

 母親が産褥熱で死んだために、母方の祖母や叔母らに育てられたボー。父親はフランスの絹工場主だったが、やがて事業に失敗し、ボーらを置いてフランスに帰ってしまった。ただ、この父には画才があったらしく、のちにボーも自身に流れるフランス芸術の血を自負するようになる。
 地元画家にレッスンを受けながらも、ほとんど独学で絵を学び、ペンシルバニア美術アカデミーで、アメリカ近代絵画の父トマス・エイキンズから、劇的な影響を受ける。写実を極め、耽美を加味して、すでに20代半ばには、地元フィラデルフィアの著名人から、肖像画の依頼が次々と舞い込む人気画家に。エイキンズと同じ相場で、稼ぐ、稼ぐ! 

 が、完璧を求めるボーは、さらなるスキルアップを目指し、求婚者らを撥ねつけ、家族の反対を押し切って、パリへと渡る。この時代の女流画家の例に違わず、修行先はアカデミー・ジュリアン。
 が、ボーがパリに来たのは、ちょうど、印象派の結束がぐらついていた時期。15年前、印象派の勃興期にパリを再訪したカサットが、有無を言わずに印象派をグイグイと吸収したのとは異なり、ボーは印象派の魅力に惹かれない。戸外制作も試してみたけれども、今ひとつピンとこない。
 新しい画家たちが、ポスト印象のそれぞれの方向へと向かう一方、ボーは古典的な写実を堅持する。ただ、色調は、印象派を知ったそれへと変化した。偏愛的な、うっとりとした魅惑の白そしてペール。

 アメリカに帰国後も、相変わらず支配層の肖像画を描き続ける。居心地の好い大家族に囲まれて、結婚もせず、娯楽も退け、叔父や叔母らを次々と亡くす悲嘆をも、ひたすら絵筆を取ることで克服する。紛れもない克己と闘争、けれどもそれは同時に立ち往生なのだ。
 ロバート・ヘンリ(Robert Henri)の主導する新しい流れは、ボーの属する体制画壇と衝突、1907年、自らを「アシュカン派(ゴミ箱派)(Ashcan School)」と命名し、反アカデミズムのアンデパンダン展を開催する。ボーらが一時的な流行だと思ったこの運動は、アメリカ絵画の転換となった。

 新しいアートシーンに抗して、古き良き古典スタイルで、鬼のように制作していたボーだったが、70歳間近、腰の骨折によって不具となり、健康の衰えとともに制作意欲も沈静、87歳の長寿で死去した。

 画像は、ボー「猫を乗せた娘」。
  セシリア・ボー(Cecilia Beaux, 1855-1942, American)
 他、左から、
  「少女、ファニー・トラヴィス・コクラン」
  「アリス・ダヴィソン」
  「ニュー・イングランドの女」 
  「黄昏の打ち明け話」
  「ランデヴーの後で」

     Bear's Paw -絵画うんぬん-
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